青いレモンの殺意
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チャプター
      


「お見事だわ、ホームズ」
 彼女は笑いながら言った。その笑顔はいつもと、ちっとも変わらなかった。
「でも、考えてもみて。急に髪型を変えたりしたらもっと怪しまれたと思わない?」
「動機を聞かせてくれないか」
 俺はそれには応えずに問い返した。
「ねえ、あなた自分で気が付いていた?あなたの歌声ってとてもきれいなのよ」
 水野ははぐらかすように、また笑いながら言った。
「もう一度『おさななじみ』を歌ってみせてよ」
 俺は、何か言い返そうとしたのだが、言葉が喉につかえて出てこなかった。水野の大きな瞳が真剣に俺を見つめていて、喉が竦んでしまったのだ。
 俺は仕方なく、肩をすくめて喉を緩めると彼女の瞳を見返したまま歌いだした。
「幼なじみの思い出は 
 青いレモンの味がする。
 閉じるまぶたのその裏に
 幼い姿の君とぼく……」
 俺の歌を聴いている水野の目尻から、不意に涙がこぼれた。――俺は歌い止めてじっと彼女を見た。水野は静かに頬の涙を拭いとると、話し始めた。
「家の近所に裕介君ていう子が住んでいたの。わたしと二ヵ月違いの誕生日で、幼稚園も、小学校も、中学校もずっと一緒だった。よく本の貸しっこをしたり、学校の帰りに遊んだり、中学の頃は一緒に宿題をしたりしてたわ。初恋の人とかいうんじゃないの。もっと……、何て言ったらいいのかな……。そう、彼はわたしにとって空気みたいな人だった。そこにいるのが当たり前だったのよ。わたしは彼のことを『裕ちゃん』って呼んでいて、彼もわたしのことを『由布ちゃん』って呼んでいて、たったそれだけの事で心がくすぐったくなるようなそんな友達だったの。去年わたしが松沢を受けるって話したら、裕ちゃん、『なら、俺も松沢を受ける』って言ったの。わたしと同じ高校に行きたいんだって、顔を真っ赤にして、何度もつっかえつっかえ言ったの……。彼なりの真剣なプロポーズだったのよ。嬉しかった……。彼に打ち明けられて初めて気付いたの。それまで自分が感じていたよりずっと、裕ちゃんはわたしにとって大切な存在だったんだって。松沢はわたしにとっても、彼にとっても、難関だったけど、その日のことを思い出すだけでわたし幾らでも頑張れた」
 水野は遠い目をしながら続けた。
「彼……、不合格だった。合格発表の日、悔し涙流しながら『おかしい。おかしい』って何度も言い続けていたわ。わたしどうやって慰めたらいいのか分からなかった。次の日、彼はもう家にいなかった。受験勉強の息抜きだって言って、秋に一緒に遊びに行った海に飛び込んで死んだわ……。今年の五月頃わたし、交野君のノートを見てしまったの。ほら、あなたが慌てて交野君のカバンに突っ込んだあのノートよ」
 水野は悪戯っぽく笑った。
「裕ちゃんは本当はわたしなんかより、ずっといい成績で合格していた。だのに、矢野君の不正入学の犠牲にされたの。わたし心の中であの人たちを罵った――裕ちゃんを返せって。矢野君も、彼のお父さんも、先生も、みんなまとめて死んじゃえって。……、死ねって。死んで裕ちゃんに詫びろって。でも、もちろん殺すことなんかできなかった。恐かったし、人殺しは、人殺しでしかないことは分かっていたから――。あなたが言うようにたとえ動機があっても、殺人事件が起きるとは限らないのよ」
 水野の目は、今までに見たことがない程鋭かった。
「それでも、学園祭の寸劇で『おさななじみ』を演ろうっていう意見が出た時、わたしそれだけは堪忍してほしいと思った。いやでも裕ちゃんのことを思い出しちゃうし、矢野君と組んで幼なじみの恋人同士を演じるなんて死んでも嫌だった……」
 不意に水野の表情が揺れて、また泣きだしそうになった。水野はぎゅっと唇を噛んで涙が零れるのをこらえようとしている。
 俺は彼女の顔を見つめたまま辛抱強く次の言葉を待った。
 やがて、彼女は口を開くとぽつりと言った。
「あいつ……、本当にキスしたの」
 俺らの足元を風が吹き抜けて彼女のスカートをはためかせた。
「二週間前の寸劇の練習をしている時、あなたの言う殺人の衝動が一線を越えてしまったんだ……と思う。あなた達は両脇で歌っていたから、気付かなかったと思うけど、傘の陰であいつ……、あいつ……。本当にくちびる、押し付けてきたの」
 水野はまた唇を噛んで、黙りこくった。音が聴こえてきそうなほど肩を、体を震わせている。
「裕ちゃんを奪っただけじゃ飽き足らないの?なんで、遊び半分であんなことする男が生きてるのに、裕ちゃんは死ななきゃいけなかったの?裕ちゃんがあいつに何か悪いことしたの?ぐるぐるぐるぐる――、嫌な気持ちで頭の中が一杯になって、顔を離した後に見せたあいつのいやらしい笑い顔が頭にこびり付いて離れなくなって、そしたら、頭の中がかっと熱くなって……」
 水野の言葉がふっと途切れた。ぜいぜいと息を切らせて激しく肩を上下させながら、じっと俺の肩越しに宙の一点を睨んでいる。
 長い沈黙のあと、まるでふと思い出したかのように……。低い声でぽつりと水野は呟いた。
「殺してやるって思った。……、あのとき、私の中で何かが切れてしまったみたい」
 水野はもう一度、肩を大きく震わせた。その目がふっと潤んだ。
「わたしを見付けてくれてありがとう。あいつを殺すまでは無我夢中だったけど、殺した途端後悔したの。取り返しの付かないことをしてしまったんだって。何度も警察に行こうとしたけど、恐くて結局行けなかった。でも、警察が捜査を進めてわたしを逮捕しに来るのをじっと待ってるのも恐かった。今日かもしれない、今日は大丈夫だったけど明日かもしれない。そんなことばかり考えてると気が変になりそうだった。だから、じっとしていられなくて自分から何か行動を起こしたかった。でも、誰かに打ち明けられるような事じゃないし、ずるいやり方だとは分かっていたけどあなたに賭けることにしたの。あなたなら、いつか真相に辿り着いて警察に話してくれる気がしたから。あなたのそばにいれば、それがいつか分かると思ったから。一つ読みが外れたのはあなたが直接警察に行かずに、わたしに報せてくれたことね」
「君に黙って告げ口するのは悪い事のような気がしたんだ。やっぱりワトスンを裏切る訳にはいかないじゃないか」
「……、ありがとう」
 彼女の目尻から泪がこぼれだした。そのまま彼女は俺の肩に額をのせてしばらく泣いていた。
「本当に恐かった……。毎晩、毎晩、眠ろうとすると心の中で悪魔がささやくの。次はあいつの父親を殺せ、あの先生を殺せ、一人殺してしまえば二人も三人も同じ事だって。わたし、また誰かを殺してしまいそうだった。もう……、誰も殺したくなんかなかったのに……」
 水野は俺の肩の上でしゃくり上げていた。俺はぎこちなく彼女の肩を支えてやりながら、彼女が体の力を抜いて俺に寄りかかっているのを感じた。心底、気持ちが楽になったのだろう。
「交野の親父さんの所に行こうか。多分、警察よりは気が楽だよ」
「うん」
 彼女は少し照れ臭そうに笑った。少しだけれど、俺は報われた気がした。少なくとも、彼女は連続殺人犯にならずに済んだのだ。

