今宵、酔鏡にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《1》

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チャプター
       

  10

「問題はもう一つの方や」
 吉田のおばちゃんは言葉を切ってぐびりと焼酎のグラスをあおった。
「最近、耕作ちゃんの浮気が発覚してん」
 暗い目をしておばちゃんはぼそりと言った。
「ええっ」
 驚愕の色が走ったしのぶの顔は一気に怒りで真っ赤になる。
「何ですかそれ。最低やん。おばちゃん、そんな男とはすぐ別れた方が良えですよ」
 しのぶはおばちゃんの袖をぎゅっと掴んだまま捲くし立てた。
   *
 朝から間断なく小糠雨が降っている。六月とは言いながら日暮れ近くにじっと立っていると身震いの一つも出るような肌寒い空気が静かな住宅街を包んでいた。遠くの教会で五時を報せる鐘が鳴り始める。夏至が近いので、あたりはまだ十分に明るく鐘の音は町の静寂を破ることなく優しい音色で雨ごと街をくるみ込んでいくようだ。
 東西に伸びる細い路地の端、雨脚のカーテンの向こうに大きな人影が立った。いつもは夕陽を背に疾駆してくる仁王のような大男が今日はゆったりと歩いてくる。それでも歩幅が大きいので瞬く間にその巨体は大きく迫る。手に持ったコンビニで五百円といった風情のビニール傘はおもちゃのように小さく雨を避ける用をまるで果たせていない。スウェットシャツの肩はじっとりと雨が滲んで色が変っていたが、男は無頓着な様子で規則正しい歩調を乱すことなく歩いていた。
 鐘が止んだ。路地の中ほどで小さな朱(あか)い光がぽっかりと浮かび上がった。達筆な墨跡の『酔鏡』という文字が浮かび上がる。男の歩調が心なしか速くなった。灯ったばかりの赤提燈を過ごすと格子戸にかける手ももどかしく男は立てつけの悪い戸を力任せに開いた。
「うっしゃあ、一番……」
 鬨(とき)の声を上げガッツポーズを決めようとした男は、店の中に先客を見つけて中途半端に固まった。
「残念やったなバリキ。あたしが一番や」
 革張りの丸椅子に腰かけた先客は、くるりと椅子を回して振り返ると底意地の悪そうな笑い方をした。
「なんで吉田のおばちゃんがおるねん」
 へたれたダイダラボッチのような顔つきでバリキは吉田のおばちゃんを見下ろした。
 年は五十半ば。きついおばちゃんパーマをあてた髪は、緑、紫、黄に部分染めされていて、大きな丸顔に細い目とちまちまとした鼻と口が乗っかっている。目の覚めるような原色オレンジのブラウスに金色のパンツという出で立ちは、『派手さが美徳』という生粋の関西のおばちゃんの信条を余すところなく具現化していた。腰を下ろしていても充分威圧感のある巨体で、身長は百七十そこそこながら体重は百キロ超えという噂だ。
「なんでって、ボランティアに決まってるやん。流行らん店が潰れんようにお金落としに来たってん。雨降っててヒマやったし」
 おばちゃんのアルトの低音は普通に喋っていてても凄味がある。
「その言い方は誤解を生むで。晴れとっても曇っとってもおばちゃんヒマしてるやん。そやのうて、いつもはどこぞで呑んでこの店に来るんは八時回ってからやのに、なんで今日に限ってちゅうこっちゃ」
「雨の日に遠出はしとない」
「あーあ、なんちゅうこっちゃ」
 大仰に天井を仰いでからバリキは丸椅子に尻を乗せた。椅子が悲鳴を上げて抗議する。
「ほい、一番ビールや」
 小太りの主人がおばちゃんの前にジョッキを置いた。主人の流儀で、その日の最初の客の一杯目は主人の奢りとなる。意気揚々と駆けつけたバリキは敢えなく『一番ビール』を取り逃がしてしまった。
「だいたいフライングやで。五時前からおったやろ」
「安心し。一番ビールは五時まで待ったったから」
 旨そうにビールを半分ほど干してからおばちゃんはけろっと言った。
「ほい、二番ビール」
 主人の厭味な笑いに反論する気も失せてバリキは黙ってジョッキに口をつけた。何も言わなくても客の嗜好を熟知している主人が絶妙の呼吸で出してくれる酒が心地好い。
「付け出しはちょっと変わってるで」
 黒い小皿に小さく切った木綿豆腐。その上に削り節と黒い味噌のようなものがこんもりと載っている。
「なんやろ」
 言いながらバリキは箸で崩して口に入れた。途端にほろっと苦い風味が広がり後から辛味がついてきた。
「渋いアテやな大人の味って感じや」
「春頃に作っとったふきのとう味噌の出来が良いんで出してみた。俺はもっと苦い方が好きやねんけど苦手な人もいてるからあく抜きはしっかりめにしてる。で、今日のテーマに合わせて後から山椒を混ぜ込んでるねん」
 主人の背後には小さなホワイトボードが掛かっていて相も変わらずそっけない言葉が一言書かれていた。

