今宵、酔鏡にて
第一夜 夢見る頃を過ぎても
《1》

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チャプター
         10


 仁王が走ってくる。
 優に百八十センチを超える長身。むやみに分厚い胸板。四本の丸太で誂えたような腕と腿。短い首の上に載ったでかい頭。ぎょろりと?いた目。大きな鼻や口。そのいずれをとっても、さながら東大寺南大門金剛力士像がユニクロのスウェットシャツとパンツを履いて突進してくるようであった。
 いっそ、そのガタイに相応しい地響きを立てていればその姿は冬枯れの夕暮れに妙にマッチする光景に見えなくもなかった。が、仁王の足音はあくまで静かだった。既に一キロ以上の距離を走り、道は徐々に登り傾斜に差し掛かって行くにも関わらず、鍛えられたマラソンランナーさながら、なお息を乱さず仁王は静かに走り続けた。
 多くの港がそうであるように、神戸もまた坂の多い街だ。山が海まで迫り、深く海に喰い込む。大型船を迎え入れるために選ばれた天然の良港とはそういうものなのだろう。
 この物語は2007年亥年が明けて間もない一月の夕暮れ。第六突堤の工場群を抜け、そんな神戸の坂道を一つの黒い影が疾走していくところから始まる。
 仁王はやがて国道四十三号線を越え、住宅街の急坂(きゅうはん)を抜けて行く。はるか坂の中腹に母親に手を引かれて上っていく小さな少女の姿があった。異様な気配に振り返った少女は『ひっ』という短い悲鳴を上げて母親にしがみ付いた。しがみ付かれた母親も迫り来る金剛力士を目にしてその場で石になりかたったが、はっと我に返ると、ひしとわが子の肩を抱いて庇った。仁王は凝固している親子の傍らを脇目もふらず必死の形相で疾駆して行った。
「あかん。間に合わん」
左腕のスポーツウォッチを見遣って、仁王は悲鳴のような呟きを漏らした。

 三宮は神戸の繁華街である。とりわけJR、阪急、阪神の駅が隣接する陸橋は一日中人通りが絶えることがない。背広姿のサラリーマン、制服姿のOL、濃紺のセーラー服を纏った女子高生の群れ、ベビーカーを押した母親、並んで歩く老夫婦、様々な人が行き過ぎていく。
 折しも帰宅ラッシュの混雑が始まった人々の中にひときわ目を惹く男がいた。身長百八十センチ前後。ひょろりと痩せた体躯がその長身を一層際立たせている。真っ白な髪を丁寧に撫で付け、大正時代の書生が掛けていそうな丸眼鏡の奥では穏やかな瞳が覗いている。柔らかく結ばれた口元の端は笑むようなカーブを描いていて、総じて往年の文学青年がそのまま年を経てブリーフケースを抱えて歩いているような印象を抱かせた。
 男はそごうの方から来てJRの駅に向かってゆっくりと歩いていく。特に急ぐでもない足取りに彼の温和な性格が映し出されているかのようだ。男が自動改札に差し掛かった時、頭上で発車ベルが鳴り響いた。
 突如―男の顔から穏やかな表情が消失し、その目がかっと見開かれた。次の瞬間、男は弾かれたように自動改札機に突進するとぶち壊す勢いで突き抜け、持ち前のコンパスを活かして長い階段を駆け上がった。流れるような動きでホームに停車中の列車に猛進すると、男は今しも閉まろうとしていた車両のドアに強引に体を捻じ込んだ。銀色のドアは慌てたように口を開ける。男が素早く車内に滑り込むとまた音を立てて閉まった。
「ええ、発車間際の駆け込み乗車は……」
 鉄パイプの柱に体を預けて一息ついている男の耳に車内アナウンスは全く届いていない。彼は腕時計を見やって呟いた。
「よし。一番だ」

