春愁

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 ヒューッ。ザッ、ザッ、ザッ、
 地獄の使者が金切り声を上げて迫る。ドンという地響きが足元を揺るがす。
 火の手がそこかしこに立ち上がり、二人の少女の行く手を阻む。何かに躓いて一人の少女が転んだ。
「おトキちゃん」
 もう一人の少女の叫び声をヒュルヒュルと唸る焼夷弾の金切り声がかき消す。
 尻餅をついた少女は、振り返って自分の躓(つまづ)いたものを見て「ひっ」と息を詰めた。
 黒く焦げた小さな人型。海に逃れようとしていてやられたのだろう。傍らに転がる肩掛けのかばんに少女は見覚えがあった。
 吉田の小母さんだ。ころころと良く笑う大柄な小母さんの体は信じられないほど小さく縮んで炭になっていた。
「おトキちゃん」
 泣き声混じりにもう一人の少女は駆け寄り、転んでいるおトキちゃんを抱き起こした。
 バシッ。震えが止まらず立ち竦むおトキちゃんの頬を彼女は平手で打った。二度。三度。ようやく、おトキちゃんの目に正気が戻った。
「急いで」
 惑う娘達を嘲笑うように焼夷弾の金切り声は間断なく続いた。

 駆ける駆ける駆ける。とうに息は上がり、心臓は踊りっぱなしで、足も硬く強張っていたけれど、それでも娘達は駆けねばならなかった。恐ろしい熱さに包まれた細い路地を抜け、道路を渡り運河を目指して走る走る走る。
 汗とも涙とも知れぬ水が二人の頬を幾筋も伝っていた。髪や皮膚があちこち焦げて、痛みはちりちりと体を刺した。
 いつ果てるとも知れぬ鬼ごっこ――。運河まで逃れられたら助かる。二人の頭の中にはそのことしかなかった。
 目の前に黒い口を開けた路地が見えた。路地は奇跡のように無傷だ。
 ヒューッ、ヒュッヒューッ
 B29から降ってくる夥しい悪魔の雄叫びに急き立てられて、二人は路地に飛び込んだ。もうちょっとで運河だ。
 よろぼうようにして二人は進んだ。手をしっかりと握り合ったまま暗く細い道を駆ける。
 路地の半ばに差し掛かった時、待ち伏せしていたかのようにあの雄叫びがすぐ傍で上がった。続いてドンという地響きと共に二人の目の前と後ろで同時に火の手が上がった。
 爆風に吹き飛ばされて小柄なおトキちゃんは板塀に叩き付けられた。もう一人の娘もべそかき顔でその場にへたり込んでしまった。
 ヒューッ
 真上だ。
「あぶない」
 彼女は声にならない声を上げて、おトキちゃんに駆け寄ると思い切り突き飛ばした。
 ドン。傍らの家と板塀が燃え上がった。
「ゆきちゃん」
 したたか地面に顔を打ち付けたおトキちゃんが血まみれの顔を上げながら友達を呼んだ。
 ゆきちゃんは反対側の板塀に跳ね飛ばされてうつ伏せに倒れていた。
「ゆきちゃん」
 おトキちゃんは叫びながら彼女に駆け寄る。
 ゆきちゃんの顔を仰向かせて抱き起こそうとした彼女は短い叫び声を上げて息を呑んだ。
 ゆきちゃんの胸からお腹は血にまみれていた。血は止まることを知らず後から後から溢れてくる。おトキちゃんは顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「泣か…、ないで」
 ゆきちゃんのか細い声に泣き声を呑み込んでおトキちゃんはぎゅっと手を握った。
「…いんだよ。これで徹(とおる)さんのところに行ける。また、徹さんに逢え……」
 声は尻切れとんぼになった。
おトキちゃんは呆気なく事切れてしまった友達の亡骸を抱き締め、業火の中でじっと座り込んでいた。
  *
 板塀の向こうに植わっているのだろう。木犀の香りが鼻をつく。嫌な匂いだ。木犀は私が一番嫌いな花だ。
