「それよりさ、どこかななこの行きたいところにつれてってやるよ」
ふうふうと、息(いき)を切らせてくやしがるななこちゃんがかわいそうになったのか、イダテンくんは木のてっぺんから風のように飛び下りてきて言いました。
「どこに行ってみたい?」
「海を見たい」
まよわずななこちゃんは言いました。
「よし、おぶされ。しっかりつかまってろよ」
ななこちゃんがイダテンくんの肩(かた)をしっかりにぎっておぶさると、イダテンくんは地面をけりました。 ななこちゃんの耳元で風がうなり声を上げました。菜の花の黄と緑 がいく万もの黄金色(こがねいろ)のきぬ糸になって二人をくるむように流れていきます。森の緑。畑の黒。灰色のビル。あか、あお、き、むらさき、こう水の ようにわき起こる色たちがみるみる混ざり合って真っ白な光に変わります。鳥の鳴き声も、街(まち)のざわめきも、またたくまに消えてななこちゃんの耳には イダテンくんの足音しか聞こえなくなりました。真っ白な光の中を時計(とけい)の秒針(びょうしん)が全速力(ぜんそくりょく)で文字ばんを回るように、
力強く、そのくせリズミカルにあの白いくつが立てる軽やかな足音だけが響(ひび)いているのでした。その音を聞いていると、ななこちゃんは自分がいまどこ
にいるのか、それどころか動いているのか止まっているのかさえわからなくなってしまいました。
だしぬけに、白い光がほどけて色たちが息をふきかえしました。気がつくとななこちゃんはレンガ色をした土の上に立っていました。でこぼこした赤(あか)茶色(ちゃいろ)の地面がどこまでも続いています。
「あんまり前に出るなよ。落(お)っこちるから」
イダテンくんの声に顔をあげたななこちゃんは目の前のけしきを見て声が出せなくなりました。ななこちゃんとイダテンくんは高い高いがけの上に立っていたのです。はるか下の方にお日さまの光をはね返しながら青い水が広がっていて、空のはてまで続いていました。
「あれが海だ」
ななこちゃんは、おそるおそる体をのり出して海をのぞきこみまし た。青い水は底(そこ)がはっきり見えるほどに透明(とうめい)で、じっと見ていると吸(す)いこまれてしまいそうです。よく見ると海の色はいく万もの色 ガラスをまき散(ち)らしたように少しずつちがっていて、まばたきする度にまた別の色に変っていくのです。
その大きなモザイクの上を、白い線がいくつもいくつももり上がって遠くから目の下の砂浜(すなはま)に近づいてきては重なって消えます。
「あれが波(なみ)?」
「そうさ。よく知ってるな。おっ、くじらだ」
イダテンくんが指さす方を見ると、水の上に大きなイチョウのよう な黒い尾びれが見えます。尾びれが水面(みなも)をたたいてしぶきを上げると、そのむこうに大きな黒い体があらわれました。その背中(せなか)からふん水 のようにしおがふき上がるのを見て、ななこちゃんは『はあ』とため息をつきました。
そのまま二人は、ずいぶん長いことだまって海を見ていました。
「ほかの海も見せてやろうか」
イダテンくんにそう言われた時、ななこちゃんはここをはなれるのがもったいない気がしてためらったのですが、知りたがり屋のむしに背中(せなか)を押されて立ち上がりました。ほかの海ってどんなだろう?
ななこちゃんがイダテンくんの背中(せなか)におぶさると、海のモザイクはその色を溶(と)かして、また真っ白な光に変わりました。
今度目を開くとななこちゃんはコンクリートの地面に立っていました。息を吸い込むと今までにかいだことのない強いにおいがしてむせそうでした。海はすぐ目の前にあって、いくそうもの船がエンジンを響(ひび)かせながら行き来していました。
「魚をとる船のみなとだ。ほら、とってきた魚を下ろしてるだろ」
イダテンくんの指さした方を見ると、コンクリートの地面に横づけされた船から、男の人たちがいくつもの大きなはこを下ろしているところでした。はこの中で大きな魚がはねて、銀色のうろこが光っています。
その次には、ななこちゃんは高い高い橋の上にいました。海の上にかかっている大きな橋です。橋の上をたくさんの自動車が走っていました。遠くに高いビルがかたまっている大きな街(まち)が見えました。橋のそばを大きな船が通っていきました。
その次に白い光をぬけた時、急に冷たい風がふいてきて、ななこちゃんは思わず大きなくしゃみをしてしまいました。足元を見ると白い氷の地面に立っています。
「ここらへんは、もうすぐ夜になる」
「冬になるんじゃないの」
「うん。冬の間じゅうここでは朝がこないんだ。一年の半分は夜のままだ」
イダテンくんの話はあまりにふしぎで、ななこちゃんはすぐには信じられませんでした。ほんとうに、何か月も朝が来ない場所なんてあるのでしょうか。
向こうの氷の山にペンギンがならんでいるのが見えてうれしかったのですが、ただただ寒くて、足ぶみしながら、『別のところに行こうよ』とイダテンくんをせかしました。
気がつくとまっ白い砂(すな)の上にななこちゃんは立っていまし
た。砂(すな)はどこまでも続いて、白い波が寄(よ)せてきてはその端(はし)をぬらしていきます。ななこちゃんはくつをぬぐのも忘(わす)れて、海の方 に走っていきました。まだ冷たい水がそれでも気持ちよくて、ななこちゃんは何度も波に手をかざして服をびしょびしょにしてしまいました。
「かせひいても知らないぞ」
もどって来たななこちゃんをイダテンくんはあきれたように見なが ら言いました。それから二人は、砂で大きな山を作ったり、トンネルをほったり、きれいな貝がらをひろったりして遊びました。手も服も砂だらけになって、手 でこすったほっぺたにまで砂がくっつきましたが、二人は気にもかけませんでした。そして、お日さまが海に近づいて真っ赤になるころ、またあの黄色い菜の花 の原っぱにもどって来たのです。
「ねえ、あしたもいっしょに遊ぼうよ。明日の朝、おべんとう作ってここに来るから。ゆびきりげんまん」
ななこちゃんは、そういうと小指を立てました。イダテンくんはその小さな指をじっと見ていましたが、あわてたように手を背中(せなか)にかくてしてしまいました。
「だめだ。指きりなんてできない」
「どうして?」
首をかしげるななこちゃんから目をそらせて、イダテンくんは横を向きました。
「人間は、ときどき約束(やくそく)をやぶることがあるけど、神様は約束(やくそく)を決してやぶらない。だから、できない約束(やくそく)はしちゃいけないんだ」
「言ってることがわからないよ」
「ななことはここでお別れだ。元気でな」
そう言うとイダテンくんはくるりと後ろを向いてしまいました。ななこちゃんは小指を立てたまま動けなくなってしまいました。