 あれから二週間が過ぎた。水野の処分はまだ決まっていない。交野のノートが親父さんに手渡され、関係者が一斉に逮捕されたことは新聞にも書かれていたから周知のことと思う。実はあのノートは交野と安田の共同作業だったらしい。交野達が不正入試のことを知ったのは去年の今頃だった。資料の整理で安田と遅くまで残っていた日、使っていないはずの応接室の明かりが点いていたので、消しに入ろうとしたのがきっかけだった。首謀格の二人の教師の密談を二人は聞いてしまったのだ。
 それから、持ち前の正義感と生徒会会長、副会長の立場を利用して一年がかりで二人が調べ上げた成果があのノートだったというわけだ。俺は改めて二人の行動力を見なおした。
 学校はまた平静を取り戻した――。生徒会室の窓から校庭を眺めていると、「よう」と言って本田が近付いて来た。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「どうして、あの時俺たちの後を尾行けたんだ」
 本田は怪訝そうな顔をしたが、すぐに何の話か気づいたようで、肩を震わせるとくつくつと笑い出した。それから、いつもの渋面に戻ってむっつりと言った。
「別に、尾行けたわけじゃない」
 少し照れ臭そうな顔になって本田は後ろを向いた。俺は思わず吹き出してしまった。何だそういうことか。本田のズボンには、まだ新しい継ぎあてがしてあった。
「俺、水野のことがちょっと好きだったんだ。ズボンが破れているのにお前達の前を歩く訳にいかないじゃないか。そうかといってあの道を通らなきゃ帰れない。お前達がさっさと行ってくれればいいのにと、ずっと思いながら歩いていたよ。それが角を曲がったらお前たちの姿が見えなくなっていたんで、今のうちだと思って一目散に走って帰ったのさ」
 俺達はひとしきり低く笑った。まあ、俺の推理なんてこんなものだ。
「彼女、罪が軽いといいな」
「ああ」
 言って本田は空を見上げた。本格的な冬の到来を告げるように、木枯らしが吹き過ぎた。春遠からじとは言い難かったけれど、それでもいつかまた春は来る――。そんな思いが俺の胸の中を駆け抜けていった。



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