 客演講義など引き受けるのではなかった。義理のある後輩のたっ達ての頼みとは言え、八十の爺さんの黴(かび)の生えたような講義が面白いはずがない。大体テーマがふざけている。『数学を学ぶ面白さの再発見』だと。そもそも、学生どもは数学を学びたいから大学の門を叩いたはずだ。今更、再発見もないだろうが。
 講義は今日から五日続く。それを考えると端からうんざりしてしまった。まあ思い悩むまい。淡々と講義するだけだ。私は私鉄の改札を通りながら自分にそう言い聞かせた。
 朝の駅は思いの外に混み合っていた。これだけの人間がどこから集まってくるのだろう。しかも皆が身勝手だ。列車から降りようとする者と乗り込もうとする者が押し合うから余計にひま閑がいる。大人の波を押し退けて駆け込む小学生の群れ。立ち竦んでいる老婆を突き飛ばすように降りてくる中年の男。まるで野球のホームスチールのように座席に飛びつく婆さん。それだけ元気なら別に立っていたって平気だろうが。嫌だ嫌だ。私は首を振りながら溜息をついて最後に列車に乗り込んだ。
「せ、まる、き、し、しか、まる」
 列車の壁際に輪を作るように三、四人の女学生が立っていた。
「せ、まる、き、し、しか、まる」
 呪文のように、声を揃えて彼女達は唱える。
「せ、まる、き、し、しか、まる」
 ふん。文法の切れ端を詰め込んでどうなる。それで長明や兼行が愉しめる訳ではあるまい。和歌や漢詩をそらんじる方が遥かにましだ。
 娘たちのスカートは皆きわどい程に短く、しかも皺が寄っている。スカートに寝押しを利かせるといったことは……、今日日布団で寝る娘などいないか。弛み切っただぶだぶの靴下を彼女達は個性だと称するのだろうが、皆で倣えば無個性だと気付かないのだろうか。
 独りの娘が隣の娘に何か囁いた。耳打ちされた娘がけたたましく笑う。何だか自分が嗤われたような気がして不愉快になった。
 列車を降りて通い慣らした大学通りを歩く。
正門に続く銀杏並木は終戦の翌年に植樹されたものだ。黄色い落ち葉の絨緞は遠くに見える図書館の時計塔まで続く。銀杏の実の匂いの立ち込める道を私は理学塔に向かった。塔に入る時ふわりと体から何か抜け出るような妙な気持ちがした……。が、気のせいだろう。

「皆さんは科学するという行為をどのように定義しますか」
 習い性で壇上に立つとしゃんと背筋が伸びる。こちらを見る学生達の眼差しが懐かしい。
「科学するということは因果関係の普遍妥当性を追及すること。すなわち、物事の原因と結果を明らかにして誰もが理解できるように証明することです。数学はその科学を行う上で最も一般的かつ基礎的な手段です」
 階段教室に百人ばかりの生徒達。珍獣を見るような好奇の眼でこちらを見ている。肩を突(つつ)き合い囁き合いながら、時折低い笑い声が漏れ聴こえる。本当に講義を聴いているのか。
 アルキメデスを引き合いに本題に入ろうとした時、勢い良く後ろの戸が開けられて大柄な生徒が入ってきた。彼は悪びれる風もなく中途半端に扉を閉めると後列に座っていた生徒を奥へ押しやって、どかりと腰を下ろした。
「君、遅刻だ。一言詫びて入りたまえ」
 私の言葉が気に入らなかったのか、彼は因縁をつけるような目付きでこちらを睨んだ。
「聴こえなかったのかね」
 暫らく逡巡していたようだがやがて彼は不貞腐れた顔のまま「すいませんでした」と呟くように応(いら)えた。無論座ったままだ。
 私は軽く頷くと講義に戻った――「すみませんでした」だ、馬鹿者。心の中で彼の日本語を訂正しながら。
 二時間の講義が終わり三々五々生徒達が教室を出て行く。静かに講義を聴いていたのは最初の十分。後は私語の止まない弛み切った授業となり、私も敢えて注意しなかった。まあ、二十年前もこんなものだったか。
 中列より少し前、最後の生徒が立ち上がった。今時珍しく髪をお下げに編んだ娘だ。色白の整った顔立ちだが、やや受け口の口元に幼さを残していて少女と呼ぶ方が相応しいような面差しだった。
