今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第六夜 十一月にふる雨
《2》

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「あたし、お酒呑むの久しぶりなんです」
 ジョッキを三分の一ほど一息に飲むと、しのぶのテンションがチェンジした。
「吉田の旦那が立て籠もった時以来ちゃう?元気しとった?」
「はい、おかげさまで。ちょっといろいろあって疲れてますけど、若いですから」
 言ってしのぶはけらけらと笑う。
「そうそう、あたし今ウォーキングにハマってるんです。やっぱり健康第一ですもん」
「へえ、えらいやん。いつからやってるん?」
「今朝から」
 それはハマっているうちに入らない。
「まあ、これから寒くなりますから風邪をひかないように気を付けて下さい」
「任せて下さい。セーター二枚の上からコート着込んで重装備してますから」
「それって、ウォーキングというよりは、限りなく散歩に近いと思うで」
「えー、そうですか」
 バリキのツッコミにしのぶは不満そうに口をとがらせながら箸を割った。
「これ、牡蠣ですか」
 しのぶは付け出しの小鉢を覗き込みながら訊いた。佃煮色に染まった牡蠣の粒にとろみをつけた煮汁がかかって艶やかに光っていた。目にまぶしいような白髪葱がアクセントになっている。
「ああ、しぐれ煮にしてみてん。今日のテーマの出発点は江戸からという趣向や」
 主人の背後のホワイトボードにはこう書かれていた。

