今宵、酔鏡にて
第六夜 十一月にふる雨
《1》

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チャプター
        


 秋も深まり冬の足音が聞こえ始める時節になると、三時を過ぎれば日差しは心許なく、四時には暮れ始め、五時には宵闇が降りてくる。それが如何にも赤提灯に似つかわしい。
 ましてや今日みたいに雨の降る日は、街ぐるみで夜を待ちわびているかのように昼を過ぎた頃からほの暗い。
 夜がすっかりその帳を降ろした五時十分。朱の提灯の中、墨痕鮮やかに浮かび上がった『酔鏡』の文字を目指して黒い雨傘を差した人影が路地をやってくる。何か良いことでもあったのか男の足取りは軽快に水溜まりを避けながら瞬く間に店の前に辿り着き、真新しい格子戸をカラリと引き開けた。
「いらっしゃい」
 小太りの主人が声を張る。男は店の中を見回して誰もいないことを確かめると満足げに頷いた。
「一番ビール、ゲットやな」
 主人はユウやんに言ってにっと笑った。ジャンパーを脱ぐと適当に丸めてビールケースに置く。カウンターのど真ん中の丸椅子に腰をおろすと入口を見遣ってユウやんは口を開いた。
「格子戸、新しうなったんや」
「ガラスの張り替えだけで済むかと思うててんけどな、思うてたより大破しとった。ま、ガタも来てたんやろうな。申し訳ない気もしたけどお言葉に甘えて作り替えてもろた」
 いつ支度をしたのかユウやんの目の前にジョッキと白い小鉢が魔法のように並べられる。先代の格子戸は九月に吉田のおばちゃん達の夫婦喧嘩のとばっちりを喰って大破した。おばちゃんが約束した通り、早々に大工が来て真新しい格子戸を仕立ててくれた。入口の辺りに立つと未だニスの匂いがぷんとする。
「これ何?」
 箸を割りながらユウやんは小鉢に盛られた平たい漬物を観察した。沢庵にしては随分色が濃く焦げ茶色である。鼻を近付けると独特の燻したような香りがした。
「いぶりがっこ、秋田の名産や。沢庵を燻製にして作るんやけど、元々は囲炉裏の上にぶら下げてひと冬かけて燻しとったらしい。日本酒だけやのうてビールやウィスキーにもよう合う面白い肴やで」
 主人の解説を聞きながらユウやんはスモーク沢庵を一枚口に放り込んだ。甘辛い味の奥に煙たいような不思議な香りが立つ。
「なんやコマーシャルみたいやけど囲炉裏の味がするいうんかな」
 ユウやんは自分で言って自分で笑った。
「いかにも冬がそこまで来てますいう感じやな」
 壁のホワイトボードにはこう書かれている。