 ブリーフケースを胸に抱えた彼女は私と眼が合うと何となく笑まし気に会釈した。
 不意に眩暈を覚えて私は教壇に手を突いた。脳裏に遠い情景が甦る。神戸駅の改札に向かう階段。その中途に立ってこちらを見ていた少女。目の前にいる娘は彼女に生き写しだ。
怪訝そうな一瞥を投げて教室を出て行く娘を慌てて追った。教室を飛び出すと私の足音が聴こえたのか廊下の先を行く彼女は振り返って不安げな表情を見せた。余程不審な顔を私はしていたのだろう。彼女は怯えたような顔付きになると、くるりと背を向けて逃げるように廊下の角を曲がって行った。慌てて駆け寄ったが、彼女の姿はどこにもなく、なぜか木犀の匂いが漂っていた。その匂いを嗅ぐと、不意に幸子(ゆきこ)の記憶が私の胸に蘇った。
 *
 昭和十八年。神戸。私は一人の少女と出逢った。妹の友人で名前を幸子(ゆきこ)といった。「さちこ」と読むのが普通だろうに――それが彼女に抱いた私の第一印象だった。
 彼女はピアノを弾くことが好きで時節が違えば音楽を勉強したいと言っていた。私の母は音楽教師だったので家にはアップライトのピアノがあった。彼女はそれを弾かせてもらうためによく妹を訪ねて来ていたのだ。
 春まだ浅いその日、彼女がいつものように尋ねて来た時、折悪しく妹は母と買い物に出掛けて留守だった。徒歩で三十分以上かけて来ていると聴いていたので気の毒に思い、深く考えることもせず彼女を家に上げた。
「聴かせてもらっていいですか」
思い切ってそう尋ねると彼女ははにかみながら小さく頷いた。ベートベンの月光――彼女は鍵盤を愛おしむように何度も何度もその物悲しくも優しい旋律を紡いでいた。
何の前触れもないサイレンの唸りに旋律は破られた。空襲警報だ。
「裏手に防空壕がある。急いで」
 彼女を促して戸口に向かおうとした私は慌てた拍子に椅子に蹴躓いて、はずみで頭を強か壁にぶつけた。
 次に気付いた時には窓の外は暗くなっていた。意識を失っていたらしい。眼を開くと私を覗き込む幸子の心配そうな顔があった。
「よかった」
 彼女の表情が明るくなる。体を起こしながら空襲の様子を訊くと第一波は行ったようですと応えた。が、遠くの方ではまだエンジンの音が響いている。
「なぜ逃げなかった」
 私の怒鳴り声に彼女はきゅっと体を縮めて恨めしげにこちらを見た。べそをかきそうなその顔を見て私は酷く後ろめたい気分になり「すまない」と小さな声で詫びた。
 エンジンが唸りを上げて迫ってくる。私は彼女に飛びつくとそのまま引き倒し、床に伏せた。低空飛行の艦載機は頭上を通る際、機銃を掃射して板塀と窓ガラスを撃ち破っていった。彼女の頭をしっかりと抱き抱えている私の体の上に硝子が降り注いだ。エンジン音はそれきり途絶え空襲は止んだようだった。
「大丈夫ですか」
 私は彼女を助け起こしながら言った。彼女の目は据わっていて、震えも止まらないようだ。その目が私の顔を見て大きく見開かれた。
「酷い血」
 幸子の指が私の頬に触れる。硝子の破片が顔に刺さったのだろう。私の怪我を見て彼女の気持ちはしゃんとしたようだ。床の硝子も厭わずに窓際に私を連れて行くと彼女は月明かりに私の顔を照らした。そして、恐ろしいほど真剣な眼差しで顔を近付けてくると、その細い指で硝子を一つ一つ除き始めた。
「私は男だから平気です。それより素手でそんなことをしたら君が危ない」
 言って顔を背けようとしたが、彼女は左手でぐっと顎を撮(つま)んで硝子を取り続けた。顎を押さえる左手の力はとても強かった。
「痛っ」
 短い声を上げて彼女が反射的に指を口に持っていった。一筋、指から血が伝う。
「ほら。なんて無茶なんだ。腱を切ったらもうピアノが弾けなくなるんですよ」
