「それに、何?」

 水野が不思議そうな顔をする。

「いや、何でもない」

 俺はうわの空で答えた。試しに、左手の店のショーウィンドを覗いて立ち

止まると本田はわざとらしく電柱の陰に隠れた。こちらが、歩き出すと向こうも

歩きだす。歩を緩めると向こうも遅くなる。間違いない。本田は俺達を尾行けて

きている。

「どうしたの。恐い顔して」

「何でもないよ」

「ひどいなぁ。ワトスンはホームズが何でも打ち明けられるたった一人の

友人のはずよ」

 いつからそんな友人になったんだ――と、心の中でツッコミながら、答えた。

「……、本田が後ろから尾行けてくるんだ」

 水野が息を呑む。俺の方に顔を向けたまま、目だけが背後に寄っていく。

「まさか。単にこの道が帰り道なだけじゃないの」

 俺の方に目を戻しながら、水野は言った。

「いや、そうじゃないらしい」

 すっと彼女の腕を掴んで、俺は不意に立ち止まった。

「何するの」

 彼女は凄い目で俺を睨んで、腕を振りほどこうとした。

「しっ」

 素早く目で合図した。彼女はなかなか良い勘をしている。すぐに俺の意図に

気付いてそっと後ろを振り返った。本田はさっき俺が立ち止まった店の前で

ポケットに手を突っ込みながら、ショーウィンドを覗き込んでいた。

 俺は彼女の腕を放してやり、また歩き始めた。駅までは次の角を曲がれば

後は真っすぐ一本道だ。さて、どうするべきか。

「確か、次の角を曲がったらすぐに小さな路地があったろ」

「うん」

「そこに飛び込んで、やり過ごそう」

「巧くいくかな」

 不安そうな顔をしながら彼女が言った。急に俺のよく知っている臆病な

女の子に戻ってしまったみたいだ。

「試してみる価値はあるさ」

 彼女を安心させるように、俺はつとめて笑った。ゆっくりと歩きながら、ときどき

本田の様子を窺う。俺達の歩足が遅いせいだろう、本田の顔を何度も苛々

している表情がよぎった。

 角を曲がる――。俺達は地面を蹴って駆け出した。路地までは五メートル。

四歩で駆け抜けると文字通り飛び込んだ。

 塀にもたれて俺達は息をついた。水野は息を弾ませながら、制服の内ポケット

に手を突っ込んで何かを捜していた。

「はい」

 彼女が取り出して手渡してくれたのは小さな手鏡だった。彼女の意図を理解する

までに少し暇がかかった。もしかしたら、俺より彼女の方がずっと探偵向きなの

かもしれない。俺は手鏡を右手に持ちかえると、路地からそっと腕だけ伸ばして

かざした。丁度、角を曲がった本田が鏡に映って見える。本田はきょろきょろと

辺りを見回していた。俺はこの路地に飛び込んだ自分の軽率さをを悔やんでいた。

普段は用事がないから知らなかったけれど、この路地は袋小路になっている。

もし見つけられたら、文字通り袋の鼠じゃないか。

「どう?」

「俺達を捜しているみたいだ」

 急に本田がこちらに向かって走り出したので、俺は慌てて腕を引っ込めた。俺達の

すぐ脇を本田が駆け抜けていく。一、二――心の中でゆっくり数えて、二呼吸待った。

「行こう」

 俺は彼女の腕を取ると道路に飛びだした。敢えて後ろは振り返らない。元来た道を

駆け戻ると、一筋北の道路まで一気に走り通した。

「もう大丈夫みたいだ」

 俺は肩で息をしながら言った。後ろを振り返ったが、本田が追ってくる様子はない。

「何だったのかしら」

「さあ」

 まだ息が苦しくて、何かを考える気力が湧いてこなかった。

「運動不足ねえ」

 ぜいぜいと喘ぎながらふらふら歩いている俺を見て、水野が笑った。

「探偵には体力も必要だと思うよ」

「まったくだ」

 つられて俺も苦笑いした。

 どこか近所の庭からだろう、木犀の香りが流れてくる。もうすっかり秋の色に染まっ

た夕暮れの町を俺達は黙って歩いた。因果な性格だ――。こんなきれいな暮景の

中をよく見ると結構可愛い女の子と並んで歩いているというのに、だんだん息が楽に

なるにつれて俺の頭の中はまた殺人事件のことで一杯になった。俺の気を散らさない

ように気を遣ってくれているのか、水野は大人しく隣を歩いていてくれた。そんな彼女を

俺は見知らぬ人を見るような目で盗み見た。もしかしたら俺にとって、彼女は本田

以上に未知な存在なのかもしれない――。

 それにしても――、俺はため息をつく。交野にしろ、水野にしろ、本田にしろ、どうして

俺の容疑者達は怪しげな行動ばかり取るんだろう。そのうち、安田香代も何か不審な

挙動を見せるんだろうか。

 角を曲がると駅前に向かう雑踏の中に俺達は呑まれていった。

 電車の中で俺達は中止になってしまった学園祭についておしゃべりをした。

「あれだけ練習したのに、寸劇はもったいないことをしたね」

「うん……。でも半分は、ほっとしてるの。あのキスシーン恥ずかしかったから」

 頬を染めながら言うと、水野は舌を出して笑った。

 水野の降りる駅をアナウンスが告げる。

「今日はありがとう。じゃあ、また明日」

 言って、水野はもう一度にっこり笑うと電車を降りていった。ポニーテールを揺らしながら

