今宵、酔鏡にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《1》

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チャプター
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「珍しいですね。高橋さんが事務所においでになるやなんて」
「わしも改まって本名で呼ばれるとなんやこそばゆい感じやな。いつも通りユウやんで構へんで」
 ユウやんは居心地悪そうにソファの上で身じろぎした。言われた男は『職場ではそういうわけにもいきませんから』と笑った。窓の外に小さく大坂城が見えている。大阪城公園から離れた立地であることを考え合わせればここがビルの高層にあることが窺える。
「刑事裁判に強い弁護士ということでしたけど……」
 男はテーブルに置かれた湯飲みを取りながら本題に入った。
「ああ、起きたことは純粋に事故やと思うてる。けど、その後いらん偽装しよったから死体遺棄罪になると思うねん」
 ユウやんは先月知人の身に起こった事件を詳しく説明した。
「なんせ、三つの子がいてるねん。母親と離しとうないし、大きくなってから後ろ指さされるような経歴も残しとうない」
 無茶な頼みかもしれないが、そういった事件に強い腕の良い弁護士を紹介してほしいとユウやんは頭を下げた。
「私が直接担当しても良えけど、うってつけが一人おりますわ」
 男は携帯電話を取り出すとしばらく言葉を取り交わしていたがやがて満足げに電話を切った。どうやら話がまとまったようだ。
「いやほんま、恩に切ります」
 立ち上がると姿勢を正してユウやんは腰を折った。
「ちょっ、やめて下さい。ユウやんらしうもない」
 口を滑らせたことに気付いて男は慌てて手で口を覆った。
「仕事さしてもろただけです。それに……、あの白澤商事と揉めた時、ユウやんがいてへんかったらこの事務所はなくなってました。ちっとは恩返しさせて下さい」
 照れを隠すように男は早口で言った。
   ※
「工藤先生」
 テキストを脇に抱えて廊下を歩くセンセは前を行く数学科の教授を呼び止めた。その声に足を止めた工藤教授はセンセの方を振り返って『はい』と応(いら)えた。少し時間をもらえないかとセンセは言って階下のカフェテリアに誘った。
「ずい分昔の話になりますが……」
 センセはそう断ってから用件を切り出した。二人の前のテーブルには白いコーヒーカップが湯気を立てている。
「震災の時の話なんです。あの頃、うちは学生の操作ミスで卒論のデータが全部消えて大騒ぎになっておりました。で、急遽データを集計し直さないといけなくなったが人手が足りなくて、先生の研究室からも応援を出して頂いてましたよね」
 工藤教授は記憶をまさぐるように目を細めながらコーヒーを啜った。
「ええ、センター試験の前後でしたな。幸いうちは卒論も一段落して落ち着いていましたから、助手を一人そちらの応援に回したと記憶しています」
 言って、工藤教授は忘れていた歯痛を思い出したように渋い顔になった。
「本当に申し訳ないことをしてしまった。徹夜で仕事をしてもらった挙げ句、建物の倒壊に巻き込まれて……」
 センセも言葉を詰まらせる。で?と工藤教授は話を持ち出した理由を尋ねた。
「あ、ああ。その……、薄情な男と思われても仕方ありませんが、あの時亡くなった助手の方の名前がうろ覚えなのです」
 言われた工藤教授は遠い目になって言った。
「優秀な男でした。何より生まれついての科学者だった」
 太い溜息を吐いてから工藤教授はその助手の名を告げた。
「結城(ゆうき)徹(とおる)。あれから十二年経つが未だに彼を越える助手に恵まれることはありません」
「確か、ご家族がいらっしゃいましたよね」
「ええ、博士課程の時に学生結婚して、震災の年にはまだ小学生の娘さんがいたはずだ」
「そのお嬢さんの名前はわかりませんか?」
 センセの言葉に工藤教授の目付きが用心深げに細められた。
「さあ、そこまでは覚えていません。というより震災の直後に引っ越しをされて消息がわからないのです。それより吉岡先生。どうして今更そんな昔のことを調べておられるのですか」
 工藤教授の口調はあからさまに不機嫌な調子を帯びていた。
「いや、最近そのお嬢さんが実は身近におられるかもしれないことを知ったのです。もしかして、工藤先生の研究室で事務をされている……」
「吉岡先生、見え透いていますよ」
 工藤教授はセンセに顔を近付けると小声ながら刺すような口調で囁いた。
「大方、白澤家から依頼を受けて探りを入れに来られたのでしょう?」
「あの、何の話ですか?」
「とぼけなくても良い。だが、たとえ総理大臣が来ようとも僕は彼女を渡すつもりはありませんから」
 言い捨てると工藤教授は席を立った。テーブルに残った二つのコーヒーカップを眺めながらセンセは戸惑うばかりだった。
  ※
「しのぶちゃん、ちょっとええかな」
 呼ばれたしのぶは何か考え事をしているのか顔すら上げない。
「しのぶちゃん」