 それでも――、幸子は私の頬に手を伸ばして硝子の破片を取り続けた。
 *
 講義二日目。あの娘は昨日と同じ席にいた。
 講義を続けながら眼がどうしても彼女に行ってしまう。他人の空似か――。いや、そんなありきたりな解釈では釈然としない。
 聴く事に集中すると眉間による小さな皺。鉛筆の尻で頬を掻く癖。時折集中が途切れて窓外に眼を遣る際に見せる遠い眼差し。顔立ちだけではない。仕種までそっくりなのだ。
 出欠表を辿れば名前は容易に知れる。だが、私は知ることを心の底で恐れていた。
 何とも身の入らない講義になってしまった。
チャイムを潮に生徒達は立ち上がり教室を出て行く。しんがりは、やはり彼女だった。軽く会釈をすると彼女は背を向けた。ブリ――フケースを持ったまま両手を背に回し腰のところで手を組む。――幸子だ。
 私は衝動に突き動かされて教室を飛び出した。が、彼女の姿はまたしても消えていて、また、胸の中で記憶の断片が立ち上がった。
  *
 空襲の翌日。幸子とともに彼女の家を訪れ、幸子の父親に前夜の経緯を告げて詫びた。
 彼は私が留守宅に幸子を上げた軽率さをこそ咎めたが、私の顔の傷を見て、娘を機銃から守ってくれた事を労ってくれた。
 その日を境に幸子が我が家を訪れる目的が一つ増えた。ピアノの合間に私が妹と一緒に彼女の勉強を見てやるようになったのだ。
「幸子さん。鉛筆のお尻で顔を掻かない。行儀が悪いですよ」
 言わずもがなの注意をする度、妹がうんざりした声でからかった。
「ドクトルってほんと爺むさいよねえ」
 妹はふざけて私のことを「ドクトル・とおる」。と呼んでいた。幸子は単に「徹(とおる)さん」だ。
「止しておトキちゃん。私が悪いのに」
 それでも幸子はいつもおっとりと取り成した。因みに妹の名は時子でも時江でもない。おトキちゃんの『トキ』は「鬨(とき)の声を上げて突進するお転婆娘」という勇ましい由来だ。
「ゆきちゃんで良いって言ってるのに」
「幸子さん」と私が呼ぶ度に妹は大仰に嘆息して肩を竦めたが、それでも少しずつ妹を交えて私と幸子は親しくなっていった。眉間の皺、遠い眼差し、鉛筆で頬を掻く仕種さえ、気が付くと愛しく感じるようになっていた。
 いずれ時を見て幸子の父を尋ねて結婚を申し入れようと私は考え始めていた。
 たった一度だけだが、幸子と神戸の街に出掛けたことがある。七月の夏の日盛りの頃だ。
 待ち合わせの神戸駅。少し早く着いてしまった私はモルタルの柱に凭れて階段の上の改札の方を所在な気に見遣っていた。お洒落な神戸っ子の姿は既になく皆がもんぺ姿だった。
 遠くから機関車の重い響き。やがてそれは轟音となり頭上の高架で停まった。改札を抜けた人の群が階段を下りてくる。人々は寡黙で何かに急かされる様に早足に過ぎて行った。
 次の列車かなと思いかけて階段の上を見上げた刹那、――世界は動きを止めた。
 モノクロームの素描に濃紺の絵の具を一筆掃いたように、ぽっかりと幸子の姿が階段の中途に浮かんでいた。彼女は息を弾ませながら忙しなく辺りを見回していたが、やがて私を見付けると転ぶような勢いで駆けてきた。
 彼女は女学校のセーラー服を着ていた。寝押しの利いた紺サージのスカートを道行く人は奇異なものでも見る眼で見遣る。中にはあからさまに非難がましい顔をする者もいた。
「今日は特別な日ですから」
 幸子は澄まし顔でそう言うと、手を後ろに組んで歩き始めた。
「お婆さんみたいだからよしなさい」
 私がそう言うと幸子は拗ねたような顔になったが、それでも素直に背中の手を解いた。
 その足で湊川神社に御参りした。大楠公に武運長久を祈る。そんな理由でもなければ女性と街も歩けない時代だった。境内の杜は涼やかで心地よく、私達は音楽や数学の話を取りとめもなく交わしながら木(こ)の下陰(したかげ)を歩いた。ふと見ると又、幸子は腰で手を組んでいた。気付かずに夢中で話している彼女が可笑しくて、もう何か言う気も失せていた。
