六月の花嫁
<5>

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チャプター
       


次の週の土曜日は朝から雨が降っていた。雪江ちゃんが一緒に宿題をやろうと誘ってくれたけれど、若葉は「今日はだめなの」と断って急いで家に向かった。二日遅れたけれど今日はお母さんの退院の日なのだ。
 二日前に若葉は久しぶりにお母さんの見舞いに行った。
「少し熱があるから大事を取れって先生がおっしゃるのよ」
 退院が延びたことを話すお母さんの顔は少し赤かった。
「いいよ、二日くらいすぐだし無理しないほうがいいよ」
 若葉は笑いながら応えた。気に病んでいるお母さんを見ていると何だか若葉の方が申し訳ないような気がしてきたのだ。
「帰ったらお母さんの特製オムレツ作ってあげるから楽しみにしてなさいよ」
 とお母さんが言うと、
「そんなに気を遣わなくていいから寝てなさい」
 どっちがお母さんなのかわからないようなことを言って若葉は舌を出して笑った。つられてお母さんも笑ったので若葉は少しほっとした。

「ただいま」
 玄関を開けながら若葉は奥に向かって声をかけた。返事が――、返ってこない。若葉は首を傾げながら靴を脱ぐと三和土に傘を広げて家の中に上がった。朝のうちにお母さんは帰ってきているはずなのだ。 台所を覗き込むと茶だんすにお父さんのカバンがもたせてあるのが目についた。一度帰ってきてすぐに出かけたらしい。玄関に靴がなかったことを思い出しながら若葉は考えた。テーブルの上に公告の裏に走り書きしたメモが置いてあった。
  
