六月の花嫁
<4>

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チャプター
       


 次の日若葉が目をさましたとき、お父さんはまだ帰っていなかった。徹夜だったらしい。支度をすませてテーブルの上のお父さんのご飯に布巾をかぶせて、若葉は家を出た。
「お早よう」
 玄関に鍵をかけていると拓也の声がした。若葉が振り返ると生け垣から拓也が首を突き出していた。
「お早よう」
「これやるよ」
 拓也は、手を伸ばしてチョコレートの箱を差し出した。
「だって、それ――」
「夕べ改造したんだ。もう電気びっくり箱じゃないから」
 ちょっときまり悪そうに拓也は笑った。少し迷ったけれど結局若葉は生け垣の方に歩いて行った。
「開けてみなよ」
 箱を若葉の手の中に押しつけるようにして渡しながら拓也は言った。若葉はちょっと目を細めて上目づかいに拓也の目を見る。それからもう一度チョコレートの箱に目を戻してふたの縁に爪を引っ掛けるようにして恐る恐る開いた。
 途端――、若葉の体は小さく震えた。箱からは電気の代わりに耳馴染みの音楽が流れてきたのだ。
「ロンドンデリー」だわ。少し甲高いその音を聞き分けるのにいくらかひまがいった。
「その曲好きだって言ってたろ。あげるよ」
 若葉は、もう一度拓也を見上げた。よく見ると目が赤い。――徹夜したのかしら。若葉が口を開いて何か言おうとすると、さえぎるように拓也が急いで口を開いた。
「じゃあ、先に行くから」
 よほど照れくさかったのか拓也は、慌てて背を向けると走って行ってしまった。
 ロンドンデリーが好きだって言ったのは、オルゴールの鍵を失くす前じゃない――。よく憶えていたなあと、若葉は変なことに感心した。
 学校に向かって歩きながら若葉はやっと気付いた。あの不思議な鍵が見せてくれた宝箱の中の光景は、現実に起こっていることを映し出していたんだと――。

 その日は1日中、拓也はうつらうつらとしながら過ごしていた。斜め後ろに座っている若葉は気を揉み通しで、先生の注意が飛ぶたびに自分が叱られているみたいに首をすくめた。
 ようやく、6時間目が終わって若葉はほっとしながら帰り支度をはじめた。拓也は授業の終わりの礼もそこそこに教室を飛び出していったので若葉の斜め前はとうに空席になっている。訳もなしに若葉はため息をひとつついた。
「ねえ若葉ちゃん、屋台に寄っていこうよ」
 雪江ちゃんが背中を突っついた。
「うーん、どうしようかなあ」
 壁の時計を見ながら若葉は迷った。女子の間では駅前にやって来るクレープの屋台がもっぱらの噂になっている。――三時二十分か。夕飯には充分間があるわ。
「よし、行こうか」
 若葉はふりかえると笑って言った。
「お母さんの具合どう」
 校門を出てぶらぶら歩きながら雪江ちゃんが尋ねた。
「まだ病院に電話してないから詳しいことはわからないの。でも、しばらくは、また入院になると思うな」
「大変だねえ」
「うん。でももう慣れちゃったからそうでもないよ」
 若葉はいつものようにのんびりと答えた。学校から駅までは5分足らずの道のりだからほんの少しおしゃべりをすればもう駅舎の大時計が見えてくる。空色と白の縞模様に染めたカンバス地の屋根が目印の屋台が駅前のロータリーの隅に停まっていた。 
「二、三人しか並んでない。急ごう」
 雪江ちゃんが若葉を急かす。

「若葉ちゃん、つきが戻ってきたんじゃない?あんなに列が短かったのあたし初めてだよ」
 ベンチに並んで腰かけながら雪江ちゃんが言った。
「うん。いつも十人くらい並んでるもんね」
「今日ね――」
 雪江ちゃんは、クレープのなかのアイスクリームとオレンジソースをこぼさないように注意深く口を開いた。
「拓也くん、居眠りばかりしてたでしょう。小林先生がチョークを飛ばしたときは、昨日のバチが当たったんだわって思っちゃった」
 言ってからふふっと雪江ちゃんは独特の笑い方をした。
「でも――、昨日私が泣いちゃったのは拓ちゃんのせいじゃないんだよ」
 クリームチーズとあんずのソースを上手に頬張りながら若葉は言った。
「それにね、拓ちゃん責任感じちゃったみたいで今朝これをくれたの」
 若葉はかばんをごそごそ探ってチョコレートの箱を引っ張りだした。
「それ、昨日の電気びっくり箱じゃない」
「ううん」
 若葉はひざの上に広げたハンカチの上にクレープを置くと箱のふたを開いた。ロンドンデリーが流れだして、雪江ちゃんは目を丸くした。
「たぶん徹夜で作ったんだよ。だから先生が注意するたびにハラハラしちゃった」
「ふうん」
 雪江ちゃんは、にやにや笑いながら若葉の顔をのぞき込んだ。
「何よう」
「ううん。いいなあと思っちゃっただけよ」
 目を見交わすとなぜかおかしさが込み上げてきて、二人はひとしきりくすくす笑いをした。笑い疲れると雪江ちゃんはチョークを飛ばした小林先生の噂話を始めた。

 若葉が家に戻ると丁度お父さんが起きてきたところだった。徹夜の次の日は休みが取れるのだ。若葉は手早く支度をして、お父さんと一緒に夕飯を食べた。
 箸を動かしながら、お父さんはお母さんの具合のことを話してくれた。お昼前に病院に電話して尋ねたのだそうだ。先生の話では一週間程で退院できるだろうと云うことだった。――本当につきが戻ってきたのかしら?若葉は小首をかしげて考えた。 
 部屋に戻ると若葉は机の引き出しを開けてレモンイエローのハンカチを取り出した。広げるとあの鍵が出てくる。じっと見ているうちに、あの宝箱のふたを開けてみたい誘惑で若葉の心はむずむずしてきた。慌ててハンカチをたたむと又、引き出しにしまう。
 でも、この鍵は私に『いいこと』を呼び寄せてくれたみたい。チョコレートのふたを開けてロンドンデリーを聴きながら若葉の口元は自然とほころんできた。



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