  *
 三日目になると随分講義も慣れてきた。昔の勘も戻ってきている。あの娘は相変わらず同じ席にいたが、私は努めて注意を払わないようにした。それでも、講義の後、教室の後ろの出口に向かう娘を見て私は矢も立てもたまらず呼び止めた。
「君」
 彼女はぴくりと肩を震わせると立ち止まった。その先どう言おうか逡巡していると、出し抜けに彼女は振り返った。
 口をわななかせて彼女は何か言いかけたが、不意に子供がいやいやをするように首を振るとあの夏の日のように私目掛けて走って来た。その勢いに避ける間もなくぶつかる――、と思った刹那、彼女の姿は消えていた。
 辺りを見回したが彼女の姿はどこにもない。その代わりのようにぷんと木犀の匂いがした。
  *
 結局、私が幸子の父親に結婚を申し出ることはなかった。その秋に赤紙が来たのだ。数学を諦め、幸子から引き離され、望まぬ死地に向かわねばならない、その不条理に私は体を震わせた。反面、若者らしい浅慮で柔な想いを抱く自身を詰(なじ)りもした。米軍を叩けば、もう彼女に怖い思いをさせずに済む――最後にはそう考えることで自分を納得させた。
 彼女に報せるのは気の重い務めだったが分かってもらうしかないと自分に言い聞かせた。菊版の小さな紙を見せると、彼女の顔はみるみる強張った。
「少し良いですか」
 私は幸子を彼女の家の裏手の空き地に誘った。一面の薄(すすき)原。隅にひともとの木犀が植わっていた。既に日は傾き、肌寒い暮景の中に私達は立ち尽くした。
「君に二度と恐ろしい思いをさせないために米軍を叩きに行ってきます」
 空き地を覆う薄(すすき)の穂がざわざわと揺れた。幸子は私に背を向けて身じろぎもしなかった。
「寂しい思いをさせるけど、その……待っていてもらえませんか。戦が終わって私が帰るまで。それで、帰ってきたら私と……一緒になってもらえませんか」
 彼女の肩が震えた。
「もう、米軍が二度と本土の上を……」
 出し抜けに彼女は振り向いた。目に涙をいっぱい溜めて――。泣くまいと、ぎゅっと唇を噛み締めているが、意に反して顔はくしゃくしゃになり鼻を鳴らしながらしゃくり上げた。
「一つだけ……」
 鼻をすんと鳴らして懸命に嗚咽を堪えながら幸子は言った。
「一つだけ約束して下さい。絶対に死なないって。もし、死……死んでしまったら。わたし、徹さんのことを嫌いになります」
 決して抗うことができない運命に対する、それが精一杯の抵抗だったのだろう。言い放つと幸子は私に肩をぶつけて家に駆け戻って行った。それが――彼女との最後の思い出だ。
 出征前後のことは慌しく時が過ぎたばかりで記憶にない。姫路、宇品、寿司詰の輸送船、ラングーン港。部隊はビルマに進駐した。
 昭和二十年が明けてすぐ。実家に私の訃報が届いた。ビルマ戦線にて名誉の戦死。誤報だ。部隊は全滅したが壕に這い蹲って息を殺し私は生き延びていた。妹と一緒に兵庫の軍需工場で働いていた幸子にもその報せは届いた。二人はその場にへたり込んで、しっかり抱き合いながらいつまでも泣いていたという。
 三月の大空襲で撃ち殺されるまで幸子が笑顔を見せることは終(つい)になかったと、後に妹は語った。妹は幸運だった。あのまま新川運河まで逃れていれば確実に大和田橋の業火にやられていたはずだ。幸子の亡骸を抱いてその場にじっとしていたことで妹は命拾いした。
  *
 四日目の講義、同じ席に座っている娘を見ながら私は考えていた。彼女が目の前で姿を消したこと。消えた後に必ず蘇る幸子の記憶。私には彼女が何者であるか分かり始めていた。
