微笑みの季節

 どこか遠い所でベルが鳴っている。最初は少し鳴っては止み、止んだと思うと鳴り初めて、

まるで人をからかうような調子。それがだんだんヒステリックに音量を上げ、まるですぐ耳元で

鳴っているような錯覚を起こさせる……。

 僕は飛び起きた。枕元を見るといつもより十五分も遅くを指している目覚ましが、最大音量で

鳴り続けている。

 ワイシャツ、ズボン、背広を引っ掛けるのに三分、ひげそり、髪をとくのに二分、六分後には

安アパートの階段を駆け下りていた。

 四月とは云え、朝はまだ肌寒い。いちいの生け垣の角を曲がった所で、えらく太ったいつもの

ジョギングおばさんとすれ違う。やれやれ、どうやら無事に、いつもの電車に間に合いそうだ。

僕は、ほっとひと息ついて歩を緩めた。

 実際――、ついていない日と云うのはあるものだと思う。

 あの年代物の目覚ましは十分も遅れていた。ジョギングおばさんが、いつもより張り切って走っ

ていたのも、寝坊して遅れた日課を取り戻そうとしていたのだと思い当った。

 結局、電車を一本逃した僕は十五分の遅刻で出社した。


 古めかしい石造りのビルの三階にある小さな商社。僕はそこの営業の二年生だ。

 曇りガラスの戸を押してそうっと首を突き出すと、耳慣れたキンキン声が聞こえてきた。

 課長の訓示――。今日は週に一度の朝礼の日だった。

 「おお、重役の出社やないか。」

 首だけ出している僕を目敏く見つけた課長が声のトーンを上げた。

 「ええ身分やなあ。」

 銀ぶち眼鏡の奥でにやにや笑いながら、課長に手招きされた。机の間を縫って課長の隣に立つ。

 「大体、営業マン云うもんは……」

 課長の訓示はそれから十分も続き、僕は課内の晒し者みたいに突っ立ているほかなかった。


 「間の悪い日に遅刻したなあ。」

 朝礼が終わると隣の席の山岡が同情を込めて話し掛けてきた。

 「目覚ましが、おんぼろなんだよ。」

 僕はぼやいて天井を見上げた。蛍光灯が机二つに一つの割りでぶら下がっていて、ご丁寧に一つ

一つに紐がついている。まるで戦前の事務所みたいだと常々思う光景だ。

 「おい、遅れてきた佐々木。天井見て物思いに耽けっとらんでこっちおいで。」

 課長の声で、我に返った。

 見ると課長がにやにや笑いながら手招きしている――。赤信号だ。

 「松山製薬に行って来てくれ。」

 予感は的中した。不景気の折からの業務縮小とかで、うちとの契約を打ち切ると言ってきている

お客だ。

 「でも……。」

 僕は言いかけたが、

 「わしは、ええ返事しか聞きとうないで。」

 じろっと睨んで課長は僕を黙らせた。

 仕方なく僕は、無言でうなずくと課長席を離れた。席に戻って、今日はまだ開けてもいない

カバンを持つと後も見ずに部屋を出た。背中でガラス戸が大きな音を立てたけれど、無視して歩き

出した。

 「おい、佐々木。」

 追い掛けてきた山岡が階段の所で追いついた。

 「お前、上辺だけでも課長に愛想良くしろよ。あれじゃ、睨まれる一方だぜ。」

 ベテランの営業が行っても物別れに終わるような客だ。今更そんな所に駆出しを放り込んでどう

なるはずもない。せいぜいが僕の成績がまた下がるだけの話だ――。僕は大いに、いじけていた。

 「ご親切にどうも。嫌いなものは、好きにはなれんさ。」

 言い捨てて、僕はコンクリートの階段を駆け下りた。


 外に出ると雨が降っていた。春先によく降る小糠雨というやつだ。むしゃくしゃついでに、僕は

傘も取りに戻らずに駅に向かった。

 ラッシュを過ぎたホームは、がらんとしていた。ポケットから煙草を取り出して一振りする。

ゴールデンバット。近ごろ馴染みの両切りの味が舌にしみる。成績の伸びない営業マンの給料は

