月曜日にはお母さんが退院してきて、いつもと変わらない生活がまた始まった。少し大

胆になった若葉は、時々鍵のついたものを探すという変なくせがついた。宝箱は何度開け

ても拓也の部屋だったし、引き出しは何度開けても、とうに退院してお母さんのいなくな

った病院を映すだけだった。ひとつの鍵穴はひとつの風景しか見せてくれないと云うこと

がだんだん分かってきたのだ。もちろん玄関や教室の扉には鍵がついていたけれど箱や引

き出しと違ってそんな大きな風景を開いてしまったら向こうにいる人達がこちらにやって

来はしまいかと思って気後れした。

 それでも鍵のついているものは意外とあって、周りに誰もいない時にはこっそり鍵を開

いて向こうにどんな光景が広がるか見ずにはいられなくなった。

 音楽室のピアノのふた。お父さんの出張用トランク。お母さんのセカンドバッグ。保健

室の薬瓶の入った箱。魔法の鍵はどの鍵穴にも、さも当たり前と云った風にすっと入って

いった。

 ピアノの向こうは、海の中だった。ほの暗い海藻の影から色鮮やかな縞模様の熱帯魚が

現われて若葉は思わず目を細めた。その背ビレは上の方から射してくる日の光できらきら

と輝いていた。雪のように降る小さなプランクトンの粒、鮮やかな色をまとった魚の群れ

が忙しそうに、またのんびりと通り過ぎていく。右手に見える大きな岩の影から人魚が現

われたとしても若葉はちっとも驚かなかっただろう。まるで音のしない音楽のような時間

がピアノの向こうでゆっくりと過ぎていった。

 予鈴の音で慌ててふたを閉めたけれど昼休みの間中飽きもせずその小さな海を眺めてい

たことに気付いて、若葉は自分で自分にあきれてしまった。おかげで、お弁当を食べそこ

ねたので午後の授業中は何度もお腹が鳴って若葉を困らせた。

 お父さんの旅行用トランクの向こうには雪江ちゃんがいた。雪江ちゃんは夕飯を食べな

がらしきりにお母さんに学校であったことを話していた。

 「……で、若葉ちゃんたらねぇ。」

 拓也の時と同じで、きまりが悪くなって大急ぎでトランクを閉じた。だから雪江ちゃん

の言葉は、トランクの向こうで尻切れとんぼに途切れてしまった。

 お母さんのセカンドバッグのファスナーを引くと少しゆがんだ楕円形の口の向こうに見

たこともない外国の町があった。馬車が通り過ぎる。夕方らしく十歳くらいの男の子がガ

ス灯の灯を点けて回っている。道ゆく人に何か呼ばわっている老人。何を売っているのだ

ろう。老人の屋台からは白い湯気が上がっていた。それは今の時代ではない、ずっと昔の

景色のようにも見えた。

 ずいぶん長いこと眺めていたけれど、結局どこの景色なのかはまるで分からなくて若葉

は何度も首を傾げた。

 どうやら、魔法の鍵が見せてくれる風景はいつも若葉にかかわる風景ばかりではないよ

うだった。もしかしたらその外国の町や海の中もちゃんと関係があるのかもしれないけれ

ど、少なくとも若葉には思い当ることがなかった。

 薬瓶の箱の中も風変わりだった。四角い箱の中では、畳の上に布いた小さな布団の上で

赤ん坊の若葉が眠っていた。

 「わが子よ、愛しのなれを……

 洗濯物でも干しているのだろうか。窓の外からロンドンデリーを歌うお母さんの若い声

が聞こえてきた。時々、風が入ってくるらしく若葉の顔の上でカーテンの影が静かに揺れ

た。

 遠くの方から自転車の音が近付いてくる。

 「ご苦労さま。」

 郵便屋さんかな。お母さんの声を聞きながら若葉はそう思った。また、自転車の音が遠

ざかっていく。そっと、ふたを閉じた。この鍵が見せてくれるのは、今の出来事だけじゃ

ないんだ。棚に箱を戻しながら若葉は改めて思った。



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