 チャイムが鳴る。学生達が教室を後にしても彼女は席に座ったままだった。私達はじっと互いを見詰めながら身じろぎもしなかった。
 ざわざわざわ
 耳元で薄の穂が鳴り、木犀の匂いが漂う。
「幸子さん……、なんだね」
 ようやく口をついた言葉に彼女は黙って頷いた。静かに立ち上がると幸子はゆっくりと歩み寄り、私の前に立った。
「どうして毎日そそくさと消えてしまったの。声を掛けてくれれば良かったのに」
 どこまでも現身と変わらぬその姿に、私は間の抜けた質問をした。声を掛けられて、それからどうするつもりだ。
 訊かれた彼女は口をへの字に曲げて相変わらず黙っていた。そのままじっと私を見詰めるその目に涙が溜まり頬を一筋流れ落ちた。
「毎年……」
 唐突に彼女は口を開いた。
「三月になるとお墓に参って下さいましたよね」
「ああ、君の命日だから」
「いつも長いこと手を合わせて下さって、折々の出来事を話しかけて下さって、本当に嬉しかった。いつまでも私のことを覚えていて下さってありがたかった」
「何だ見ていたのかい」
 幸子はべそかき顔のまま笑って首を振った。
「見えるわけありません。だって私、徹さんと一緒に自分のお墓を見ていたもの」
 幸子は柔らかく口の端で笑うと腰の後ろで手を組んで乗りだすように顔を近付けた。
「私、ずっと徹さんの中に居たの。徹さんが忘れずに居てくれたから。六十年の間、徹さんの目を通して海や山を見て、耳を通して風の音を聴いてきました。何度もこのままじゃいけない。徹さんを縛り付けていちゃいけないと思ったけれど。私をいつまでも大事に思って下さる徹さんに甘えていました」
 ざわり。と、薄の穂がざわめいた。
「今年のお墓参りの時、徹さん大きな溜息をつきましたよね。中に居ても別に徹さんの心が読めるようになるわけではないけれど、それでも私には分かってしまった。徹さんは後悔しているんだなって。死んでしまった私に拘って、心を閉ざして生きてきたことを」
「それは……」
 間違ってはいなかった。
「だからお別れする決心をしました。私、先に逝きます」
 幸子はもう泣いてはいなかった。凛とした顔を上げると静かにそう告げた。
「四日間、ごめんなさい。決して意地悪で、素っ気なくしていたわけではないんです。私は弱虫ですね。いざとなったら急に徹さんと話をするのが怖くなってしまって……。
 だって一度でも徹さんと言葉を交わしてしまったら、もう逝かなきゃいけないって分かっていたから」
体が震えた。又、幸子を失ってしまうのか。
「逝くな」
 私は叫んだ。
「逝かなくていい。私の中にいて下さい」
「いいえ。私が居たら徹さんは前を向いて歩けません」
「構うものか、どうせ老い先短い身だ」
 幸子はあの夜と同じ真剣な目をした。そして刺さった硝子を除こうとするかのように私の頬に手を伸べた。
「老いは関係ありません。人は死ぬ時が来れば死にます。それに抗うことはできません。
 誰にとっても人生は中途で終わるもの。完結する人生なんてないんです。
 でもそれまでは生きなくちゃいけない。誰のためでもなく自分のために生き続けなくちゃいけないんです。どんな理由があっても生きるのを止めてはいけないんです。徹さんには、私と同じ過ちをしてほしくないの……。
 空襲の夜――、私は自殺しました」
ざわざわざわ
「おトキちゃんを庇ったんじゃありません。そうすれば死ねると思ったから。焼夷弾に撃たれれば徹さんの傍に行けると思ったから。徹さんはもういないのに自分だけ生きていても仕方がないって思い続けていたから。あの板塀に身を投げ出したんです」
 幾筋も幾筋も、又涙が幸子の頬を濡らした。
「でも、徹さんは生きていてくれた。部隊が全滅しても、壕の底で五日間もじっと這い蹲って私との約束を守ってくれた。気が付くと私は徹さんの中に居て、何度も悔やみました。何て軽々しく命を、人生を、粗末にしてしまったんだろうって」