 お品書き
 アジアンテイスト 屋台風

「これはどういう仕掛けなんでしょう。私が知っているしぐれ煮は味を染み込ませるために身がもっと縮んでいます。この牡蠣は身縮みしていないのに味はしっかり染みている」
「企業秘密や」
 主人はちょっと意地悪くにっと笑った。
「うわっ、いけずや。センセ一緒に考えましょ。その前に……。牡蠣でもう一品お願いしたいんですけど。その屋台風って何です?」
 しのぶはホワイトボードを指しながら訊く。
「アジアン料理の中でも道端の屋台で売ってそうなもんを揃えましたいうこっちゃ。いかにも居酒屋っぽいやろ。牡蠣やったら台湾の牡蠣のオムレツを出さしてもらおかな」
 相変わらず主人のレパートリーは広い。
「俺、めっちゃ腹減ってるねんけど」
 バリキがもはや定番になっているセリフを口にする。
「ベトナム風のちょっと変わった炒飯を大盛りでどない?」
「なんでもええ。出したって」
 身も蓋もない返事が返ってくる。
「私も夕飯の代わりになるものが欲しいところです。あと何かお酒で変わったのがあればそれを」
「初あげが出てますよ。呑み口はちょっとお澄まししたような愛想のない味やねんけど、その分料理の邪魔にならんで何にでも合います。それに意外と後味をひきますねん。これと、ベトナムの生春巻きを出しましょか。ライスペーパーは結構、腹持ちが良えから夕飯の代わりになりますわ」
 言いながら主人は手を休めず支度を続ける。
「あ、そや。あたしまた怪奇現象に遭遇したんです」
「またかいな。なんや、毎度聞くだけ時間の無駄な気がするんは俺だけか?」
「いやいや、肴にはなってますよ」
 バリキとセンセの揶揄にもめげず、しのぶが高らかに宣言する。
「題して『歩くカーネル・サンダース』」
「あ、俺、オチまで分かってしもた」
 バリキの横でセンセも頷いている。バリキは空のジョッキを振ってお代わりを頼んだ。センセの前に黒い平皿が出てきた。半透明のライスペーパーに包まれた生春巻きが並んでいる。緑の葉野菜に剥き海老が透けて見えているのが楽しい。濃い火色のチリソースからぷんと酢が香る。その脇に本錫(ほんすず)のぐい呑みが並べられ新発売の酒がなみなみと注がれた。
「いや、ほんまに不思議な話なんですて。この前、好美(よしみ)先輩が目を覚まさはったら枕元にカーネル・サンダースが立ってたんですよ」
 まるで本人が立っていたようにしのぶは語るが、要は店の人形が立っていたと言いたいのだろう。
「もしかしてその前の晩、好美先輩はお酒飲んだんちゃう?」
「え?なんでわかるんですか?その日は職場の女子会であたしも一緒に呑んでたんです。あたしは普通に呑んでたんですけど、先輩、あたしに対抗意識を燃やしたみたいで同じペースで日本酒呑んではりました」
「しのぶちゃんと同じペースで呑んだら男でも潰れると思うで」
「ええっ、ここの常連の方はみんな普通にしてはりますやん」
「いえいえ、ここの常連は世間では普通じゃないんですよ。たぶん」
 しれっと言ってセンセはぐい呑みに口をつける。しばらく舌の上で転がしてから喉に流し込み黙って生春巻きに箸を伸ばす。どうやら酒がお気に召したようだ。
「で、一次会の後、どこかで飲み直すぞーって、夜の三宮に消えて行かはったんです」
 しのぶが話を戻す。
「その先輩、けっこう大柄で力も強いんちゃう?」
「そら、学生時代はずっとバスケやってはったそうですから。……ってなんでわかるんですか?」
「ま、俺の卓越した推理能力というやつかな」
「推理のすの字もなくてもわかりますよ」
 センセが珍しくツッコミ役に回る。
「で、好美先輩はその人形をどうしたん?」
「はい。その人形がどうやって歩いたかは分かりませんけど、どこにあったかは想像つきますやん。先輩がこっそり近所のケンタッキーを偵察に行ったら案の定、人形がなかったそうなんです」
 『案の定やないで』とバリキが笑った。
「で、とりあえず人形を近所のバス停まで運んで、公衆電話からケンタッキーに電話したんやそうです。好美先輩、ああ見えて物真似とか得意なんですよ。それで低い声作って、『わしや、カーネルや』言うたら店員さんえらいびっくりしたみたいで……」
 きっと、一生忘れられない電話になっただろう。
「『道に迷うたみたいやねん。三丁目のバス停におるから迎えに来てくれへんか』って言うたそうです」
 関西弁のカーネル・サンダースはなかなかシュールである。
「で、物陰に潜んで見張ってたら青い顔した店員さんが二人飛んできてカーネル・サンダースを連れて帰ったそうです」
 話の途中からバリキはカウンターを叩いて笑った。
「た、確かに怪奇現象や。店の人はめっちゃ怖い思いしたわな」
 と、不意に柔道一直線のテーマが店内に鳴り響いた。バリキは素早く携帯を引っ張りだして耳に当てた。
「おう。……。えっ、なんやて?ち、ちょっと待ってや」
 バリキは目でカウンターの上を探してから、しのぶに『書くもん持ってない?』と囁いた。しのぶがバックからペンケースを引っ張りだして開く。バリキは鉛筆を一本摘んで握り直すと箸袋の裏に何やらメモを取り始めた。
「……。了解。又、連絡するわ」
 言って電話を切る。
「ありがとう。助かったわ」
 鉛筆をしのぶに返そうとしてバリキは改めてそのオーソドックスな六角形の鉛筆を見遣った。
「小学校の頃の使いさしが沢山あるんです。勿体ないから愛用してます」
 バリキの視線に気付いてしのぶが説明する。『おっ』と声を上げてバリキが鉛筆をひっくり返した。尻の一面がナイフで削られて名前が書かれている。
「ゆうき……しのぶ。へえ、しのぶちゃんの名字て、ゆうきなんや。初めて知った。どんな字書くん?」
 しのぶはなぜか慌てたようにバリキの手から鉛筆を奪い取るとペンケースに戻した。
「ゆうき。……ん?ゆうき?」
 呪文のように繰り返すセンセの声が心なしか硬くなった。
「ゆうきって、もしや結城(ゆうき)(つむぎ)の結城ですか?」
 尋ねる声がうわずっている。しのぶに続いてセンセまでが豹変したのに戸惑い、バリキが主人に助けを求めるように顔を上げると、なぜか主人は眉間に深い皺を寄せて難しい顔をしていた。
 時ならぬ緊張した空気は格子戸を引く音に破られた。主人が商売人の顔に戻る。
「いらっしゃい」
 主人は声を張ったが返事が―ない。
 先客達は振り返って格子戸を見遣った―ユウやんがなんだか疲れた顔をして立っていた。
「おう」
 三人に気付いてユウやんは気のない声を上げた。それから『湯割りとなんか軽いもんを。……あ、揚げ(もん)はなしな』と上の空の口調で主人に注文した。
「なんか、あったんか?」
 三人から離れてカウンターの隅に寄り掛かるように腰をおろしたユウやんに、バリキがおそるおそる代表質問した。
「知り合いがな……。亡くなってん」
 出された小鉢を引き寄せて箸を割りながらユウやんはぼそぼそと言った。
「この前話した西本いうやつやねんけどな」
 主人をちらりと見遣って言うと、魔法のような手際で出された湯割りのグラスを舐めた。
「ビルの屋上から落ちたそうや。……警察では、自殺と見てるらしい」
 店の中にまで雨が降ってきたような、うそ寒い居心地の悪さをバリキは背中で感じた。
 ユウやんは湯割りを舐めながら西本との出会いと近況を話した。
「弥生ちゃんと結婚したのが十年前。翔君いう三歳になる男の子がいてる。その子が生まれた年にマンション買うて、まあローンはあるけど普通の生活や。自殺するとは思えへんねんけどな」
 ユウやんは疲れたような溜息を吐いて主人に空のグラスを差し出した。
「遺書とか、遺ってなかったんか?」
 バリキの言葉に首を横に振る。
「夜中に会社の屋上から飛び下りてんけど衝動的なもんやったみたいや。動機ちゃうかって言われてるのは、最近あった異動の話や。西本はSEいうてコンピュータのエンジニアやねんけど、営業に異動せいいう辞令が出とったらしい。だいたいエンジニアいうのんは職人気質(かたぎ)で自分の実力を認めてもらいたがる人種や。それが、明日からその職人やめて営業に行け言われたわけや。よっぽど屈辱やったんかな。元々躁鬱の激しい奴やったし、思い詰めたら衝動的にやってしまいそうな気もするねんけどな」
 言いながら口調が納得していないのが伝わってきた。

 

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