青いレモンの殺意
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チャプター
      


 ノートの最初のページには「松沢高校不正入試に関する調査報告書」と書かれていた。筆跡は交野のものだ。二ページ目以降にはここ数年にわたって松沢高校で行なわれた不正入試の手口とその関係者に関する調査報告が克明に記されていた。およそ信じ難い事だったけれど、貼付されている証拠物件を見てしまっては信じないわけにいかなかった。
 不正入試の手口のあらましはこうだ。まず、教師が願書を出してきた学生の中からめぼしい人物をリストアップし、仲介屋を立ててその親に不正入試の話をもちかける。
 料金は前金と後金に分けられていて念書を交わし、契約が反古されないようにお互いを縛っていた。
 契約が成立すると入試の採点を受けもつその教師が答案のすり替えを行なうらしい。つまり本来合格しているはずの学生が一人、不正を犯した人間のために不合格にされる仕組みになっているのだ。
 それだけでも許し難い話だったけれど、この仕組みを考えた人間はもっと厚かましかった。
 松沢高校は曲がりなりにも進学校で、入試の成績の上位三十名は、入学式の日に名前が張り出される。きっと、不正入試に一枚噛むような父兄には見栄っぱりな連中が多いのだろう。すり替えはその三十名の中に入っている学生と行なわれていたのだ。
 俺は心底腹を立てた。一所懸命に受験勉強に励んできた学生が、不当な扱いを受けていたことはどうあっても許せなかった。公立高校は受験日が一斉だから滑り止めを用意するという訳にはいかない。私立に入学できる程豊かな家庭でなければ犠牲者はその年の高校進学を諦めるしかない。いや、大抵の場合、浪人などとのんきな身分にはなれずに、永久に進学を諦めざるを得ないんじゃないだろうか。
 しかし、交野はなぜこの話を知って、調べ始め、調べ得たのだろう。
 ノートの後半はごわごわして分厚くなっていた。どうやって手に入れたかは知る由もないが、領収書や念書のコピーが貼り付けられ、このノートの内容が紛れもない事実だということを物語っていた。
 念書の束のなかに……、矢野の名前があった。少なくとも彼を殺したい程、憎む動機とその動機を持ち得る人物を俺は一つ掴んだ。交野が正義感にかられて殺したという可能性はどうだろうか?
「葛城君」
 不意に背中で声がして俺は飛び上がりそうになった。振り向くといつのまにか水野由布子が立っていた。
「まだ残っていたの」
 彼女が部屋に入って来たので俺は急いでノートを交野のカバンに突っ込んだ。
「事件のことを考えていたんだ」
 俺は平気な顔をして答えた。
「で、探偵さんは何か手がかりを掴めた?」
 俺の悪癖は、相当有名らしい。
「今の段階ではまだ話すことは何もないよ。ワトスン君」
 言って俺は、にやっと笑った。
「でも、俺なりにこの事件を調べてみるつもりだ」
「あの、わたし……、その……、ワトスンの役にしてもらえないかしら」
 水野は何度も口篭もりながら言った。
「あまり評判のいい人じゃなかったかもしれないけど、あんな殺され方って……酷いと思う。それに……」
 水野は口を一旦つぐんで照れ臭そうに笑った。
「わたし、推理小説が大好きなの。探偵の仕事にも興味があるし、ホームズなんて贅沢言わないからワトスンをやらせて」
「別に構わないけど」
 言いながら俺は訝しんだ。この内気な女の子をこれほど積極的にさせている原動力は何だろう?
 俺の発想はいつも懐疑的で少し意地悪だ。推理小説云々なんて話は端から信じていなかった。そう、水野も容疑者の一人なのだ。
「ありがとう。で、何から始めるの」
 俺の言葉を聞くと彼女は本当に嬉しそうに笑った。心の中に何を秘めているのか知らないけれど、彼女は手練れの役者だと俺は思った。
「まず、現場をもう一度見に行こう」
「でも、まだ立入禁止じゃないの」
「構うもんか」
 言いながら俺は屋根裏に上がる扉を開けた。先に俺が、続いて水野が梯子を上がった。現場は概ね昨日のままだったが、引き裂かれたテーマ・カードはもう片付けられていた。
「あそこに矢野君が倒れていたのね」
 矢野の倒れていた場所には白い人型が描かれていた。ストーブ、開いた窓は昨日のままだ。犯人はどんなトリックを使ってあのアリバイを工作したのだろうと俺は考えた。ふと、部屋の隅に山積みされているがらくたに目を遣った。野球のバットとグローブ、テニスのラケット、演劇部が使っていた仮面、何年にもわたって増えていった参考書。
 その中に、失くなっている物がいくつかある。演劇部が使っていた大きなマント、返り血を避けるために使われたそうで警察が押収していった。模擬店で使うはずだった包丁は凶器に使われた。先代の生徒会長が置いていったヘルメット、犯人はこれを失敬していったらしい。
 実はこのヘルメットにはちょっとしたエピソードがある。昨日、取り調べられている最中に一人の刑事さんがこのヘルメットを持って部屋に飛び込んで来たのだ。緊張した面持ちでその人は交野の親父さんに何か囁いた、囁き返す親父さんの言葉の端に「DNA」という単語を聞き取って俺はピクっと反応した。
「あのぉ。もしかして、そのヘルメットって犯行に使われたんですか?」
 交野の親父さんが、ぎろりとこちらを睨む。
「それで、もしかして付着している髪の毛を採取して、DNA鑑定しようとか?だったら、たぶん無駄ですよ」
「どういう意味だね」
「それって、屋根裏にあったやつですよね。横っちょに目立つステッカーが貼ってあるからすぐわかります。でも、そのヘルメットって不特定多数の人間が何度も被ってるんですよ」
 親父さんは怪訝な顔をする。当たり前だろう。普通、ヘルメットは持ち主以外に用事がなければ被るもんじゃない。ただ、先代の生徒会長のヘルメットとなれば話は別なのだ。彼には伝説に残るニックネームがあった。「ミスター・ウォーターメロン・ヘッド」――スイカ頭というわけだ。七十二センチあったという先輩の頭は並みのメットではてんで入らず特注だった。だから、他の誰が被っても頭の上で三百六十度回転してしまう代物だったのだ。先輩が在学中はこっそりと、卒業してからは――どうして、先輩がこのメットを置いて行ったかというのも一つのミステリーだが、それはまた別のお話ということで――大っぴらに、生徒会室に顔を出した生徒は誰もが一度はチャレンジしている。まるで、シンデレラの靴か王様の剣みたいだけど、いの一番に試したのは俺たち執行部の面々なのだから威張れたもんじゃない。その話をすると、警部は気の毒なくらいがっかりした顔をしていた。しかし、いくら顔を隠すためとはいえ、よりによってあのヘルメットを使うとは――。ぶかぶかとはいえ、そう簡単に外れるもんじゃないだろうけど。犯人は走るのに結構苦労したに違いない。

