六月の花嫁
<3>

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チャプター
       


 一人っ子で、しょっ中鍵っ子のような夜があるというのに不思議なほど若葉はテレビを見ない子だ。生れつき――と自分でも思っているのだが――空想癖があってあれこれ想像することが大好きなのでテレビよりも自分で好きなように情景を描ける読書の方が性に合うのだろう。
 台所の隣の4畳半が、若葉の勉強部屋だ。蛍光灯を点けて机の横の本棚に手を伸ばそうとした若葉の目の端に小さな黒いものが映った。
 そうそう、すっかり忘れていたなあ。若葉は心の中でつぶやいた。タバコ屋の軒先で拾ったあの小さな鍵を机の上に置いていたのだ。とりあえず、小説は後回しにして椅子に座った。電気スタンドを点けると、改めて持ち手に刻まれている不思議な文字に目を凝らした。。
 英語でも中国語でもない。アラビア文字?違うような気がする。
 何の鍵だろう。セカンドバックか小物入れにしては大きすぎる。でも扉の鍵にしては小さすぎる。それに細い心棒にいっぱいついた小さな枝。よっぽど複雑な仕掛けの鍵よね。若葉は忙しく空想をめぐらせた。大きさといい形といい何の鍵といっても似合わない。けれど、何の鍵といってもうなづけてしまうような気もする。何の鍵でもなくて何の鍵でもある不思議な鍵。
 ふっと若葉の口元がほころんだ。どんな厳重な錠前でも、たちどころに開いてしまう魔法の鍵・・
・。いたずらっぽい目で若葉は部屋の中を見回した。そう考えると何かで試してみたくなったのだ。何か鍵のついたものなかったかなあ。
 ――あった。若葉の目は本棚の上の飾り棚で止まった。ガラスの引き戸を開けて両手を入れると、そろっと小物入れを出した。飾り棚には、他にもガラス細工の動物や人形が沢山並べてあるのでうっかりすると手が当たって落ちてしまうのだ。
 若葉は、いそいそと小物入れを机の上に置いた。四角い箱にかまぼこ型のふたのついた大昔の旅行トランクのような形をしたこの小箱は若葉の宝箱だった。箱の四方は、ヨーロッパの森の風景が浮き彫りになっていて、鹿や兎が走っていたり、牧童が娘と踊っていたりする。でも中はもっと見事だったのだ。目の醒めるようなぶどう色のビロードが敷き詰められていて、ふたを開けると若葉の大好きな「ロンドンデリー」のオルゴールが鳴った。
 お母さんが初めて入院したとき――若葉がまだ三歳の頃だ――、夜になると若葉はよく布団の中で寂しがって泣いていたらしい。お父さんが、その話をお母さんに伝えたのだろう。体調が持ち直して久しぶりに家に戻ってきたとき、お母さんの小物入れだったこの箱は若葉に譲られた。いつのまにか若葉は子守歌がわりに「ロンドンデリー」を聞くようになっていた。若葉はこの箱のなかにビ――ズや綺麗な色のガラスのかけらを入れては、鍵を掛けて大事にしまったものだ。
 あれは若葉が小学校の2年生の頃だっただろうか。やっぱり梅雨時の集中豪雨で学校が休校になった日、家の前で遊んでいて――雨は昼前に上がってしまっていた――、若葉はうっかりポケットに入れたままにしていた宝箱の鍵を溝に落としてしまった。折からの増水で鍵はあっという間に流れていってしまった。若葉はわあわあ泣きながら捜したけれど結局見つからなかったのだ。
 だから、この箱はその日から一度も開いていない。
 若葉は、鍵をつまむと恐る恐る小箱の鍵穴にあてがった。けれどすぐにため息をついてまた鍵を置いてしまった。こんな四方八方に枝の伸びた鍵がこんな小っちゃな穴に合うわけないじゃない。
 でも、もし本当に魔法の鍵だったら――。若葉はもう一度鍵をつまみ直すと鍵穴にあてがってぐっと押してみた。
「えっ」
 若葉は思わず声を立てた。四方八方に伸びた枝はまるで蝶番がついているようにパタパタと倒れて何の抵抗もなく持ち手のところまで鍵穴のなかに納まってしまったのだ。持ち手をゆっくりと回してみる。
――カチッ――。(鍵が開いた。)バネ仕掛けのふたが勢いよく開く。