  お品書き
  秋の終わり

「なんぞちょこっとした焼き物(もん)でももらおかな」
「椎茸でおもろいもん作ったから、それ出させてもらおか」
 ユウやんの注文に主人はそう答えて、支度に掛かった。
「なあ聞いてえな。先週めっちゃめでたいことがあってん」
 ユウやんはむしょうにその話がしたいらしい。主人の応(いら)えを待たずに喋りだした。
「震災のすぐ後くらいかな。神戸はわやになってたし、わし、あの頃は大阪の京橋辺りでよう呑んでてん。客の大半が常連いう焼鳥屋があってな、そこで西本いうやつと仲良うなってんけどな、わしの四つ下でコンピュータ会社でSEやってるやっちゃ」
 炭火の上で椎茸が焼ける香ばしい匂いがする。ユウやんはそちらに気を奪われながら又、いぶりがっこを齧った。
「これが人の話は聞かん。空気は読めん。押しの一手みたいな強引なやつでな」
「またえらい人と付き合うとるな」
「いや、それがなんや憎めへんねん。ムードメーカーいうのかな。どこか間が抜けてて本質的には毒がないねん」
 ビールが半ば空になる。
「ある日、その西本と呑んどったらOLの二人組が入ってきてん。今年社会人になりましたみたいな顔してて、如何にも場馴れしてへん雰囲気でえらい浮いとった。皆、素知らんふりしてるけど、店中の客がその娘(こ)らに注目してる空気が伝わってきた」
「そういうのあるなあ」
 主人は仕上げにバーナーで軽く椎茸を炙って、皿に移しながら笑った。
「ふと、隣見たら西本がえらいそわそわしてるねん。分かり易いやっちゃなて思うたで。で、『どっち?』て訊いたら『右』言いよる」
「ほんま分かり易いな。椎茸の野菜詰めや」
 白い平皿に軸を切った椎茸が並んでいた。椎茸の傘を器にして微塵に切った野菜がこんもりと盛られている。上から振ったパン粉のキツネ色がいかにも香ばしそうだ。
「野菜だけやったらまとまりがつかんから、ツナを足してマヨネーズで和えてある」
「なんやコンビニのおにぎりみたいやな」
 笑いながらユウやんは椎茸を齧った。意外に複雑な味が口の中に広がって目を見張る。
「で?」
 主人は目で続きを催促した。
「ん?ああ。焼鳥屋の料理って『ずり』とか『ぼんぼち』とか符丁が多いやろ。お品書き広げてまごまごしてたから、どないしたん?って声かけたってん」
 ユウやんは椎茸がいたく気に入った様子でしみじみ噛みしめながら幸せそうな顔をする。
「その頃、西本は社会人三年目いうとこやからその娘(こ)らとたいして変わらへんかってんけど、こっちは十年オーバーのベテランや。場の雰囲気作ったってしっかりその娘らと仲良うなってん」
「って、ユウやんいくつから呑んでるねん」
「十六ん時から……。ええと、もう時効になっとるよな?」
 おそるおそる訊く。四十過ぎの男を今更未成年者の飲酒で逮捕しに来る警察もあるまい。
「話したことなかったっけ?わしの最終学歴って中卒やで。高校中退いうやっちゃ」
 ユウやんはジョッキを空にして焼酎の湯割りを頼んだ。
「わしの実家は芦屋の山手にあるえらい金持ちのお屋敷やねんけど、親と大喧嘩して高一の時に家飛び出して以来この生活や。時代も良かったわな。バブル経済まっしぐらで十代がふらふらしてても何とでも食えた」
 目の前に出された焼酎の香りをくんとかいでから、ユウやんは旨そうに呑んだ。
「その娘、弥生ちゃんていうんやけど。OLやのうて成り立てほやほやの婦警さんやった。ま、縁があったんやろな。その夜がきっかけで西本と弥生ちゃんは付き合い始めてん。二年くらい付き合うてからかな。めでたく結婚した。先週、結婚十周年のお祝いに呼ばれたとこやねん」
 言ってユウやんはまた旨そうに焼酎を呑む。と、唐突に場違いなキューティーハニーのテーマが鳴り響いた。
「ほい。おう、どないした?……。ええっ、あれ今日やったかいな。……。うわっ、すまん」
 ユウやんは電話を続けながら器用にジャンパーを羽織る。ポケットから丸めた札を出してカウンターに置くと身振りで釣りは今度と伝えて主人に片手拝みした。
「わかった。すぐ行くから待っとって」
 素早く椎茸の残りを頬張ると焼酎で流し込んでユウやんは入口に向かった。主人に背を向けたまま軽く手を振り、滑りの良くなった格子戸を開けて傘を差し出す。
「うわっ、本降りになってきよった。十一月に降る雨は質(たち)悪いねん。雪に……」
 ユウやんの声は格子戸の向こうに消えて主人の耳には届かなかった。少し間が空いてから大きなくしゃみが聞こえた。

 神戸という街の十一月はなんとも中途半端な季節である。秋というには底冷えがする。かと言って木枯らしが吹きわたるほど本格的に冬がやってきているわけでもない。自然、行き交う人々の服装もまちまちに入り交じっている。
 しのぶがボアのコートで重装備をして酔鏡の格子戸をくぐったのはユウやんがその戸を飛び出して行ってから二週間ほど後の雨の夜のことである。
「こんばんは」
 着膨れた毛皮の奥からくぐもった声が響く。いらっしゃい―と主人が声を張ったがよく聞こえなかったらしく、しのぶは小首を傾げた。『あっ』と小さな声を立ててフードをはね上げる。被ったままだったことに気付いていなかったらしい。桜色のリボンに束ねられたポニーテールが肩の上で躍った。
「一番やで」
 主人に言われてまた『あっ』と声を上げ、誰もいない店の中を見回した。
「ごぶさたやね」
 年代物らしいコートを脱いで裾の雨滴を払いながら頷くと『いろいろやることがあって……』と、しのぶはきまり悪そうに答えた。それから、はにかんだような笑みを見せる。
「はい、一番ビールや」
 しのぶがカウンターにつくのと同時にジョッキと小鉢が並ぶ。しのぶはそれを脇にやって、もう一度誰もいないことを確かめるかのように店内を見回した。
「あの」
 思い切ったように口を開く。が、間合いを計ったように格子戸が開いたので、もの言いたげな顔のまましのぶは言葉を呑み込んだ。
「ほら、やっぱり一番を狙うのは無理がありましたよ」
 ひょろりと細長い体躯を覗かせながらセンセが言った。手に提げた黒い傘からしたたり落ちる雨滴が雨脚の強さを窺わせている。センセに続いてランプの精のような巨体がぬっと店に入ってきた。
「おかしい。この雨でもう客がいてるやなんて……。って、しのぶちゃんかいな」
 バリキはしのぶと好対照にユニクロのスエットシャツにパンツと夏場のような薄着だ。大きなバッグを後ろに置いてしのぶの隣に腰をおろしたが、その頬は微かに上気していて店に着くまでの運動量を窺わせた。
「しのぶさん、お久しぶりですね」
 バリキの隣に陣取ったセンセがその頭越しにしのぶに声をかけた。センセの服装はバリキとしのぶの中間でジャケットの下にグレーのベストを合わせている。『いろいろ私用に取り紛れていて……』―しのぶがもごもご言っている間にバリキとセンセの前にもジョッキと小鉢が並んだ。
「ほな、お久しぶりです」
 言ってバリキがジョッキを掲げ、両隣から差し出されたジョッキとぶつかって賑やかな音を立てた。


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