銀鈴
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チャプター
       


「もし、私達が役目を果たせなかったらどうなるの」
 真理子さんは、おそるおそる尋ねました。
「また、待つしかありませんわ」
 あと百度か、二百度か、彼らがこの寒々とした小屋で迎えなければならないクリスマスを思い遣って真理子さんは身震いしました。
「良夫ちゃんどうしよう」
「落ち着きなよ」
 良夫君は、真理子さんを優しくなだめました。
「何か、ヒントはないんですか」
 良夫君は、少女に尋ねました。
「いいえ。私達が告げられたのはさっきの言葉だけなのです」
 言って少女は少年の方を振り返りました。
 少年は眉間に皺を寄せて、困ったような顔をしました。
「『答は自ずと分かる』とその方はおっしゃただけです」
 言ってから少年ははっと天井の方を見上げました。
「声が遠ざかっていくわ」
 少女は悲しそうに言いました。良夫君と真理子さんは俯いて考え込みましたが、どうすれば良いのかは一向に分かりませんでした。ただ一つ、良夫君も真理子さんもこの二人の幽霊と話をしていて、気に掛かることがあるにはありました。けれどもそれは、取るに足らないことのように思えてなかなか口に出せなかったのです。
「ごめんなさい。とても正しい答など導きだせそうにない」
 しばらくして、良夫君は首を振りながらそう言いました。
「だから、せめて僕達にできることをさせて下さい」
「私達にできること―」
 もの問いたげな真理子さんに良夫君はうなずき返しました。その目を見て、真理子さんは良夫君も多分自分と同じことを考えていたのだと知りました。
「君達の生まれることをご両親は知らずに亡くなってしまった。生きていれば君達に、おいしい食べ物や、楽しい遊びや、愛や、知恵や、躾や、そういった沢山の贈り物をして下さったことでしょう」
 良夫君は二人に向き直って言いました。
「そんなご両親の代理を務めよと言われても、僕達には何の持ち合わせもないのです。ですからせめて、もし僕達が誤っていてこれからまた長い年月この小屋に留まることになったとしても―あなた方二人が互いを呼び合えるように、あなた方に名前を贈らせて下さい」
 この二人が一度も名前で呼び合わないことに、良夫君も真理子さんも気が付いていました。生まれる前に死んでしまった子供たちは、名前すら持っていないということに二人は思い当ったのです。
 良夫君は思案するように目を細めて少女を見つめました。
「小泉志郎さんと涼子さん夫妻の長女であるあなたに、僕の一番大切な人の名前をあげよう。今から君は小泉真理子さんです」
 良夫君の隣で真理子さんが居住まいを正しました。
「じゃあ、わたしはあなたの名付け親にならせて」
 生真面目に真理子さんは少年を見つめました。
「小泉志郎さんと涼子さん夫妻の長男であるあなたに、わたしの一番大事な人の名前をあげるわ。今からあなたは小泉良夫さんよ」
 木枯らしが突風となって小さな小屋を揺るがしました。風はひとしきり大きな音を立てて吹き過ぎると辺りはまたしんとなりました。四人とも息をつめて何かが起こるのを待ちましたがそれ以上何の訪いもありませんでした。
「ありがとうございます」
 少女はあどけない笑顔を浮かべて、立ち上がりました。続いて少年も立ち上がって口を開きました。
「あなた方はもう行かなくちゃいけません。今から駅に行けば最終列車に間に合います。さあ、お急ぎなさい」
「でも、……」
 言いかけた真理子さんに少女は首を横に振りました。
「本当に見ず知らずの私達に良くして下さってありがとうございます。これから待ち続ける日々の励みになりますわ。だから今度は、私達がお役に立たせて下さい。あなた方を追ってきた人達ちは今、旅館で足止めされています。その周りだけまだ暫らく吹雪が止みませんから―。ですから、今のうちにお行きなさい」
 少女は部屋の扉を開きました。
「お礼を言わなければいけないのは僕達の方ですね」
 良夫君は真理子さんを先に行かせながら、戸口で立ち止まって少女に言いました。
「結局何の役にも立てなかったのに、君達は約束通り僕達を匿ってくれた」
「いいえ。こんな素敵な名前を下さったじゃないですか。本当にクリスマスに相応しい素敵な名前……。きっと、この名前を大切にしますわ」
「さあ、雪が小止みになっているうちに急ぎなさい」
 少年が後ろから少し急かすように言いました。
「この小屋を出たら、樅の林の梢にひときわ輝く星が見えます。その星を目指して真っすぐに進みなさい。そうすればほどなく駅に出られますよ」
 玄関先で靴の紐を締めた二人の旅人は、もう一度振り返って小屋の住人たちを見やりました。名前をもらったばかりの小泉良夫君と小泉真理子さんは静かに笑って頷きました。
「どうぞ、僕達の分まで幸せになってください」
 小泉良夫君がそう言うと、名付け親の真理子さんは目尻に涙を蓄めたまま「ありがとう。……、ごめんなさい」と言いました。隣に立っている良夫君はまだ少し名残惜しそうに、名付け子の小泉真理子さんを見ていましたが、この大人びた少女は声には出さず口の形だけで「はやく」と言って二人の旅立ちを急かせ
ました。
 良夫君は頷いて樫の木戸を押し開けました。
 ディン………………………………、ディン………………ディン……ディン、ディン、ディン。
 不意に、樫の扉にぶら下がった銀の鈴が鳴り始めたのです。初めは微かに。そして軽やかに。やがて高らかに。その澄んだ音色は樅の林を越えて一面の雪野原に響き渡りました。良夫君と真理子さんは小屋の外に飛び出しました。その唇に精霊が宿ったのでしょうか。小屋を振り返った時、二人の口から自然に言葉がほとばしり出ました。
「おいで、名付け子たち。鎖が断たれる時が来たのです」
 二人の名付け子はおそるおそる戸口から顔を出しました。
「さあ早く」
 今度は、名付け親の良夫君と真理子さんが急かす番でした。
「急いで、お父さんとお母さんの所にお帰りなさい」
 急に子供に戻ってしまったように小屋の住人達は、良夫君と真理子さんの顔を見つめ、それから怖ず怖ずと空を見上げました。
 まるで、いたずらをした子供がお母さんから優しく手を差し伸べられて、その胸に飛び込んで良いのかどうか迷ってしまっているように、ばつが悪くてもじもじと手を伸ばしかねているように、二人は何度も心配顔をしている名付け親達と空の上の目には見えない両親とを交互に見遣りました。
 見かねて真理子さんは、もう一度口を開きました。
「出発の時が来たのよ。あなた達と、……わたし達の」
 真理子さんの笑顔に励まされて、二人はそっと空に向かって手を差し出しました。それに応えるように、樅の小枝をさらさらと鳴らしながらそよ風のような優しい風が吹いてきました。
 風は真理子さんと良夫君の間を吹き抜けると、降り積もったばかりの粉雪を巻き上げて二人の名付け子をその白いベ―ルで包み込みました。お母さんに優しく抱き上げられるように二人の体が宙に浮かびました。怖ず怖ずとしていたその表情に笑顔が広がっていきます。二人は瞳を輝かせながら、地上の二人を振り返りました。
「ありがとう」
 少女はあどけない笑顔を浮かべて、良夫君に言いました。
「真理子さんを大切にね」
 言ってから少女はいたずらっぽく笑いました。二人の体はぐんぐん舞い上がり、樅の梢を越えて小さくなっていきます。
「さようなら。あなた方にも神様の祝福がありますように…………」
 早口に少年が叫ぶのが聞こえましたけれど、その声はかき消すように小さくなっていって空に吸い込まれてしまいました。 

