今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第六夜 十一月にふる雨
《7》

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「わかりません。ただ、遺体を動かして転落現場を偽装したとすると、転落自体にも関わっている可能性は高いと思います。はっきりしているのは、マンションから転落した康男さんの遺体を弥生さんは会社の裏手まで運んだ。車を使ったんだと思います。そして次の朝、始業前の混み合う時間帯に出社する人達に紛れて屋上に上がり靴を置いたんです」
 しのぶはまた少し猪口を傾けてから続けた。
「恐らく、靴は死体を運んだ時に屋上に置こうとしたんだと思います。ところがICカードがないとビルに入れないことに気付いて断念し、朝を待ちました。ですから、案外その時間帯は屋上が密室になっていることなんてご存じなかったのかもしれません」
 しのぶは疲れたような溜息を吐いた。そういえば、しのぶは謎を解く時いつも笑顔を浮かべていた。笑みを口元から消して謎を解くしのぶを見るのは初めてかもしれない―ふとバリキはそう思った。笑みを引っ込めたしのぶの表情は淋しそうだった。
 バリキの隣で、センセはしのぶの説明を聞きながら空になった紹興酒のグラスを手の中で弄んでいた。しのぶの説明が終わった後もしばらくセンセは逡巡していたようだが、やがて意を決したように口を開いた。
「で、ユウやんはこれからどうされるのですか?」
   ※
 雨は降り続いている―
「お姉ちゃん、落ち着いてよく聞いて。私、康男さんと入れ違いにコンビニに電球を買いに行ったの。それで帰って来たら何があったのかはわからないけれど、康男さんとお父さんがベランダで揉み合っていて……。……。そう、はずみで康男さんが落ちちゃったのよ。……。ううん。亡くなっているのを確かめたわ。……。でも、あれは事故よ。……。そんな……、お父さんを裁判にかけさせたりしたくない。……。わかってるよ。でも、手伝って。……。お願い」
 『お願い』と言い放つと弥生は電話を切った。二十分後、インターフォンが鳴った。ドアを開けると姉が立っていた。

「車に乗せるところだけ手伝ってくれれば良い。後は私がやる」
「どうするつもり?」
「康男さんの会社の裏手に死体を置いてくる。今日、康男さんは帰って来なかった。会社の屋上から飛び下りて死んだことにする。お父さんを殺人犯にすることなんてできないよ」
「馬鹿なことは止しなさい。警察には康男さんがベランダから飛び下り自殺したとだけ証言すれば良い話じゃない」
「父さんがマンションに入るところを管理人さんに見られた。部屋にいたことが知れたら警察は父さんも尋問するよ。姉さんも見たでしょ、父さんひどく取り乱してる。いくら認知症の患者の証言といったってあれを見たらただの自殺じゃないって警察は気付くよ。だから、自殺の現場を別の場所にしたいの」
 姉は黙りこくっている。その目は降りしきる雨をじっと見詰めているように見えた。
「わかった。手伝う」
 唐突に口を開くと姉はきっぱりとそう言った。一旦決断すると姉の行動は速かった。この辺りは姉妹でよく似ている。車を目立たないスペースに回し、後部座席にビニールシートを敷くと二人で康男の遺体を持ち上げた。
「靴はどうするのよ」
 足首を握ろうとして姉は康男が靴を履いていないことに気付いた。
「履かせようとしたけど無理。絶対ぼろが出ちゃうよ。仕方がないから、会社の屋上に置いてくる。揃えておいておけば自殺っぽいでしょ」
 姉は一緒に行って手伝うと言ったが弥生はきっぱりと断った。
「お父さんを看る人がいる。あと、翔もお願い。今から二人を連れて帰って」
   ※
 ユウやんは主人と客達の視線を浴びて酸っぱいものを噛み締めるような顔になり、目を逸らした。
「悪いんやけど、今日わしはこの店に来んかった。みんなも西本の話は聞いてない。そういうことにしてくれ。この通りや」
 ユウやんは深々と頭を下げた。
「いや、それはできん相談や。わかってるか?やってしもうたことをなかったことにしてくれて、ユウやんは言うてるねんで。少なくとも俺は呑めん。罪は償うべきや」
「バリキの言う通りですよ。そう言うのは友達がいとは言いません。第一、このまま目を瞑ったら、ユウやんはもう二度とその弥生さんに顔を合わせることができなくなりますよ」
