今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第六夜 十一月にふる雨
《6》

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   ※
 雨は降り続いている―
 インターフォンが鳴った。『はあい』と声を上げて弥生は玄関に向かった。キッチンを抜けたところでインターフォンが二度、三度と連打される。
「はいはい、ちょっと待ってよ」
 翔が寝てるのに……、思いながら我知らず声が大きくなった。インターフォンを鳴らす指が苛立っているのは弥生の出迎えが遅いせいではない。こんな時間に帰宅する自分の境遇に苛立っているのだ。自分をそんな境遇に追いやったと思っている職場の人達に苛立っているのだ。
 根がポジティブ志向で現状を現状として受け止める質の弥生は現状を鬱々と悩んでいる亭主を冷めた目で見ていた。帰宅の度にインターフォンに八つ当たりするのは子供染みている。晩酌を啜りながら益体(やくたい)もない愚痴をこぼされるのはいい加減煩わしい。もう決まったことなのだから新しい職場でどう働くか前向きに考えれば良いのに。
 玄関を開けるとコート姿の康男が立っていた。
「丁度良かった。悪いけどちょっとお父さん看てて。電球が切れたからコンビニまで行ってくる」
 弥生は言うだけ言うと返事をする間も与えず、すれ違いに家を飛び出した。
   ※
「靴の問題が……」
 しのぶは歯切れ悪く言葉を切った。
「解決できないんです」
「どういうこと?」
 ユウやんがマンゴープリンの最後のひと掬いを口に入れながら尋ねた。
「バリキさんの推理もマスターのもわたしのも揉み合った末に西本さんが転落したという点で本質は同じです。その切迫した状況で犯人はどうやって靴を脱がせたのでしょう?」
 男達はしのぶの言葉を咀嚼しているかのようにしばし沈黙していた。
「脱がせたやのうて脱げたということはないやろか」
 バリキが尋ねる。
「ご自分の靴ですよ。サイズがぴったり合っている靴は簡単に脱げません」
 誰も反論しなかった。
「センセの推理はなおのことです。その状況で西本さんが靴を脱ぐ理由がありません」
 しのぶは一息つくように猪口を煽った。
「もちろん転落した後、一階まで降りて西本さんのところに行き、靴を脱がせて屋上まで持って上がればこの状況を作ることは可能です。でもどこで誰に見られるかわかりませんし、予期せぬ何かが起きるかもしれない。リスクが高すぎます。そこまでして、靴を屋上に置く必要性やメリットがありません。確かに屋上に靴がある方が自殺らしく見せかけられるかもしれません。でも、靴を履いたまま転落していても自殺を否定するほど不自然な状況じゃないですよね。それに……」
 また猪口に口をつけて、しのぶは新しい格子戸の外に目を遣った。雨の降りが強くなっている。
「その日は雨が降っていました。靴を脱いだら靴下に水が滲みて気持ちが悪いし、何より冷たいです」
 十一月の夜は寒いです―としのぶは言った。
「西本さんの死が自殺だとしたら飛び下りる前に靴を脱ぐだろうか?って、自殺に疑問を抱く刑事さんもいるかもしれません。屋上に靴を残すことはむしろ藪蛇になりかねません」
 店全体が耳をそばだてている。いよいよしのぶが事件の核心を語ろうとしているのが、ひしひしと伝わってきた。
「それでも靴はそこにありました。自殺にしても他殺にしても不自然に思えるのに、靴は揃えて屋上に置いてありました。それには何か理由があるはずです」
 しのぶはまた猪口に口をつけた。
「牡蠣のしぐれ煮……」
 出し抜けに意外な言葉がしのぶの口をつく。
「なんやて?」
 ユウやんが聞き返した。
「ずっと考えてたんです。どうやったら身縮みさせずに味をしっかり染み込ませられるか。あの味、母が作るしぐれ煮にそっくりなんです。結局、作り方を教わる前に母は亡くなってしまったのでわからずじまいで、だから余計に気になって実は今日わたしそのことばかり考えてました。どうしても分からなければマスターに無理を押して教えて下さいってお願いしようかと思っていました」
「わかったん?」
 カウンターの向こうで腕組みをしていた主人が目を細めてしのぶを見る。
「はい」
 しのぶはきっかりと頷いた。
「最初は、何か料理の手順や調理法に秘密があるのかと思ってそればかり考えていました。わたしも身縮みを抑えるコツをいくつか知っています。最初にさっと火を通して煮汁を煮詰めてから絡ませるのが一番メジャーですけどそれでももっと身が縮みます。片栗粉を多めに塗すというのも聞いたことがありますけど、それだと煮汁にもっととろみがついてしまいます。きっと、わたしが知らない秘伝のテクニックを使われたんだろうと思ってわたし、行き詰まってしまったんです」
 しのぶは目の前の牡蠣がなくなった小鉢をじっと見詰めた。
「牡蠣を全部食べてしまって残った煮汁の香りを嗅いだとき。なんだか、とても馴染みのある匂いがしたんです。和食ではなくて、中華の……」
 しのぶは顔を上げてマスターを見遣った。
「その匂いに気付いた時、わたし大きな間違いをしていることに気付きました。秘密は手順や調理法には何もなかったのです。寧ろ、調理法は当たり前に牡蠣に必要最低限の火を通しただけ。だから身が縮んでいなかったんです。秘密は調味料にありました。仕上げに―オイスターソースを少し加えたんですね」
「よう……、わかったな」
