それから三十分後、二人は見渡す限りの雪野原の真ん中に立っていました。遠くの山裾の方に農家

がちらほらと雪を被って建っているほかは、人の住んでいる気配すらありません。雪も風もますます

勢いを増しながら二人に襲いかかってきます。とっくに二人の防寒着は役に立たなくなっていて、が

たがた震えながら何とか進んでいる有様でした。

 「良夫ちゃんて昔から方向音痴だったけれど、ひどくなってきてるんじゃない。」

 真理子さんが紫色に染まった唇を尖らせながら言いました。

 「そんなことあるもんか。この頃じゃあ地下鉄に乗っても迷子にならなくなったし、店の配達だっ

て一人でできるようになったんだ。」

 負けずに良夫君も言い返します。

 「でも、現実に雪野原で迷子になってるじゃない。どこの世界に一本道で迷子になっちゃう人がい

るかしら。」

 言いながら、真理子さんは笑い出してしまいました。つられて良夫君も笑いました。

 「とにかく、雪が止むまでどこかで休ませてもらおう。」

 「どこかって、どこに家があるの。」

 おどけるように真理子さんは辺りを見回しましたが、小刻みに震えている肩はとてもおどける余裕

などないことを物語っています。

 「あそこの家さ。」

 百メートル程先に見えている柊の林を指さしながら良夫君は言いました。二人が辿ってきた道は――

もっとも、二人が道だと思っているだけかも知れませんが――その中へと続いていたのです。

 「ぼくの勘ではあの林の中か、林を抜けたところに家があるはずなんだ。」

 「あきれた。良夫ちゃんたら、いつからそんないい加減なこと言うようになったの。」

 「しょうがないじゃないか。はるか向こうの農家まで行くのは無理だし、とにかくもう少し先へ進

もうよ。」

 言いながら良夫君は先に歩き出しました。真理子さんもじっとしているよりはましだと思いました

ので、慌てて後について行きます。雪に足を取られないように気をつけながら、二人はとぼとぼとそ

の林の中へと入って行ったのでした。

 

 「思ったより深い林だね。」

 良夫君は、引きつったような笑い方をしながら言いました。

 「ごまかしたってだめ。引き返しましょ。」

 「うん。そこの角を曲がって何もなかったらね。」

 良夫君は歩く速度を速めました。真理子さんはその背中に向かって「意地っ張り。」と言おうとし

て止しました。その代わりにちょっと肩をすくめると、先を行く良夫君の背中を見ながらくすっと笑っ

たのです。

 「ほらごらん。ぼくの勘は当たっただろ。」

 角を曲がったところで良夫君は目を輝かせました。

 柊の林はそこで切れていて、少し窪んだ土地がありました。そこに周りをぐるっと丸太の垣根で囲

んだ山小屋のような家が建っていたのです。その屋根から石造りらしい煙突がにょっきりと生えてい

て、白い煙が風に流されながら昇っていました。人が住んでいるのは間違いありません。

 寒さで体が麻痺してくたくただった二人も、それを見ると思わず駆け足になって山小屋の戸口に向

かいました。

 !、!、!。

 見るからに重そうな樫の木戸を良夫君はノックしました。けれども、鈍いノックの音が返ってくる

ばかりで、人が中で動く気配は感じられません。

 「おかしいわねえ。煙突から煙が上がっているんだから、人がいるはずなのに。」

 真理子さんが首を傾げながらそう言った途端、何の前触れもなしに木戸が軋みながら半分ほど開い

たのでした。

 中から顔を出したのは十四、五ぐらいの少年でした。抜けるように色が白く、目にはその年ごろに

見られるはずの活気がまるで感じられません。辛うじて二人の来訪者に対する警戒心がその目に揺ら

いでいるだけでした。

 「この雪で道に迷ってしまったのです。すみませんが、雪が止むまで休ませてもらえませんでしょ

うか。」

 良夫君が説明すると、少年はなぜかほっとした様子でにっこり笑いました。

 「それはお困りでしょう。どうぞお入りなさい。」

 と大人びた口振りで言って、二人を中へ通してくれたのです。

 小さな三和土を上がると一番奥まで廊下が続いていて、両側に二つづつ扉があります。ふと後ろを

振り返った良夫君は、今入ってきた扉に教会の鐘のような形をした小さな銀の鈴がぶら下げてあるこ

とに気が付きました。そんなところに鈴がぶら下げてあること自体奇妙でしたけれど、それにも増し

て不思議だったのは別に壊れている風でもないのに、扉を開け閉てした時に少しも音をたてなかった

ことでした。

 少年は手前の左側の扉を開けて、二人を中へ案内しました。その時、彼がとても綺麗なえんじ色の

セーターに黒いズボンをはいていることに真理子さんは気付きました。

 部屋の中はとても暖かで、雪の中を歩いてきた二人はしばらくぼうっとなりました。扉と反対側の

壁に暖炉が切ってあって中で薪が盛んに燃えています。部屋の真ん中にテーブルがあって、その両側

にソファーが置いてありました。テーブルの上には三本の蝋燭を立てた燭台が置いてあってそれが部

屋を照らす唯一の照明でした。そして蝋燭の向こう、ソファの端に一人の少女が座っていたのです。

 歳は少年と同じくらいでしょうか。目の醒めるような葡萄色の洋服を着ていました。絹か、ベルベッ

トみたい。真理子さんが思わず目を見張った程見事なドレスでした。

 二人を迎え入れた少年とは好対照に少女の顔は、生気に溢れていました。面長で整った顔立ちをし

ているのですが、その歳に似付かわしいはずのあどけなさがほとんど影をひそめて、真理子さんと同

じくらい大人びた印象を与えています。その瞳はじっと二人の外来者を見据えていて、その気性の激

しさを物語っているかのようでした。

 「この吹雪で道に迷われたんだそうだ。」

 少年が事情を説明すると少女もほっとした様子で目に見えて瞳が穏やかになりました。

 「それはお困りでしょう。狭い家ですけれど、どうかゆっくりしていって下さいな。今、お茶でも

いれます。」

 低いけれどよく通る声で言うと、少女は席を立って部屋を出て行きました。

 「外は寒かったでしょう。」

 そういって少年は、ソファを暖炉のそばに寄せて二人に勧めました。

 「旅行ですか。」

 すっかり愛想良くなった少年が尋ねました。

 「だって、村の人ならこんな日に出歩いて道に迷ったりしないでしょう。」

 「ええ、旅行みたいなものです。」

 良夫君は言葉を選びながら答えました。

 「気に障ったらごめんなさい。――あなた方はお互いに愛し合っていらっしゃる。だのにご両親が

反対してあなた方の仲を裂こうとするので家を出て来た。――そんな風に見受けられるのですが。」

 まだ十五くらいに見えるその少年は、にこやかな表情を崩しません。

 良夫君は、いささか礼を欠いた少年の言葉に怒るより、呆気に取られてしまいました。良夫君も真

理子さんもどう答えて良いのか分からず、ひとしきり気詰まりな沈黙が流れました。



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