里菜と続編図書館
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チャプター
      


 貸し出ししてくれたら良いのにな―図書館の限られた時間で読める量はわずかだ。どうしたって読みたい本を厳選する必要があった。
 それでも里菜は一冊、また一冊、懐かしい物語の中の人々と再会を果していった。せいたかさんとおちび先生。ジュディとジャービス。もう会えないと思っていた彼らと新しい物語を思い切り満喫できた。続編図書館には映画のライブラリもあったので、少し大きくなったさつきとメイちゃんにも会うことができた。
『ここにある間、本の中の物語は定まらない』―トナエの言葉を思い出して『ぐりとぐら』をもう一度取り寄せてみた。シフォンがくわえて来た本は『ぐりとぐらのあまやどり』という題名で前とは違う物語だった。もしかして、無限に新しい物語が出てくる?なんだか怖くなって他の本ではまだ試していない。
 桃ちゃんを連れて来ちゃだめかな?クビキさんには確かめていないが初めて来た時のトナエの口振りから里菜の世界の人間は本来会員になれないみたいだ。でも、桃ちゃんは里菜の親友だし、何より続編図書館の噂を最初に聞いてきたのは彼女だ。クビキさんに相談してみようと思いながら言いそびれていた。
 会員といえば里菜は図書館の中で会員の姿を見たことがなかった。立ち並ぶ書架の間を本をくわえた小犬が駆けて行く姿はよく見かける。だから、広大な書架の森のどこかに小犬を待っている会員がいるのは間違いないらしい。けれど何度追っても見失ってしまって犬達のゴールがどこなのかはさっぱりわからなかった。だからその会員達が里菜と同じ人間なのか、まるで違う『何か』なのかもわからない。たとえば布のように薄っぺらで幽霊みたいに向こうが半分透けているような『何か』が書架の間でゆらゆら揺れながら本のページをめくっているかもしれない。そんな姿を想像すると不気味でちょっと怖かったけれど、ここの図書館はいつ行っても午後の陽差しがいっぱいに差しているのでそんな姿でさえユーモラスに見えるような気がした。
 その日、里菜が続編図書館に行くとトナエが受付に座っていた。
「こんにちは」
 トナエの口調は穏やかだけど、相変わらず受付の人みたいで他人行儀だった。
「ねえねえ、ここの会員ってあっちの人間はわたしだけなん?」
「会員の個人情報に関するご質問は……」
「あんたはコンピュータか。あ、そや」
 里菜はポケットから丸いボール型のチョコレートを一つ出してカウンターに置いた。
「これでどうよ」
「ですから、館内での飲食は……」
 里菜が指先でチョコを弾く。『あっ』トナエは思わず声を上げてカウンターから転がり落ちそうになったチョコをキャッチした。
「はい、受け取った」
「ちょっと……」
 手の中のチョコと里菜を交互に見ながらトナエはあたふたした。里菜はポケットからもう一つチョコを出して口に放り込んだ。
「ええと、他にも里菜さんの世界の方の会員はいらっしゃいます」
 トナエは口をとがらせて抗議しようとしたが、やがて諦めたように溜息を一つつくとそう言った。
「本来は会員登録しない規則なのですが、里菜さんと同じようについうっかり登録してしまうことがあるんです」
「あの……。友達とか連れて来たらだめ?」
「規則ですから」
 チョコを口に入れながらトナエの答えはにべもない。
「じゃあせめて本の貸し出しできへんかな?」
「とんでもないです」
 トナエの声が裏返ったので里菜は驚いた。
「あっちの世界にこっちの本を持って行くのは……」
「え?どうなるの?」
 その時、奥でトナエを呼ぶクビキさんの声がしてトナエは慌てて立ち上がった。
「とにかくダメです。それより里菜さん」
 トナエは『ご用の方はベルを鳴らして下さい』という札を立てながら言った。
「続編の読み過ぎには注意して下さい。良くないことが起きますよ」
「えっ?」
 聞き返そうとする里菜に急いで会釈してトナエは奥の部屋へ消えた。その中途半端な警告はチョコの仕返しかいっ?里菜は心の中でそう呟(つぶや)いた。

 「というわけで、平清盛(たいらのきよもり)が始めた平家の政権は壇ノ浦(だんのうら)の合戦で安徳(あんとく)天皇(てんのう)が亡くなることで終わりを迎える。平家物語の最後もこの場面で締め括られるわけやが……」
 先生が教室を見回すと皆いっせいに首をすくめた。先生の真っ直ぐに伸びた指は―里菜を指した。ついてないと思いながら里菜は起立した。
「平家物語全体を通して流れるテーマを四字熟語で表すと何や?」
「ええと……、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)だと思います」
 臥薪嘗胆は復讐のためにつらい試練を我慢したり、目的を達成するために苦労や努力をする意味の四字熟語だ。平家と源氏の争いを考えるとぴったりに思えた。先生は里菜の答を吟味するように小首を傾げて『うーん』と唸(うな)った。
「源氏の視点からみればそう言う考え方もあるな。けど、タイトル通り平家が主役の物語と考えると別の熟語になるんちゃうか?」
「でも、安徳天皇が壇ノ浦で亡くなったというのは偽装でした。安徳天皇は実はモンゴルに逃れてチンギス・カンと協定を結び、その息子がフビライ・ハーンを名乗るんですよね。そのフビライがやがて元寇(げんこう)を起こして鎌倉幕府に反撃するわけですから、これは源氏と平氏にとっての臥薪嘗胆と考えるのが……」
 クラス全体が妙に静かになった。そこ、ここで、かすかに笑い声が聞こえる。里菜は急に心細くなってきて語尾が尻すぼみになった。
「ファンタジー小説か何かの読み過ぎちゃうか?平家物語の話やで」
「え、ですから平家物語と……あっ」
 里菜の答には続編のストーリーが混ざっていることにようやく気付く。オリジナルのストーリーって安徳天皇が亡くなって終わるんだっけ?
「あっ、ああ、もしかして『諸行無常』か『盛者必衰』だと思います」
「もしかせんでも、その二つが正解や。はい、座って良し。……三十七頁開いて」
 先生は話をまとめて授業に戻った。

