六月の花嫁
<2>

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チャプター
       


 校門のところで若葉は石をけりながら考え込んでいた。――カバンどうしようかな。
 教室には戻りづらいし、カバンを放ったらかしにして帰るのも気がひけた。
 いいや。今日は、宿題出なかったし、カバンがなくても困らない――ビー玉くらいの砂利石を一つけ飛ばして若葉は歩き始めた。
 校門前の交差点を渡って真っすぐ行くと電車の駅に出る。そこを左に折れて駐輪場を過ぎると、駅前商店街だ。商店街の真ん中に立っている大時計を見上げて若葉はまたため息をついた。5時15分――。早く帰って夕飯の支度をしなければいけない。お父さんが工場から6時には帰ってくる。
 肉屋と、八百屋で手早く材料を買ってアーケードを抜けた途端、今日いくつ目になるかわからない『ついてないこと』が空から降ってきた。先週の天気予報で梅雨入りが宣言されていたけど、昨日までは一滴も降らなかったくせに――。若葉は唇をかんで、恨めしげに空を見上げた。
 春先によく降るような小糠雨で、どちらかと言うと霧に近いようなつぶの細かい雨だ。ひと筋向こうの通りを、どこかの高校生が頭にカバンをかかげて、駆けていくのが見えた。
 すぐ止むんじゃないかな。そう考えて若葉は雨の中を飛び出して行った。

 五分後――。若葉はシャッターの閉まっているタバコ屋の軒先に立っていた。目の前で夏の夕立のような雨が降っている。心底また泣きたいような気持ちになった。ちょっと油断すると、すぐにのどが鳴りだしそうだ。
 遠くで終鈴が聞こえる。若葉の中学校の部活員に下校を促す合図だ。五時四十五分――もうすぐ夏至なので本当ならまだまだ明るい時分のはずだのに、すっかり薄暗くなった空に応えるように街灯が雨足の向こうで一つまたたいて灯った。
「どうしよう」
 口をヘの字に曲げて、若葉はつぶやいた。家までは駆け足でも15分はかかる。容赦ない雨足をそろっとのぞき込むように若葉は首を突きだした。その途端首筋に冷たいものが落ちてきたので慌てて首をすくめた。
 雨垂れかしら、反射的に衿のあたりに手を伸ばした若葉の指先に冷たいものが触った。何か薄っぺらい金属でできたものだ。服に入り込まないようにそろっと指でつまんだ。
 首筋に降ってきたのは鍵だった。
 でも変な鍵ねえ――。若葉が思ったのも無理はない。全部で4センチ足らずのちっぽけな鍵なのだが、そのうちの2センチくらいが丸い形をした持ち手になっているのだ。肝心の鍵の部分と不釣り合いなので誰でも首を傾げてしまう。
 薄い円盤になっているその持ち手には若葉が見たことのない文字――アルファベットじゃないわねと思った――が刻まれていた。持ち手に比べて小さく見劣りする鍵の方は、それでも先の方に小さな枝が沢山でていて、複雑な形をしていた。
 どこから落ちてきたんだろう――、もう一度若葉は首を伸ばしたが雨が激しく降ってくるばかりだ。もう一度鍵に目を戻してからポケットに入れた。捨てるのは気が引けたし、――もともと物を捨てるのが苦手な質なのだ――誰かに返すにも周りには誰もいなかったからだ。
 雨は一向に止まない。大きく息を吸い込むと思い切って若葉は走りだした。

 家に着いた時には袖からもスカートからもぼたぼた水が落ちていたし、髪の毛はべったり顔にくっついていた。三和土にはたちまち小さな水溜まりができたが、構わず下駄箱をあけて雑巾を出した。靴と靴下を脱ぐと手早く足を拭いて玄関に上がった。
 五分もすると濡れた衣類は風呂場で干され普段着に着替えた若葉はタオルで髪を拭いていた。いつのまにかそんな段取りの良さが当たり前に身についているのだ。だから6時半を過ぎて拓也が顔を出した時には夕飯の支度はひと区切りついて、出来上がりを待つばかりになっていた。
「――ごめんな」
 若葉のカバンを手渡しながらしきりに拓也は繰り返した。
「ううん――。ちょっと疲れてただけだから――」
 あんな風に若葉が飛び出してしまったから女子の槍玉に上がったんじゃないだろうか、カバンだって半分は無理矢理持たされたのに違いない。そんな風に考えると若葉は却って申し訳ない気がした。
「おばさんは?」
玄関からのぞき込んで拓也は聞いた。
「ゆうべ入院したの」
 まじまじとエプロンを掛けた若葉を見下ろしながら、
「お前ん家も大変だなあ――、何か手伝うことないか――」
「いいよ。もう夕飯の支度も済んじゃったし」
「ふうん――」
 拓也はまだ何か言いた気に若葉の足元をもじもじと見詰めていた。
「本当に――」
 若葉はくすくす笑い出してしまった。
「大丈夫だってば。電気びっくり箱のことは気にしないで。でも――、誰かれなしに試しちゃだめよ。人によったら危ないかもしれないじゃない」
 若葉は見上げるようにして拓也をちょっとにらんだ。
「わかったよ。本当にお前はうちの母さんみたいだな」
 言いながらそれでも、ほっとした顔になって拓也は帰って行った。
 台所に戻って煮物の具合を見ていると電話が鳴った。若葉の肩がびくっと震える。病院だろうか?急いで濡れた手をタオルでふき、玄関の横の電話にかけよった。
「もしもし――」
「若葉か」
「何だお父さんか。病院から電話かと思っちゃった」
「何だはないだろう。今日残業になりそうなんだ。悪いが夕飯を先に食べておいてくれないか」
「――わかった」
「何時になるかわからんから、戸締まりをしっかりな」
「うん」
 すぐに現場に戻らなければならないのだろう。用件だけ告げるとお父さんは電話を切った。若葉は受話器を置きながらため息をついた。しばらく、うつむいたまま身じろぎもしない。いったいついてない事は、いくつ目になったんだろう。
 若葉のお父さんは工場勤めだから毎日6時に帰ってくる。ところがたまに機械の故障や何かが起きると修理のために残業をすることになる。そうなると、もう何時に帰ってくるのか分からない。ときには徹夜することだってあるのだ。
 若葉はお父さんの食器をしまいながら下唇をかんだ。今日は本当に疲れているらしい。ご飯を食べてもちっともおいしくないし、楽しいことを何か思い浮べようとしても一向に『楽しいこと』は浮かんでこなかった。
 それでも洗い物を済ませてお風呂に水を入れる頃には少しは気分が晴れて、読みかけの小説でも読もうかなという気分になってきた。



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