 でも、巧いやり方だ。その場にあるものを使えばそこから足がつくことはない。意識をがらくたの山に戻しながら俺は考えた。頭の中でさっきから何かが引っ掛かっているのだけれど、それが何なのかどうしても分からなかった。
 ほかには、あまり見るべき物もなかったので、俺らは生徒会室に戻った。
「何を考えているの」
 窓からぼんやりと校庭を眺めている俺に水野が尋ねた。
「殺人の衝動について。――今日はこれでおしまいにして帰ろう」
 俺は振り返って言った。
 生徒会室の鍵を掛けて階段を下りながら水野が聞いてきた。
「葛城君、家どこだっけ」
 俺は最寄り駅の名前を答えた。
「じゃあ、同じ方向ね。一緒に帰ろうよ」
「ああ」
「ねえ、殺人の衝動についてってどういうこと」
 横を歩く水野が俺の方に顔だけ向けて尋ねた。
「さっきの話かい。なぜ犯人は矢野を殺す気になったんだろうって考えていたんだ」
「殺人の動機ってこと」
「少し違うんだな。ミステリーでは便宜上、説得力のある動機があって犯行の機会があれば殺人は起きることになっている。まあ、謎解きを主眼にしている文学だし、基本的には事件が起きなきゃ始まらない物語なんだから仕方がないんだけどね。でも、現実の殺人は、そんな単純なものじゃないと思うんだ。殺したい程に憎み続けてきて、絶好のチャンスが訪れたとしても殺人が起きるとは限らない。相手を殺したいっていう衝動が、ある一線を越えなきゃだめなんだ。殺人を犯すきっかけとでも言うのかな。逆に衝動が一線を越えてしまえば、他人から見れば取るに足らない動機でも殺人は起きるし、機会は到来を待たれるんじゃなくて作られるんだ」
「おもしろい発想ね。今度の場合、その衝動ってどんなものなのかしら」
 俺達は校門を抜けて南に向かって歩いた。駅までは十五分程かかる。
「今のところはまるで、見当もつかない。ただ一つ言えることは、犯人の心の中で殺人の衝動がある一線を越えたのはごく最近、せいぜい一、二ヵ月前までのことだと思う」
「どうして?」
「あの殺人は計画的なものだったけど、何年も前から練りに練った計画という気はしない。殺し方一つとってみてもそうだ。滅多刺しにするというのは憎しみとそれにも増して強い怒りが原動力になっている場合だ。憎しみにしろ、怒りにしろ、芽生えた時が一番大きなエネルギーを持っていて、時が経つにつれて弱まっていくものだろ。二年も三年も前に起きた衝動ならその時に事件が起きているよ。それから、その衝動が一線を越えたきっかけって言うのは、本当に第三者から見るとそれこそ『何だそんなこと』って言うようなものじゃないかと思うんだ」
「どうして?」
 水野は同じ質問を繰り返した。
「だって、何の予兆もなしに唐突に事件は起きたように思わないか?少なくとも矢野が誰かと揉めたとか、誰かに付狙われてると言った話を俺は知らない」
 俺の言葉に黙って頷いて水野は同意の意思表示をする。
「でも、何かが矢野の周りでごく最近起きてなきゃおかしい。ということは、起きていたんだけど第三者である俺たちが気付かなかったようなことだったんじゃないかと考えたんだ。多分――、その線から俺が犯人を掴む事は難しいと思ってる。やっぱり事件の状況や特徴から犯人を特定できる手掛かりを見つけ出すしかないんだろうなあ。それに……」
 言いかけて俺は、はっとした。目の端に黒い影が映った。誰かが尾行けてくる。男?――、短い髪型――、背丈は俺と同じくらいあるようだ――。水野の方に顔を向ける振りをしながらそっと後ろを盗み見た。十メートル程後ろから、俺達と同じ歩速で本田圭治が歩いていた。



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