「やっぱ人魚姫やて」
 桃ちゃんが言う。
「一途さで言うたらダントツやん。愛する人のそばにいるために自分の声を捨てるわ、その愛する人が別の女性と結婚するのに、殺すこともできずに海の泡になってしまうやなんて。純愛のきわみちゃう?」
「けど……」
 里菜は写生の手を止めずに口を開いた。桃ちゃんは絵筆を止めて身構えた。
「したたかな一面を見せてたやん。王子の三人の子供達は全員海の泡に呑まれて溺れ死んだわけで。やっぱり人並みの嫉妬心も……」
 言いかけて里菜は『あっ』と声を立てた。
「い、今のんなしな」
「って言うか、里菜ちゃんこの頃おかしいで。社会の小テストでも変な答書いて点落したみたいやし……」
「ちょっとしたミスや。気にせんといて」
「いや、なあんか良うないもんに取り憑(つ)かれてるんちゃう?心配やねんけど」
 と言いながら都市伝説好きの桃ちゃんは嬉しそうな目で里菜を見た。
「そんなことないから」
 言いながら里菜は心で冷や汗をかいた。世界で自分しか知らない物語だ。続編図書館の本に書かれていることを口にしても他の人にとっては里菜の妄想でしかない。このままあそこの本を読み続けたら、ますます小説のストーリーがごちゃ混ぜになってとんでもないことを口走りそう。まずい!それってただの危ない人やん。トナエが行っていた『良くないこと』とか『読み過ぎには注意』ってこれのことだったんや。しばらく―続編図書館に行くのはやめとこう。里菜は自分にそう言い聞かせた。
「そう言えば『ディアフォレストの風』は読み終わったん?」
 桃ちゃんはふと思い出したように訊いてきた。
「もうちょっと。教会を脱出したナオヤとシンシアが大聖堂に僧兵の援軍を派兵してもらうように直訴するとこまできた。仲間の裏切りでゴルドバに待ち伏せされるとこ」
「お、いよいよクライマックスやな。シンシアはさらわれるし、ナオヤは木に縛られてコヨーテの餌食に……いう場面やろ」
 桃ちゃんは絵筆を黄色いバケツに突っ込み、パレットに緑の絵の具を伸ばした。
「このままナオヤはコヨーテが美味しく頂きました―いう結末やったらどうする?」
「あのなあ、それではお話にならんやん」
「へえ、里菜ちゃんでもそう思うんや」
「『でも』って何よ。『でも』は止めて。けど、ホンマにそんな結末やったりして。で、シンシアはゴルドバと年の差結婚するねん」
「げ……。それやったら、続編の主人公はゴルドバとシンシアやな。女盗賊シンシアとか」
「ないない。別の話になってるし」
「わからへんで。案外、続編図書館にやったらそんな本があるかもしれへん」
 桃ちゃんのその一言は氷水(こおりみず)のように里菜の心を一気に冷やした。背中にじわっと汗が伝い落ちた―気がした。
 あるのだ。本当に続編図書館ならそんな物語もあり得るのだ。穏やかな陽差しの差す白い窓辺が脳裏に浮かぶ。長閑(のどか)な情景のはずなのに、里菜はその窓辺がなんだか怖くてたまらなくなった。

 肌を刺す夜の冷気に身震いしながらナオヤは干し草の山を登った。登り切ると不意に視界が開ける。たった二メートルばかりなのに渋谷の高層ビルより見晴らしが良い。月はなかったが星明りがこんなにも明るいことをナオヤは初めて知った。遠くに森の木々の濃い影が見える。左手の牛舎も今は静かに眠っていた。夜明けにはまだ少し時がありそうだ。そのまま体を倒して寝転がる。見たこともない数の星々にナオヤは息を呑んだ。星が降りかかって落ちてきそうだ。
 静かだな―。
 東京育ちのナオヤは車や雑踏の音がしない世界を知らない。やたら虫の声が耳につく。遠くで川の流れる音まで聞こえてくる。
 不意に強い風が吹き上がり、干し草に鼻をくすぐられてナオヤは派手なくしゃみをした。足元で笑い声が起こる。
「あにすんだよ」
 ナオヤが足元に向かって文句を言うと、シンシアは身軽によじ登ってきてナオヤの横に腰を下ろした。
「何してたんだよ」
 ナオヤの口真似でシンシアは言い返した。


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