 主人は無表情のまま呟いた。
「オイスターソースは牡蠣を塩茹でした煮汁から作られる調味料で牡蠣の旨みがふんだんに含まれています。だから、このしぐれ煮の煮汁は濃厚な牡蠣の味がした。それで、わたし達は牡蠣にしっかり味が滲みていると錯覚してしまったんです。ある意味、卑怯な気もしますけど巧妙なトリックだと思います」
 言って、しのぶは元気のない笑顔を見せた。
「あの、しのぶちゃん」
 ユウやんが遠慮がちに言った。
「想い出のレシピの謎解きやってるところ悪いんやけど、西本の話が中途のままやで」
 言われたしのぶはじっとユウやんを見詰めた。射るような視線を受けかねてユウやんは目を逸らしかけたが、思い直したように踏みとどまってしのぶを見返した。桜色の小さな唇が微かにわなないた。
「それと同じ過ちをわたし達は犯していたんです。その夜、屋上は密室だった。西本さんが誰かに殺されたのだとしたら、犯人は密室を構成するために何らかのトリックを使ったはずだ―そうわたし達は考えて、次々に思い付く犯人像とトリックを挙げていきました。でも、こう考えたらどうでしょう?会社の屋上から転落したということを指し示す物的証拠はその靴だけです。もし、その靴がなければ会社の屋上から転落した確証は何もありません。けれど、その靴こそが転落した場所を錯覚させるためのトリック―この事件のオイスターソースだとしたらどうでしょう?だとしたら、密室の謎を推理するのは徒労以外の何者でもありません。だって逆説的に考えて、西本さんが転落したのはそのビルでなかったということになりますから」
「いや、それでも、犯人が靴を脱がせて屋上に残すメリットがないことに変わりはないのではないですか?」
 センセが考え考え反問する。
「たとえば、ずっと遠くの場所で西本さんが転落したとしてその場所を知られたくないと犯人が考えたとしても死体を会社の裏手の路地まで運んだ時点で現場の偽装は完結しています。わざわざ危険を冒してまで靴を屋上に持って上がる必要はありませんよ」
 しのぶはユウやんから視線を外ず頷いた。
「わたしもそこにひっかかりました。それで、わたし牡蠣のしぐれ煮の時と同じように発想を逆転させてみたんです。靴は脱がされたのではなく、履かせられなかったんじゃないか?って」
「どういうことです?」
「転落する直前、西本さんは靴を脱いでいた。靴を脱いだ状態で西本さんは転落した。犯人が靴のことに気付いた時には西本さんの靴下はずぶ濡れ、その上から靴を履かせたら不自然になってしまいます。靴を履かせるには靴下を脱がせて、丁寧に足を拭いて、新しい靴下を履かせるという手順を踏む必要があります。その過程で警察の科学捜査で炙り出される不自然な何かを遺してしまうかもしれないと犯人は考えた。けれど、死体を会社の前の路地に移動させたとして靴がどこにもなければ警察は事件として扱うでしょう。そこで犯人は苦肉の策として履かせられなかった靴をあたかも自殺を前にして脱いだかのように会社の屋上に置くという偽装をした―証拠はありませんけど、こう考えるとしっくりします」
 しのぶは猪口を煽ってから続けた。
「転落現場が会社の屋上ならばこの考えは無意味です。けれど、靴がフェイクだと考えて別の場所で西本さんは転落したと考えると意味を持ちます。習慣的に靴を履かないスペースで高所から転落する可能性のある場所。そして、犯人が隠匿したいと考えるであろう場所をわたしは一つ思い付きますから」
 一呼吸間を置いて、しのぶは再び口を開いた。
「西本さんのご自宅……マンションです」
 しのぶは猪口の中身を空けてから続けた。
「西本さんは三人家族で息子さんはまだ三歳です。遺体を運んだのも靴を屋上に置いたのも、お一人しかいらっしゃいません」
 しのぶは言葉を切った。明らかにしのぶは核心となる言葉をユウやん自身の口から語らせようとしている。
「西本の嫁さん……弥生ちゃんいうことか」
   ※
 雨は降り続いている―
 それでも止めるわけにはいかない―。冷やかに康男を見下ろしながら弥生は思った。息をしていないことは確かめた。ならばやるしかない。康男の腋に腕を入れると渾身の力を振り絞って引き擦った。ごみ捨て場のボックスの陰に。あそこなら駅から帰宅する人は前を通らないから暫くは気付かれない。
 一メートル引き擦ったら息が上がった。二メートル、三メートル、腕が痺れて何もかも投げ出したくなった。五メートル。ようやくボックスの前に差しかかった。
 黒い傘を差した背広姿の男が見えて弥生は慌ててボックスの陰に身を屈めた。やがて傘が雨を弾く音が近づき、遠ざかる。傘を閉じようとしているのだろう。やかましく傘を開閉して水を振り落としている音が聞こえた。やがて靴音が遠ざかり辺りは静かになった。
 ゆっくりと十まで数えてから作業を再開する。なんとかボックスの陰まで引き擦って来れた。弥生はとうにずぶ濡れになっていた。
駄目だ―自分一人では最後までやりおおせるのはとても無理だ。言いようのない虚脱感に押しつぶされそうになる。ふと康男の足元を見て弥生は愕然となった。靴を―履いていない。追い打ちを喰らってその場にへたり込みたくなった。ともかく応援が必要だ―。弥生は振りしぶく雨の中、駆け出した。
   ※
「それは弥生ちゃんが西本を突き落としたいうことか?」
 ユウやんの声は尻すぼみに小さくなり、語尾が震えた。

 

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