煙草の好みまで変えてしまう。

 吐き出した煙の向こうに各駅停車の車体が蜃気楼のように現われた。

 松山製薬は郊外に工場兼社屋がある。この電車で終点の一つ手前の駅だ。取り敢えず、することも

ないのでカバンを網棚に放り上げて窓の外の雨を眺めた。

 やっぱりこの仕事に向いていないのかな。日に何度かこんな考えがよぎるのがいつの間にか癖に

なっている。自分では、真面目にやっている積もりなのだが、どこか抜けてて失敗ばかりして

いる。この間も、管理番号を一桁間違えて家電工場に砂糖を売ってしまった――。その上、何かと

云うと目の敵にされるあの課長だ。人当たりには、自信があったのになあ。

 ため息をついて、飽きもせずに降る雨を眺めた。――かと云って今の流行りみたいに転職を

しようとも思わない。だってこのままじゃあ負け犬みたいで、癪に触るじゃないか。

 二つ、三つ駅を過ぎた頃だったろうか。後ろで通路の扉を開ける音がした。コツ、コツ、ゆっ

くりとした足音。その音は僕の傍で止んだ。


 「あの……、ここ空いていますか。」

 目を上げると、そこに天使が立っていた。

 「……どうぞ。」

 息をのんで僕は答えた。その人は微笑んで僕の向かいに座った。

 僕より一つか二つ上、多分二十五、六の女の人だ。黄なりのブラウスに二、三年前に流行った

ようなブルーのプリーツスカートを着ていた。踵の低いリボンの付いた靴、膝の上には趣味のいい

セカンドバッグをのせていた。

 特に美人と云うわけじゃない。着ているものだって、こざっぱりとはしているけれど決して

高価なものじゃなかった。でも……。

 あんな笑顔を僕は見たことがなかった。奥二重の瞳はまるで愛しむように窓を打つ雨を眺めな

がら輝いいていた。口の端が少し上がって、左側に片笑くぼができた。何か良いことがあって

思わず笑みがこぼれるという様子じゃない。まるでこの世に生まれた時から、笑むことを知って

いたような幸せな笑顔だった。

 雨を見つめているその横顔を、知らず知らず長いこと僕は見ていたらしい。ふと気付いた彼女

は、こちらを向いて不思議そうに僕を見返した。

 「よ……、よく降りますね。」

 多分、どもったと思う。初恋の人を目の前にして棒立ちになっている中学生よろしく、僕はこち

こちに緊張してしまった。

 彼女の笑みが少し深くなった。微かにうなずく。

 「でも、余計に桜が綺麗に見えるわ。」

 言って彼女はまた、窓の外に眼差しを戻した。釣られて僕も外に目を遣る。

 どうして、それまで気付かなかったのだろう。線路沿いは見事な桜並木だった。満開の花びらは

雨に濡れてその薄桃色を少し濃くしたように見えた。

 彼女はその不思議な笑みを浮かべながら、黙って雨のなかに霞む桜の木々を見ていた。

 唇に引かれた淡い紅の色が、風に舞っている花びらとあまりに似付かわしくて僕は又、言葉を

失った。

 アナウンスが僕の降りる駅を告げる。僕はそっと立ち上がると彼女に軽く会釈をして歩き

始めた。

 結局、あれから彼女は一度も口を開かなかったし、僕も黙って窓の外と彼女の横顔をかわる

がわる見つめていた。タラップに出る時もう一度振り返ったけれど、彼女は窓の外を見つめた

ままだった。

 ホームに降り立ってゴールデンバットを一本くわえた。火を点けると肩を濡らす雨も厭わずに

僕は電車を見送った。この煙草の味も捨てたもんじゃない。心からそう思った。

 改札を出て、舞い落ちた花びらの絨毯の上を歩いて行く。僕の心は嘘のように軽くなっていた。


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