 お品書き
 辛いもん

「辛いもんて……、辛いもんやわなあ」
 バリキが当たり前のことを言いながら首を傾げる。
「良えキムチが入ってん。あと明太子の切り子が安かった。それやこれやで辛い料理を作りましたいうこっちゃ」
「腹減ってるねん。なんぞお腹が膨れるやつないか」
「あたし、あれな。東北行った時に食べた納豆キムチ。めっちゃ美味しかってん」
「げっ、出た。このえせ関西人。納豆みたいなもんよう食べるな」
「ふっるう。今は大阪のおばちゃんでも納豆たべます」
 おばちゃんは空になったジョッキを振って麦焼酎の湯割りを頼んだ。
「よっしゃ。九州のお客さんに教わった納豆キムチの上級バージョン出したろ」
 ジョッキを受け取りながら記憶を手繰るように一瞬目を宙に泳がせて主人が言った。
 酔鏡にはレギュラーメニューがほとんどない。その日の品書きは仕入れの内容と主人の気分で決まる。店のホワイトボードには料理のテーマしか書かれていないので客は首を傾げながら、食べたいものを感覚で伝えることになる。『揚げ物が欲しい』、『焼き物を』、『何かさっぱりしたもんできる?』、『むっちゃ、おなかすいてるねんけど』―。
 不思議なことに応えて出される料理に客が失望することはまずない。嗜好を熟知している常連ならいざ知らず、初めての客でもそのニーズをピタリと当ててしまう主人の慧眼は長らく客達を不思議がらせている。
「こんばんは」
 格子戸が小刻みに揺すられながら開き、小さな声がした。出てくる料理を想像しながら首を傾げていたバリキはセンサーに反応したように入り口に首を捻った。
「おっ、しのぶちゃんいらっしゃい」
 入り口に立ったしのぶはバリキに声をかけられて行儀よくその場でお辞儀をした。頭の後ろでポニーテールが揺れる。桜色のリボンが雨に濡れて光っていた。よく見ればリボンだけでなく、髪の毛の端から、肩から、ブラウスの袖やスカートの裾からも雨粒(あまつぶ)を滴らせてしのぶは濡れねずみで立っていた。トレードマークの銀縁メガネはびっしりと雨滴を浮かせていて、ほとんど前が見えていない。
「ええっ、どないしたん?朝から雨降ってたやん。傘持ってなかったんか?」
 バリキがどこかで事故にでも遭ったのかと言わんばかりに気遣わし気な声を上げる。
「いえ、さっきまでは傘を持っていたのですけど……」
 しのぶの声が消え入りそうに小さくなる。
「電車に傘を忘れた気の毒なお婆ちゃんがいらっしゃったので傘を貸してあげたんです。駅からここまでならそれ程濡れないかなぁと思っていたのですけど……」
 まるで叱られた子供のようにしのぶは唇をきゅっと噛んで俯いた。しのぶのキャラを考えずに心配した自分がアホらしくなったと見え、バリキの肩は一気に撫で肩になった。
「あのなあ。人が良えのもたいがいやで。駅員さんに話したら済むことやん」
「あっ」
 どうやら、しのぶにはない発想だったらしい。雨滴を浮かせた頬が微かに朱くなった。「えっ?なになに?どないしたん?」
 撫で肩になったバリキの肩ごしに吉田のおばちゃんがひょいと顔を覗かせた。
「あっらあ」
 おばちゃんのアルトがオクターブ跳ね上がってバリキをギョッとさせた。
「めちゃめちゃ可愛いお嬢ちゃんやん。ちょっと、バリキどいてんか」
 おばちゃんは立ち上がると巨大なバリキの背中を押し退けてカウンターの背後を押し通るとしのぶに駆け寄った。前が見えていないなりに何か不穏な巨体が迫ってくる恐怖を敏感に感じ取ったしのぶは「ひっ」と喉で息を詰めてたじろいだ。
「ほんまなんちゅう言い草や。こんなちっちゃい子が親切からしたことを小馬鹿にしくさって。そや、ちょっと待ち」
 おばちゃんは本気の混じった拳でバリキの背中をどやすと自分の席に戻った。不意を衝かれたバリキは「ぐっ」と息を詰まらせてカウンターに突っ伏した。
 おばちゃんは足元に置いた大きな紙袋から特大のスポーツタオルとカラフルなハンカチを引っ張りだすとしのぶに駆け戻る。再三の攻撃による学習効果と持ち前の反射神経を活かしてバリキは第三波の鉄拳をかわした。
「ほんまになあ。寒かったやろ。けど、あんたの親切は間違うてないで。自分が寒い思いしてでもお年寄りを労る。今日日なかなか見られん光景や」
 おばちゃんはタオルをすっぽりとしのぶに被せるとわしわしと拭いてやりながら言う。涙ぐましいセリフとは裏腹におばちゃんの顔は妙に嬉しそうに輝いていて、手付きが微妙にいやらしい。
「げっ、おばはんまさか」

 


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