遠ざかっていくその後ろ姿を、俺はぼんやりと見ていた。探偵稼業はつらい仕事だ。

俺は水野を冷静な目で容疑者として見られなくなるかもしれない。

 次の日、生徒会室に行くと安田香代が一人で日誌を付けていた。一度、話をしたいと

思っていたけれど、その時は水野抜きの方がいいような気がしていたので好都合だった。

「あら、まだいたの。早く下校しなきゃだめじゃない」

 安田は先生みたいな口のきき方をした。

「君もね。なあ、誰が矢野を殺したと思う」

 単刀直入に俺は用件を切り出した。多分、こんな訊き出し方が彼女には一番だ。

「さあ、彼を殺したい人間なら山程いたわよ」

 安田は日誌に目を戻しながら言った。

「私を含めてね。野球部主将で女子の間で人気があったけど、泣かされた女の子を何人も

知っているわ。手の早いことでは有名だったのよ。そのくせ飽きるとゴミか何かみたいに

ポイと捨ててしまう。最低な奴」

「そいつは初耳だな」

「情報不足なんじゃないの、探偵さん」

 安田は皮肉な目付きで俺を見返した。しかし、どうしてこの連中はみんな俺の悪癖を

知っているんだ?

「まあ、仕方ないか……。要領だけは良かったからね」

 安田はやりきれないような声を出した。

「……、私の中学からの親友が妊娠させられたの。彼女、親に問い詰められて半狂乱に

なってた。一度、自殺しようとまでしたのよ。なのに私が会いに行ったらまだあいつを

庇おうとするの。私、たまらなくなって矢野の家まで抗議に行ったわ。そしたら、あいつ

何て言ったと思う」

 彼女は机の端をぎゅっと握り締めた。

「騙されるほうも、馬鹿なのさですって」

 この気丈な少女が泪声になるのを俺は初めて見た。

「彼女が馬鹿だったことは私も認めるわよ。でも馬鹿だからって騙していいって法はどこにも

ないはずよ」

 問わず語りにひとしきりまくしたてると、安田は肩を震わせた。

「先を越されて残念だわ。犯人は私達五人以外の誰かなんだろうけど、当然の天誅が

下っただけのことじゃない」

 何と答えていいのか分からず、俺は目をそらした。

「ちょっと上に上がってくる」

 その場を去る巧い口実が見つからなかったので、お茶を濁すように言って、俺は

生徒会室から逃げ出した。俺の背中に向かって彼女は叫ぶように言った。

「知ってる?あいつ裏口入学だったんですって。元々、この学校にいる資格なんてなかっ

たのよ」


 ストーブの上のやかんが用務員室に返されていることを除けば、屋根裏は昨日のまま

だった。俺は部屋の真ん中に立って目を閉じた。もう一度、あの日の光景を思い浮べて

みる。むっとするような部屋の熱気、ストーブ、やかん、松沢の校章をなぞるように閂を

中心に矢車状に並べられたテーマ・カード、なぜそのカードは全部破られていたのか……、

俺の心の中であの時と同じように扉が大きな音を立てて閉まったような気がした。

 アリバイのトリックが分かった。気が付けば何のことはない単純な機械的なトリックだった。

俺はむしろ、わざと人目を惹いて目撃者を作り出した際に使われた心理的なトリックに

感心した。

 じゃあ一体誰が犯人なんだろう。矢野の裏口入学を暴いた交野が正義感に燃えて

やったことなんだろうか。あまりリアリティはないけれど、交野の場合水野のことで

嫉妬したという動機もないわけじゃない。

 そういう水野は、事件を調べようとした俺に急に近付いてきた。生憎俺は彼女が

期待する程、知り得た情報をしゃべりはしなかったが、調査の進展を一番に知り得る

立場に立とうとしたことは紛れもない事実だ。だが、今のところ動機は分かっていない。

 本田?彼に関しては皆目分からない。どうして俺達を尾行する必要があったんだろう。

普段にも増して奇怪な行動だ。

 安田――。彼女が今のところ一番明確な動機を持っている。友人の敵討ちに彼女が

矢野を殺したのだろうか。彼女は俺達五人のアリバイを強調したし、矢野の裏口入学の

ことも知っていた……。わからない。いずれにしろ、もう少し調べてみるしかなさそうだ。

 部屋の隅に目を遣った。バイクのヘルメットのことで何かが引っ掛かっている。俺は

苛々しながら窓の方へ歩いて行った。身体を乗り出してみる。屋上までは三メートル弱か。

殺人には及ばないけれど、ここから飛び降りるのだって結構勇気がいりそうだ。

 窓を乗り越えて、両腕を使って身体一杯ぶら下がってみる。屋上までは一メートル半

くらいなのだろうけど足元が覚束ないのは恐かった。腕が痺れてくる。後悔したけれど

もう遅い。俺は手を離して飛び降りた。踵から腰にかけて衝撃が走る。尻餅をついた

俺は目を見開いた。

 分かった。犯人が矢野のトレーナを着ていた訳も。ヘルメットを被っていた訳も。

そして犯人が誰かも。

 けれど、俺は分かってしまったことを後悔した。一瞬だけど、このまま黙って見過ご

そうかとさえ思った。しかし、そういう訳にもいくまい。犯人のためにも俺は犯人と

対決しなければならない……。



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