 JR元町駅。場外馬券売り場ができてからこの界隈を歩く男達の姿が微妙に変わった気がする。
 南京街や元町商店街を中心とする洒落た店が並ぶ一角から北にたかだか百メートル。この界隈は観光とは無縁の神戸の地の顔を覗かせている。
 元々、この街は夜の訪れるのが少し早い。高架下の焼き鳥屋では三時に店を開け、四時には品薄になり、六時には閉めてしまうところさえある。夜が早く訪れ、人はゆるりと歩く―そんな元町に忙しなく歩き回る男達がいつしか増えてしまった。
 折りしも一人の小男が場外馬券売り場から出て来た。身長160センチあるかないかの背丈。それが猫背のせいで余計小さく見える。やや三白眼の小さな目。小さな鼻。小さな口と全体にこじんまりとしたパーツの顔立ち。耳には肌色のイヤホン。右手に八つ折にした競馬新聞。左手に赤鉛筆というお約束のような格好がこれほど決まる男も珍しい。不意にくわっと目が見開かれたのは各馬第四コーナーを回ったといったところか。男の肩が緊張して硬くなるのが分かった。不意に男のポケットで倖田來未がキューティーハニーを歌い出す。
「ほいな」
 男は早抜き拳銃よろしくジャンパーの右ポケットから携帯電話を抜きざま左耳に当てる。
「なんやて?それホンマか?……。よっしゃ、できたっ。……。あいつにはよう確かめたんか?……。いけ、逃げ切ったれ」
 レースに白熱しながら会話を続けるという器用な芸当をこなしながら、男の足は休むことなく歩き続けている。
「げ、今何時や?……。あかん。間に合わへんやん。あ、また後でかけるわ」
 切った携帯電話を元に戻そうとした時、別のポケットでSMAPが世界に一つだけの花を歌いだした。
「はいはい。……。おう久しぶりやん」
 男は電話の相手に何事か捲し立てながら、人混みを擦り抜けて行った。

 JR六甲道駅。改札を出て右手に行くとバスのロータリー。その北側には多くの飲食店を擁するビルがあり震災からの復興ぶりが伺える。しかし、町の様相は震災を境に大きく変わった。昔ながらの小さな居酒屋が散在していた街並みは姿を消し、小綺麗なチェーン店が軒を並べている。しかし、駅を少し離れて住宅街の細い路地に入れば未だに古老のような老舗がひっそりと建っていたりする。その店もそういう古株の一つだった。
 間口が二間ばかりの小さな佇まいである。軒からぶら下がった小さな提灯が、夕陽を背に黒々としたシルエットを作っていて、店が居酒屋であるらしいことを窺わせた。家々に埋もれるようにしていきなりそこに建っているので、土地っ子でも知らない者が多い。いつ頃からそこにあるのか覚えている者もいない。そういえば、『俺が小学生の頃に越してきた時にはあったで』といつだったか、四十絡みのサラリーマンが店の前を通りながら話していた。
 木枯らしが吹きぬける暮(ぼ)景(けい)の中、遠くから教会の鐘の音が五時を告げる。小さな提灯はそれを待ち受けていたかのように、ひとつ瞬いて朱い灯を燈した。
『酔鏡』
 灯に浮かび上がった文字はそう読めた。鐘の音は風に乗って厳かに鳴り続けている。折しも路地を通りかかった中学生くらいの少女が足を止めて提灯の文字に目を凝らしていた。まるで世界一列、朱と黒に染まった一枚の絵のような風景の中で、動くものは何もなく鐘の音だけが鳴り響いていた。
「させるかあ」
 不意に路地の東側から聞こえて来た雄叫びに少女は身を竦めた。見ると、髪を振り乱した長身の男と頭一つ低いパンチパーマの男が、抜きつ抜かれつしながらこちらに迫ってくる。みるみる大きくなるその姿は一方はバックトゥーザフューチャーのドク、他方はグリコ森永事件のキツネ目の男に酷似していた。立ち竦む少女をよそに男達は走りながら『ああっ』と頓狂な声を上げた。彼らの視線を追って振り向いた少女は『ひっ』としゃっくりのような声を立てて完全に凝固した。
 夕陽を背に東大寺南大門の金剛力士像が走ってくる。距離こそドクやキツネ目男の倍は離れていたが、その勢いとスピードは彼らの比ではない。
「え?え?ええっ?」
 一方からは大接戦を繰り広げるドクとキツネ目男。他方からは夕陽を背にした金剛力士。二つの脅威に挟み撃ちにされた少女は銀縁メガネの奥の小さな目を忙(せわ)しなく動かして退路を探した。が、狭い路地に脇道など期待すべくもない。三人の男達はあと数メートルのところまで彼女に迫ってきている。
 その時、彼女の眼の端に提灯の朱い灯が天啓のように飛び込んできた。少女は縋るように店の格子戸を引き開けると、躊躇(ためら)うことなく店に飛び込み、派手な音をさせてその戸を閉じた。
「うわっちゃあ。なんちゅうこっちゃ」
 店の外で金剛力士のものらしい野太い声が情けなく響いた。少女は怯えるように格子戸から一歩たじろいだ。
「いらっしゃい」
 低いがよく通る声に彼女は飛び上がった。振り向くと頭を五分刈りにした六十絡みの主人が目を細めてカウンターの向こうからじっとこちらを見ていた。


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