 お母さんの容態が良くないようなので病院に行ってきます。病院からまた電話するから、心配せずに留守番をお願いします。

 お父さんの角張ったくせのある字でそう書かれていた。体中の力が抜けていくような気がして若葉は壁にもたれかかった。そのまま、ずるずるっと背中を滑らせて床に座り込む。
 病院から工場に電話があったんだ。――早退けして駆け付けたくらいだからもしかしたらお母さんの加減はひどく悪いのかもしれない。若葉は、三年前にお母さんの危篤状態が三日も続いた時のことを思い出した。
 不吉な想像が胸のなかに広がっていく。一度生まれだすと、次から次へと不吉な影は際限なしに浮かんできて若葉の頭のなかで渦を巻いた。
 打ち消すように首をひとつ振って若葉は立ち上がった。その勢いで自分の部屋に歩いて行き私服に着替える。それから、急いで玄関先に出ると電話の前に立った。受話器を取りかけてまた下ろす。容態が本当に良くないのなら誰も電話に出ているどころじゃないだろうし、そうでないなら待っていればいい。お父さんのメモを思い出してとっさにそう自分に言い聞かせた。
 少しは気が紛れるかもしれない。そう思って台所に戻ってお昼の支度をすることにした。何かあったかなあ、考えながら冷蔵庫を開けた。けれどまたすぐに閉じて、椅子に座り込んでしまった。昨日買っておいた卵が扉に並んでいたのだ。特製オムレツなんか別にほしくないよ。窓を打つ雨をぼんやり眺めながら心の中でつぶやいた。また不吉な影たちが頭をもたげ始める。
 不意にある思いつきが渦を巻いている影たちの横をかすめた。いま、何を考えたのかしら?その思いつきが何だったのかすぐには分からなくて、若葉は眉間にしわを寄せて気持ちを集中させた。
 とつぜん、気付いて若葉は立ち上がった。急いで部屋に戻ると机の引き出しを開けてハンカチを取り出した。ハンカチを広げると魔法の鍵が出てくる。急いで本棚の上から宝箱を下ろして机の上に置いた。 ――ガラスの動物達がカタカタ音を立てて子豚が一匹畳の上に落ちたけれど拾うのは後回しにした。
 鍵を鍵穴にあてがうと迷わず押し込む。小さな枝分かれはまたパタパタと倒れて鍵穴の中に吸い込まれた。鍵をひねるとふたが勢いよく開いた。
「拓也早くしなさい。安井くん、待ってくれてるわよ」
 箱の向こうから拓也のお母さんの声が聞こえてきた。
「わかってるよ」
 面倒臭そうに返事をする拓也の声が聞こえた。その後ろ姿が宝箱の向こうを横切る。手提げ袋に何か細々したものを忙しそうに詰め込み始めた。
 若葉はゆっくりふたを閉めた。なあんだ――。何となく魔法の鍵がお母さんの様子を映し出してくれるような気がしていた若葉はちょっとがっかりした。
 もしかしたらこの鍵の魔法は拓也の部屋を映し出すと云う力しか持たないのかもしれない。変な鍵ねえ。若葉は改めてその奇妙な形をした鍵をしげしげと見つめた。ふとその目の端に机の引き出しが映った。机の一番上の引き出しにはお父さんから預かっている生活費や何かをしまっていて普段は鍵がかかっている。
 半ば無意識に鍵を持ち直すと、若葉は引き出しの鍵穴にあてがっていた。少し力を加えると宝箱の時と同じように枝分かれが折れ曲がって鍵は根元まで鍵穴に埋まった。丸い円盤の持ち手をひねる。――カチリと音がして鍵が開いた。
 若葉は恐る恐る取っ手に手をかけて引き出しを引いた。
「本当に申し訳ありませんでした――」
 突然耳元で声がして若葉は思わず振り返った。――誰もいない。
「いや、間違いは誰にでもありますから」
 お父さんの声だ。はっと気付いて若葉は手元を見た。引き出しの向こうにお父さんが立っていた。病院の廊下のようだ。お母さんのお見舞いに行くといつも元気な声であいさつしてくれる五十才くらいの婦長さんがお父さんと話していた。
「でも、あんな間違いをするなんて――」
 いつもは元気が白衣を着ているみたいな婦長さんが、しょんぼりしてしまって今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「本当にそう謝らんで下さい。実際には何も害はなかったんですし」
 お父さんの方も何だか気まずそうな顔をしている。
「娘に電話をしてきます。心配していると思いますから」
 廊下を歩いて行くお父さんの靴音が響いた。若葉は慌てて立ち上がると部屋を出て電話の前に走って行った。雨はさっきより降りが激しくなってきたようで窓を打つその音が静かな家の中で奇妙に際立って聞こえる。
 リン!!
 鳴ると同時に若葉は受話器を取った。
「もしもし」
「若葉かい。ずいぶん早いな――」
 面喰らったようなお父さんの声が響く。
「電話の前で待っていたの。お母さんの具合は?」
「ちょっと風邪気味だけど元気だよ、また二日延びるけど月曜日には退院できるそうだ」
「でも――。わざわざ工場に連絡があったんでしょ」
「病院の手違いだったんだよ。ほら隣の病室にうちと同じ苗字の佐山さんて云うお婆さんがいらっしゃるだろ」
「うん。よくお爺ちゃんがお見舞いにきて、仲良くおしゃべりしているところを見かけるよ」
 佐山のお婆ちゃんとお爺ちゃんなら若葉もよく知っている。テレビの洗剤のコマーシャルじゃないけれど、結婚して歳をとったらあんな夫婦になりたいなあと、けさ雪江ちゃんに話したばかりだ。
「その佐山のお婆ちゃんが今朝方から具合が悪くなりだしたらしいんだ。かなりのお歳だから念のために家族に連絡することになったらしい。
 ところが、カルテで連絡先を調べた新米の看護婦さんが1ページ間違えてお父さんのところに電話してきちゃったんだ。
 『奥様のご容態が悪化しました。できるだけ早くお越しください』
 って緊張した声で言われた時はびっくりしたよ。それで慌てて病院に駆けつけたんだ」
 お父さんの声を聞きながら、目尻から涙がこぼれるのを若葉は感じた。いつからこんなに泣き虫になったんだろう。
「なあんだ」
 泪声にならないように気を付けながら若葉は言った。
「それなら学校に連絡をくれればよかったのに」
「ごめん、ごめん。とりあえず様子がわかったら病院から電話するつもりだったんだ。ところが病院に来てみたらそういう事情だろ。わざわざ学校にかけて心配させることもないかと思ったんだよ」
「心配したよ」
 目尻を手の甲でごしごし擦りながら若葉は言った。
「佐山のお婆ちゃんの具合は?」
「落ち着いたようだよ。さっきお爺さんがいらしてた。これからお母さんの様子を見たら戻るよ」
「あの――。今からお母さんのお見舞いに行ってもいいかな」
「でも普通の面会時間はもう――。まあいいか。先生にお願いしておくよ」
 待っているからと言ってお父さんは電話を切った。部屋に戻った若葉は引き出しをのぞき込んだ。お父さんがお母さんと話している。引き出しの向こうにはお母さんの病室が映っていた。ちょっと顔色が悪いかな。風邪気味だというお母さんは、それでも笑顔を浮かべていて元気そうに見えた。
 引き出しを閉じて、ゆっくりと鍵を抜いた。試しに引き出しを引っ張ってみたけれどびくともしない。ちゃんと鍵のかかったままだった。
 支度を済ませると、玄関で半乾きになっていた傘を閉じて若葉は外へ出た。病院まではバスで40分かかる。雨の中を歩いて行く若葉の足取りはそれでも軽やかに遠ざかっていった。



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