 耳元で言われてしのぶは、椅子の上で撥ねて、危うく引っ繰り返りそうになった。
「あ、はい。御崎先輩。なんでしょう?」
 資料を抱えた御崎先輩の方に向き直りながら、些かハスキーな疲れた声を出す。
「この表の数字、合うてる?なんやおかしいねんけど」
 しのぶは指された箇所を凝視していたが、しばらくすると『あれ?』と言い、程なく『ええっ』と叫んだ。
「ゼロが二個足りません。どうしてでしょう?」
「そらこっちが聞きたいわ。佳代ちゃん、ちょっと待ってそれ計算し直しや」
 御崎先輩は聞こえよがしの大声を上げる。しのぶは思わず首を竦めた。開けっ広げな性格の好美先輩と違って、御崎先輩はちょっと粘着質なところがあってしのぶは苦手だった。
「すみません。すぐ直します」
「頼むで。今週、三回目やん。ただでさえ今日は好美ちゃんが風邪で休んでるんやし」
 言いながらしのぶの隣の席を見遣る。好美先輩の机は相変わらず大量の資料が乱雑に積まれ、今にも雪崩を起こしそうだ。
「もっとも風邪かどうか怪しいけど。昨日、飲みに行ったんやて?」
「いえ、私は用事があったので先輩は一人で行かれたみたいです」
 小言の出鼻を挫かれたのが忌ま忌ましかったのか、舌打ち代わりに『修正急いでや』と言い捨てて先輩は席に戻って行った。
  ※
「わかってると思うけどこっちは助っ人の松崎さん入れて五人しかおらへん」
 相沢は腕組みをしてチームメイトを一渡り見渡した。端に立っているバリキも頷いた。ロッカールームは静まり返りキャプテンの相沢の声だけが響く。バリキは試合前のこの空気が好きだった。
「相手は柳沼や。わかってるな」
 男達の顔が心なしか強張ったように見えた。
「けど、相沢さん。俺、柳沼のことは噂で聞くだけで実際に当たったことはないねん。そんなに酷いんか」
「あいつらの試合見てるとよそのチームのラフプレーが可愛らしう見えてきますわ」
 バリキの隣に立つ男が苦い顔をして言った。
「あいつら、試合中はボールより審判の視線の方をよく見てるんちゃうかと思いました。それくらい巧妙に仕掛けて来よるんです。特にバスケはオフェンス有利で、まずファウル取られることがないですやん。向こうがオフェンスに回ったときは恐怖でした。木下も八木も向こうのオフェンスでやられたんです」
 相沢のチームは先月柳沼と試合をした。その試合で主力選手二人が手痛い負傷をして復帰の目処は立っていない。その原因が執拗なラフプレーにあったというのだ。
「柳沼は中学バスケの頃からある意味有名なやつでしたけど、それは勝つためやったら手段を選ばんことで有名なんです。あいつがあの柳沼商事の御曹司やって知ってます?」
「なんとなく聞いたことはあるな」
 大手の総合商社だ。
「連盟にもあちこち息がかかってるらしくて、良うない噂を聞きます。とにかく手に入れたいものはどんな手使っても……」
「おい小田、それくらいにしとけ」
 相沢がじれたように言って黙らせた。
「とにかく、怪我には気いつけてくれ。一人でもリタイアしたら今日の試合はアウトや」
 相沢の檄(げき)に全員が『はい』と声を揃えた。
   ※
「電話でも申した通り。うちも手いっぱいで、これ以上子供さんを受け入れられる状況やないんです」
 真冬にも関わらず小太りの園長先生はしきりにハンカチで汗を吹いている。隣の部屋から小さな子供のけたたましい笑い声が響いた。
「いや、そないに長期やないんです。三カ月。それがあかんかったら二カ月でも一カ月でも構いません。ともかく、今日、明日にでも昼間預かってくれる園を探してるんですわ。助けると思うてお願いします」
 珍しくスーツを着込んだユウやんが頭を下げる。
「いや、頭を下げられても困りますわ」
「……園長先生、腹割って話しましょか。最初お願いした時は預かれますいうお返事頂きました。それが、次の日になって生徒がいっぱいであかんと言われた。誰かは知らんが、こちらに連絡してきたんちゃいます?その子の親は刑事事件で警察の厄介になってるて」
 園長先生は俯いて黙り込んだ。ハンカチを握りしめた手に力が入っている。
「いや責めてるんちゃいますよ。当然の対応ですわ。いくら子供には罪はないいうても、ここの園児の親御さんにしたら気色悪いわ。わかりました。ここの入園は諦めます」
 ユウやんは言って人懐っこく笑った。顔を上げた園長先生もつられて頬を緩める。
「その代わり、来週から園長先生の遠縁の子をこの部屋で預かって下さい。三歳の男の子やけど、手がかからん大人しい子です」
「ちょっ、それは……」
「両親が急な出張で三月までロンドンに行かなあかんようになった言うてくれれば構いません。この部屋から出さんかったら他の子と接触することもないでしょ」
「しかし……」
「いや実は噂の出元はもうわかってるんです。これ以上妙な噂を撒かんように手は打ちました。あ、もちろん預かって頂いたお礼は相応にさしてもらいますよ。それから、もう一つ条件付けさしてもらいましょ」
 ユウやんが再び笑う。が、今度の笑いはすこぶる人の悪い笑みだった。


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