六月の花嫁
<6>

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チャプター
       


 月曜日にはお母さんが退院してきて、いつもと変わらない生活がまた始まった。少し大胆になった若葉は、時々鍵のついたものを探すという変なくせがついた。宝箱は何度開けても拓也の部屋だったし、引き出しは何度開けても、とうに退院してお母さんのいなくなった病院を映すだけだった。ひとつの鍵穴はひとつの風景しか見せてくれないと云うことがだんだん分かってきたのだ。もちろん玄関や教室の扉には鍵がついていたけれど箱や引き出しと違ってそんな大きな風景を開いてしまったら向こうにいる人達がこちらにやって来はしまいかと思って気後れした。
 それでも鍵のついているものは意外とあって、周りに誰もいない時にはこっそり鍵を開いて向こうにどんな光景が広がるか見ずにはいられなくなった。
 音楽室のピアノのふた。お父さんの出張用トランク。お母さんのセカンドバッグ。保健室の薬瓶の入った箱。魔法の鍵はどの鍵穴にも、さも当たり前と云った風にすっと入っていった。
 ピアノの向こうは、海の中だった。ほの暗い海藻の影から色鮮やかな縞模様の熱帯魚が現われて若葉は思わず目を細めた。その背ビレは上の方から射してくる日の光できらきらと輝いていた。雪のように降る小さなプランクトンの粒、鮮やかな色をまとった魚の群れが忙しそうに、またのんびりと通り過ぎていく。右手に見える大きな岩の影から人魚が現われたとしても若葉はちっとも驚かなかっただろう。まるで音のしない音楽のような時間がピアノの向こうでゆっくりと過ぎていった。
 予鈴の音で慌ててふたを閉めたけれど昼休みの間中飽きもせずその小さな海を眺めていたことに気付いて、若葉は自分で自分にあきれてしまった。おかげで、お弁当を食べそこねたので午後の授業中は何度もお腹が鳴って若葉を困らせた。
 お父さんの旅行用トランクの向こうには雪江ちゃんがいた。雪江ちゃんは夕飯を食べながらしきりにお母さんに学校であったことを話していた。
「――で、若葉ちゃんたらねぇ」
 拓也の時と同じで、きまりが悪くなって大急ぎでトランクを閉じた。だから雪江ちゃんの言葉は、トランクの向こうで尻切れとんぼに途切れてしまった。
 お母さんのセカンドバッグのファスナーを引くと少しゆがんだ楕円形の口の向こうに見たこともない外国の町があった。馬車が通り過ぎる。夕方らしく十歳くらいの男の子がガス灯の灯を点けて回っている。道ゆく人に何か呼ばわっている老人。何を売っているのだろう。老人の屋台からは白い湯気が上がっていた。それは今の時代ではない、ずっと昔の景色のようにも見えた。
 ずいぶん長いこと眺めていたけれど、結局どこの景色なのかはまるで分からなくて若葉は何度も首を傾げた。
 どうやら、魔法の鍵が見せてくれる風景はいつも若葉にかかわる風景ばかりではないようだった。もしかしたらその外国の町や海の中もちゃんと関係があるのかもしれないけれど、少なくとも若葉には思い当ることがなかった。
 薬瓶の箱の中も風変わりだった。四角い箱の中では、畳の上に布いた小さな布団の上で赤ん坊の若葉が眠っていた。
「わが子よ、愛しのなれを…」
 洗濯物でも干しているのだろうか。窓の外からロンドンデリーを歌うお母さんの若い声が聞こえてきた。時々、風が入ってくるらしく若葉の顔の上でカーテンの影が静かに揺れた。
 遠くの方から自転車の音が近付いてくる。
「ご苦労さま」
 郵便屋さんかな。お母さんの声を聞きながら若葉はそう思った。また、自転車の音が遠ざかっていく。そっと、ふたを閉じた。この鍵が見せてくれるのは、今の出来事だけじゃないんだ。棚に箱を戻しながら若葉は改めて思った。

   7

 次の土曜日は薄曇りのお天気だった。家の裏手に回ってお風呂の種火を点けに行った若葉は軒下の電気の箱――電気メータか分電盤か何かだと若葉は思っているのだがよくは知らない箱だ――にも鍵がついているのを見付けた。スカートのポケットを探って鍵を出すと、その小さな鍵穴に差し込んでみた。持ち手をひねると右開きにふたが開いた。
 いきなり小学生の頃の若葉がこちらに向かって走って来た。すぐ目の前で跳び上がる。そう云えばゴム跳びが流行っていたっけ。細いゴム紐を横にわたしてそれを跳び越える遊びにすぐ思い当った。背が低かったけれど、ずいぶん高くまで跳べて若葉はこの遊びがお気に入りだった。跳び越える瞬間の体が軽くなるような感覚が何とも云えなかったのだ。
 何人かで交替に跳んでいるらしい。懐かしい顔が次々に現われてはこちらに向かって走って来る。道路のあちこちに水溜まりができているところを見ると雨があがったばかりのようだ。
 また若葉の順番が回ってきた。だいぶゴムは高くなったらしく走りだす前に息を整えている。少し目を大きく開くと、走り始めた。地面を蹴ってふわっと跳び上がった瞬間に、何か小さな金属が落ちてアスファルトにぶつかる音がした。
「若葉ちゃん何か落としたよ」
 きれいに着地した若葉に誰かが――たぶん雪江ちゃんだろう――声をかけた。
「あっ、鍵」
 慌ててポケットに手を突っ込んだ若葉は声を上げた。
「溝に落ちたよ」
 別の誰かが行った。弾かれるように小さな若葉は溝に駆け寄ったけれど、茶色い水が大きな音をたてて流れていてとても見つかりそうになかった。地べたに四つんばいになりながら一心に目を凝らしていた若葉の顔がくしゃくしゃとなった――。
 あっ、泣き出しちゃう。宝箱の鍵を無くした日のことを思い出しながら背伸びをして電気の箱をのぞき込んでいた若葉は思った。
 その時、今までにはなかった変化が起きた。いきなり、向こうの場面が切り替わったのだ。茶色い濁流に揉まれながら小さな鍵が流れていく。真っ暗なはずの溝の中はどう云う訳か薄ぼんやりと明るかった。「若葉、お風呂はどうしたの」
 家の中からお母さんの声がして、若葉は自分がしに来た用事を思い出した。種火のコックをひねって急いで家のなかに入る。すぐに戻ってくるつもりで電気の箱は開けたままにしておいた。
「悪いけど、てんぷら見ていてくれない。お父さん泊りになりそうだから着替えを届けに来てくれって言ってるのよ」
「はあい」
 若葉は笑いながら返事をした。
 お母さんが入院している時は一度もそんなこと頼まなかったくせに。よっぽどお母さんの顔が見たいのかしら。
 てんぷらを揚げているとみそ汁の火加減が気になりだして結局夕飯の支度を全部済ませてしまった。洗い物もきれいに片付けて電気の箱に戻ってきた頃にはかれこれ一時間が過ぎていた。そろそろお母さんも帰ってくるだろう。



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