銀鈴
<5>

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チャプター
       


「言い伝えと申しても、何百年も昔の話ではないのです。今から百年くらい昔、明治の終わりか大正の初め頃の話だそうです。この辺り一帯の土地はその頃白沢伯爵という華族の所有でした。先代が維新に手柄があったとかで相当に羽振りの良い家柄だったそうです。 その当時の当主は、白沢恭一郎という人で当時としては進歩的な人物でした。この小屋にしてもそうですけれど、一切が西洋好みで東京にある本宅もわざわざイギリスから設計技師を招くほどの凝りようでした。そのくせ、合理主義なところもあって無駄なところにはあまりお金を掛けないよう心がけていたようです。この小さな山小屋を避暑のために建てた時も、どうせ家族は、奥様と一人娘の涼子の三人なのだからこれだけの広さで十分だと言って、大げさな屋敷にしなかったのです。事の起こりは、その年の12月25日、一人娘の涼子様の誕生祝いの折でした」
「あら」
 真理子さんが声を立てました。
「わたしと同じ誕生日だわ」
「あら、そうですの。不思議な偶然ね」
 一瞬少女の顔がほころびて、あどけない笑顔がよぎりました。
「その誕生祝いの席は、涼子様にとって別な意味があったのです」
 そのまま少女は、話を引き継いで話し始めました。小屋の住人達が大昔に生きていた人々の名前に「様」をつけて呼んでいるのに、真理子さんはあまり違和感を感じませんでした。もし、真理子さんの友達がそんな話し方をすればすぐに吹き出してしまうはずですのに、彼らの口調には聴く者の口を噤ませてしまうような奇妙な威厳があったのです。
「十五歳になるその誕生日に、涼子様はお見合いをすることになっていたんです」
「十五歳で―?」
 思わず真理子さんは聞き返しました。
「その頃としては、あまり珍しいことじゃなかったようですわ。―ですから、その日の招待客の中にお見合いの相手の小泉和彦様もいらっしゃったのです」

『小泉様のお着きです』

「白沢家の執事がこう告げたことがそもそもの間違いだったのです。なぜって、その日の招待客には『小泉様』が二人いらっしゃったのですから。小泉和彦様ともう一人同姓の小泉志郎様。何でも、白沢の遠縁に小泉姓を名乗る家が多かったのだそうです」