 一瞬「ロンドンデリー」が流れだしたような気がして若葉は、耳をそばだてた。けれども空耳だったみたいだ。ふたの開いた宝箱からはいつまでたってもオルゴールは流れてこなかった。
 どうしたのかしら――若葉は中をのぞき込んだ。ビーズもガラス玉も見えない。黒くて四角い穴がぽっかりと開いているだけだった。
 宝箱を持ち上げて静かに振ってみる。さらさら、カチカチ――ガラスのぶつかり合う音が確かに聞こえる。改めて机の上に置き直してのぞき込むとやっぱり黒い穴が開いている。
 変なの――。若葉は、首を傾げてちらちらと盗み見るようにその穴に目をやった。じっとのぞき込んでいるとその穴に引き込まれてしまいそうな気がしたのだ。
 できるだけ箱の中を見ないようにしながら、そろそろと手を伸ばして鉛筆立てから一番長い鉛筆を抜き取った。何となくこの黒い穴が底なしのような気がして、試してみたくなったのだ。手を伸ばして鉛筆を箱の真上に持って行くと、真っすぐに立てて黒い穴へとゆっくり下ろしてゆく。
 手元まで突っ込んでもまだ底に当たらなかったらどうしようかな――少し胸を弾ませて半ばそんな想像をしていた若葉は顔をしかめた。カツンと音を立てて鉛筆は箱の縁で何か硬いものにぶつかってそれ以上突っ込めなかったのだ。恐る恐る指で触ると、まるで箱の縁にそってガラスが張ってあるような冷たい感触が伝わった。どうやらその向こうの黒い穴は、こちらからは触れられない世界みたいだった。
 いったいこれは何なんだろう。いつの間にか若葉は、この不思議な黒い穴に夢中になっていて、疲れていたことも、淋しかったことも忘れていた。指で二度、三度その見えないガラスを弾いてみる。それから今度は、指の腹でなでてみて冷たい感触を楽しんだ。と、急にガラスの向こうが明るくなった。若葉は慌てて指を引っ込める。見てはいけないものが現われるような気がして目をそらせようとするのだがうまくいかない。白く光っている宝箱に釘づけになったままだ。
 拓ちゃん――?ガラスの向こうに拓也がいた。畳み敷きの部屋の蛍光灯をつけたところらしい。ガラスの向こうの拓也はそのまま部屋の隅の机の方に歩いていった。机の横に立てかけてある学生カバンを開けると例の電気びっくり箱を取り出した。机の隅にのっている布きれでチョコレートのふたを開けると中から薄い板を引っ張り出した。板には四角くて黒い部品や細長くて茶色の地に赤や黄の縞模様の入った部品がくっついていた。拓也は左手でその板を支えておいて右手で黒いスイッチを切った。パチンと音がして、若葉は向こうの景色から音が伝わってきていることを初めて知った。
 テレビみたい――。若葉は思った。でもこの光景はいったい何なんだろう。宝箱の向こうでは、はんだごてを温めていた拓也がさっきの板にくっつけていた部品をバラしはじめていた。
 本当に好きねえ――若葉は、思わず笑ってしまう。拓也がラジオのスイッチを入れたので見えないガラス越しに音楽が聞こえてきた。でも当の拓也自身はその音楽が耳に入っているのかどうか忙しく手を動かすことに熱中している。
 もっと見ていたいけど――。我にかえった若葉は、そう思いながらも急いで宝箱のふたを閉めた。何だかのぞき見をしているような気がしてばつが悪かったのだ。
 今見た光景が何だったのかは分からないけれど、これは正真正銘の魔法の鍵なんだわ。若葉は改めて鍵をつまむと、持ち手の不思議な文字に目を凝らした。その文字を指でひと撫でしてみる。
 やおら立ち上がって洋服ダンスの引き出しを開けると、一番お気に入りのレモンイエローのハンカチを取り出した。鍵の先をつまんで静かに息をはきかけて、ハンカチの隅でこする。それから、ハンカチで丁寧に包むと勉強机の引き出しにしまった。何となく大切に扱わないといけない気がしたのだ。
 落ち込んでいたのがうそのように気持ちが軽くなって、てきぱきと体が動いた。お風呂を沸かして、乾いた食器に布巾をかけて、片付けて、お風呂に入って――、急に疲れが戻ってきたようで若葉はぐっすり眠った。



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