 幸子の姿が蜃気楼のように揺らいだ。
「幸ちゃん」
 思わずそう叫んだ。彼女が嬉しそうに笑む。それを見て私の心はふわりと軽くなった。  
 不意に私は悟った。この一言が私の春愁だったのだ。愛する人の名を親しく呼ぶことが終にできなかった――。それが私の青春に残した悔いだったのだ。
「あなた」
 消え行く姿の中で幸子は応えてくれた。
「私、十年でも二十年でも待っています」
 幸子は腰で手を組むと笑んだまま揺らいで消えた。木犀の優しい香りが鼻をくすぐった。

 最終日。彼女が昨日まで座っていた席は誰も座らずぽかりと空いていた。
「科学する者にとって最も重要な資質とは何でしょう」
生徒達を見回す。今日は私語がなく静かだ。
「私は好奇心だと考えています。才能の有無ではない。ひらめきでも、努力でもない。事物に関心を持つこと。なんだろうと自分の外に目を向けること。全てはそこから始まる。好奇心さえあれば学問はいつでもどこででもできる。皆さんが年を取って会社を退職しても、八十歳を過ぎた年寄りになっても」
 笑い声がとよむ。
「電車の中でも、便所の中でも、食堂で定食を食べているときでさえ学問はできる。常に身の回りに目を向けてその不思議さに気付いて下さい。それが科学する第一歩です」
 遥かな昔この教壇に立ち、同じ講義をしたことを思い出した。そんな話をしたことすらすっかり忘れていた。

「失礼します」、「ありがとうございました」私と目が合うと生徒達はきちんと挨拶して出て行く。気持ちの隔たりが縮まれば挨拶は当たり前に交わされる。無作法だったのは寧ろ目を合わせようとしなかった私の方だ。
 理学塔を出たところで、「おい、じじい」と呼び止められた。初日に遅刻を注意した生徒だ。お礼参りらしい。
 彼としては気に喰わぬ爺さんを少々痛めつける程度の気持ちだったのだろうが胸倉を掴み掛かる腕をいなして足払いをかけてやった。
 地面に転がって呆然としている彼に言ってやった。
「決して私が喧嘩馴れしているわけじゃない。私は君と同じ年の頃、ビルマで何人もの人を殺した。何度も殺されそうにもなった。その時の身のこなしが六十年経ってもこうやって身に染み付いて離れないだけだ。君達は決してそんな経験をしてはならない。次の世代にもさせてはならない。そのために私も君も自分に何ができるかを考え続け、実行に移さねばならない。一生死ぬまでそうしなければならない。つまらぬ諍(いさか)いに手を染めている場合ではなかろう」
 私の言葉が彼の心に響いたかは甚だ怪しい。
 だが、教科書に書かれた言葉としてではなく同じ時代を生きる者の知恵として私は彼にそれを伝えたかった。たかだか六十年前の出来事だ。歴史というには生々し過ぎるだろう。
 私鉄は今日も込んでいた。相も変わらず酷いマナーだ。
「君達、電車の床に座るものじゃない」
 高校生につい注意をしてしまう。言われた彼らはきょとんとしながら立ち上がった。もしかして教わったことがないから、いけないことだと知らないのか。やれやれだ。
「せ、まる、き、し、しか、まる」
 女学生達が歌うように唱える。期末試験が近いのだろう。そう、彼女達はまだまだ学び始めたばかりなのだ。
 しっかり学びなさい。学べる時間があることに感謝し、その時間を大切にしなさい。
『これをしもまた一つの春愁というべきであろうか』
 かつて読んだ喜八の詩の一節が脳裏をよぎった。いや止そう。柄にもない感傷だ。
 改札を抜けると、私の歩みを励ますように木犀の香りが風に乗ってやってきた。

  <了>

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