『ようこそ。いらっしゃいまし』

「父の恭一郎様の言い付けで涼子様がにこやかに迎えたのは、小泉志郎様だったのです。涼子様は、人目見て志郎様が好きになってしまいました。女だてらにはしたないと、あの頃の人々なら申すのでしょうけれど、現実に涼子様と志郎様は、その場で好き合ってしまったのですからしようがないですわ涼子様は、元々勝ち気で負けん気の強い性格。志郎様は、穏やかで争い事を避けて通るといった性格だったそうですから、互いに自分の持ち合わせない性分に惹かれ合ったのかも知れませんね。とにかく、涼子様は見合いの相手と思い込んで夢中で志郎様を遇しました。ですから、当の小泉和彦様が遅れて到着した時には、二人は手を取り合ってダンスを踊っているような有様でした。年が明けて早々に、小泉和彦様のお父上から抗議の使いがまいりました。和彦様の面目を潰したと大変なお怒りようだったのです。それを聞いて白沢伯爵も大変驚き、行き違いのあったことを直ぐさま詫びました。そして大急ぎで改めてお見合いの席をもうけようとしたのです」
 ふっとため息をついて少女は一休みし、紅茶を口に運びました。顔を上げたとき、目尻に少し皺を寄せて口の端を曲げていました。
 どこか遠くを見ているみたい。宙を見据えたその瞳を見ながら真理子さんは思いました。
「涼子様は、その話を嫌がったんですね」
 言い淀んでいる少女に代わって真理子さんは口を開きました。
「けれども、お父様の白沢伯爵はそれをお許しにならなかった。そうじゃないかしら」
 真理子さんの言葉に少女は黙ってうなずきました。
「……どんな理由であれ、愛し合っている二人の仲を裂くというのは残酷なことだと思います」
 気を取り直したように居住まいを正すと、少女はまた話し始めた。
「家の格式から言えば、和彦様も志郎様も同等なんです。ですから、志郎様との縁談に変えてしまっても問題はないように思いますのに……。けれど今と違って、体面を何より重んじる時代ですから、一度交わした約束は違えづらかったのかも知れませんね。涼子様は、先程申しましたように勝ち気な方でしたから、お父さまの言葉にも負けず『私、志郎様以外の殿方と結婚する心算などございません』ときっぱり言い切ったそうですが、これには志郎様がお好きだったということ以外に、和彦様がお嫌いだった―いえ、和彦様を恐れていたということもあったのだと思います」
「恐れていた?」
「ええ。誕生パ―ティの日、涼子様は見てしまったのです。丁度志郎様とダンスのたけなわに案内されて入ってきた殿方が、自分の方を見て薄笑いを浮かべているのを。蛇が一睨みすると獲物が竦んでしまうと申しますでしょ。涼子様はその男の眼差しから目を逸らせることができなくなってしまったのです。お陰でステップを間違えてしまって……、志郎様が素早く抱えて下さらなければその場で転んでいたことでしょう。今も昔も、上流社会、社交界などという所は口さがない世界なのでしょうけれど、涼子様が後刻お友達から伺った和彦様の噂も芳しくないものばかりでした。生来独占欲が強く、最近も絵画の競買で競り負けた折、競り勝った相手に難癖を付けて喧嘩をしかけて相手に深手を負わせたことがあるといったような話だったのです。涼子様はその話を父に告げ、重ねて志郎様と結婚したいと申し出たのです。もとより、伯爵は古い因習には拘らない進歩的な考え方の持ち主でしたし、他ならぬ愛娘の涼子様のたっての願いでしたから、何とか涼子様の願い通りにしてやりたいと一度は考え直したのです。ただ、板挟みになった志郎様のご家族の苦労を見るに付け、更に涼子様が二度までも志郎様を連れて駈け落ちしようとなさったこと―二度目は、一週間も行方がつかめず、伯爵は大いに気を揉んだのです。―ここに至って決心せざるを得ませんでした」
「涼子さんが、志郎さんを連れ出したんですか?」
 良夫君は、思わず口を挟みました。
「ええ。本当に勝ち気だったのですね」
 少女は口元をほころばせました。
「志郎様が持病の心臓発作を起こしたことが元で見付け出されていなければ、二度目の駈け落ちで、人知れず夫婦になって暮らすことができたでしょうに……。ともかく、連れ戻された涼子様に伯爵は言い渡しました。涼子様の十六の誕生日に結納を交わし、年明け早々に和彦様との婚礼を行なうと」
 少女はまた深いため息をつきました。
「可愛そう」
 真理子さんが小さな声でつぶやきました。
「でも、そういった理不尽はあの時代に限らずいつの時代になってもあるものじゃないかしら」
 少女はまたあの慈愛に満ちた目で真理子さんを見つめました。
「考え抜いた挙句―。涼子様は三度目の駈け落ちを図ることにしたのです。厳重な警戒が布かれていたにもかかわらず、可愛がってくれていた乳母の機転と手引きで涼子様は屋
敷を脱出し、志郎様と東京を離れたのです」
 何を思い迷ったのか、少女はしばらく暖炉の火を見つめて黙っていましたが、やがて億劫げに口を開きました。
「十二月二十四日の朝、この小屋から一里……4キロメ―トル程離れた村の外れで二人がこの小屋の方に向かって歩いて行くのを村人が見かけています。そして多分、それが二人の生きている姿を誰かが見た最後だったのです」



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