 柔らかな布地を一面に広げたような雪野原を二人は歩いて行きました。とうに雪は止んで降るような星空です。真理子さんはそっと寄り添うように良夫君の腕を取りました。
「明日の今頃には、良夫ちゃんのお嫁さんになっているのね」
 言って真理子さんはくすぐったそうに笑いました。
「何がおかしいのさ」
 不思議そうに良夫君は真理子さんを見ました。
「だって、なんだか……」
 途中まで言うと真理子さんは顔をくしゃくしゃっとさせて、口をつぐんでしまいました。涙が溢れて前が見えなくなってしまった真理子さんは、良夫君に寄り掛かったまま立ち止まりました。
 明日は真理子さんの誕生日。十九歳の真理子さんも大人の仲間入りです。そう、この国では二十歳を過ぎた男女は一人前の大人として、たとえ両親が許してくれなくても結婚することができるのです。明日、二人の若者は二人だけの結婚式を挙げたら、勇気を出してもう一度二人の両親に報告に戻るつもりなのでした。
「あっ、銀色の鐘の音がまた聞こえた気がした」
 真理子さんは、樅の林を振り返りました。
「きっと、無事にお父さんとお母さんに逢えましたって、報せてくれているんだよ」
 優しく頷き返しながら、良夫君は言いました。ふと見上げると目印の星はひときわ輝きを増したように見えました。やがて、二人はまた白い息を吐きながら歩き始めました。
「おさなご手に手に光りかかげて……
 歩きながら、良夫君は一緒によく歌ったシルバ・ベルズを口ずさみ始めました。真理子さんも笑いながらそれに合わせます。

「……神に明日を祈れば、
  夜空の星たち輝き満ち、神の恵み深く
  SilverBells、SilverBells、優しい鐘の音。
  RingaRing、RingaRing、響きわたるよ……」
 やがて―。二人の影は雪野原の中の点のようになって消えていきました。
そして誰もいなくなってしまった雪野原では二人を祝福するように、空の星々だけがいつまでも輝き続けておりました。
                  fine.(あとがき



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