 センセもたたみかける。それでもユウやんは頑なに首を横に降り続けた。
「理屈はわしかてわかってる。けどな、弥生ちゃんを犯罪者にするわけにはいかんのや。翔ちゃんはまだ三つやで。父親亡くしたばかりやのに母親を犯罪者にしてしまったらあの子はどないなるねん」
 言ってユウやんはカウンターに肘をついて両手で頭を抱えた。
「それこそユウやんの出番ちゃうんか。たとえ一人ぼっちになっても、最強のトラブルシューターがバックアップしてくれたら、これ程心強いことはないで」
 それでもユウやんは首を縦に振らなかった。
「わしにできるんは翔ちゃんの生活を支えてやることだけや。心を支えてやることはできへん。誰も母親がおらん寂しさを埋めてやることなんかできへんねん」
 『それができるんは弥生ちゃんだけや』―語尾が震えた。その語調に声を奪われたように客達は黙り込んだ。
「ユウやん」
 主人が口を開いた。その顔はかつて見たことがない厳しい表情を浮かべていた。
「この店の店主として言わせてもらうで。ユウやんの気持ちはようわかる。俺はユウやんのそういうとこ好きやで。それはここにおる皆さんかて同じやろ。けど、バリキの言う通りや。やってしもうたことをなしにはできん。いや、弥生さんのことを言うてるんやないで。ユウやんのことや。ユウやんは今日ここで西本さんの事件のことを喋ってしもた。結果的にしのぶちゃんが説得力のある答を出した。それはもう五人の人間が知ってしもうたことや。それを聞かんかったことにしてくれ言うても無理な相談や。皆さんわだかまりが残るわ。俺は店の主人としてお客さんに気分よう帰って頂く責任がある。そやから、俺が憎まれ役になるわ。しのぶちゃんの説が当たっているかどうかは分からんけど明日の朝一番で警察署に行く。今日ここで話されたことを全部そのまま伝える。その上で、一度その前提で事実を確かめてくれとお願いしてみるわ」
 ユウやんは普段へらへら笑っている風貌からは想像もつかない凄味のある目で主人を睨んだ。が、主人も怯むことなく意志の固さを目顔で示した。
 誰もが叫び出したい衝動に駆られながら沈黙を破ることが憚られるもどかしさを感じている。店の中はかつてない居心地の悪い空気に包まれていた。
「あの……」
 遠慮がちにしのぶが口を開いた。
「はい、しのぶさん」
 センセが(すが)るようにしのぶを指した。
「もう少し良いですか?」
 その一言に(すく)われたかのように店の空気が緩んだ。ユウやんが黙って頷くのを見てしのぶは口を開いた。
「この事件には、今ある情報だけでは分からないことが沢山あります。まず転落の状況は全くわかりません。弥生さんが転落に関わっていたかどうかもわかりません。分かっているのは転落した場所が恐らく西本さんのマンションだろうということだけです。でも、それよりも大きな謎が、……ずっと気になる謎が二つあるんです」
 しのぶは客達をひとわたり見回した。
「その謎の答はわたしにもわかりません。たぶん、その場にいた弥生さんにしかわからないことじゃないかと思っています」
 そう断ってしのぶは話を続けた。
「一つは康男さんはどうやって転落したのかということです。マンションのベランダって高い柵があって人が簡単に転落しないようにできていますよね。事故にせよ殺人にせよ転落するためには康男さんが柵を越える高い位置にいないと容易に突き落とすことなんてできないんです。それこそ、康男さんよりずっと大きな体格で力が強いレスラーかお相撲さんでもなければ不可能です。じゃあ、康男さんはそんな不安定な体勢で何をしていたのかが謎です。かといって、康男さんが自殺したとすると転落現場を偽装した理由がわかりません。変な言い方ですけれど警察に通報すれば済む話です。偽装の動機を強いて挙げるとすれば自殺の動機に繋がった会社に対する抗議でしょうか?でも、小さなお子さんがいらっしゃるのに、死体遺棄の罪を犯してまですることとは思えません」
 しのぶは言葉を切って再び口を開いた。
「二つ目の謎は天秤のもう一方に何が載せられたのかという謎です」
 客達が怪訝そうな顔をした。しのぶは猪口を干して話を続ける。
「改めて伺いますけど、西本さんご夫妻って格別夫婦仲が悪かったということはないのですよね」
「それはないで。そら夫婦喧嘩の一つや二つやらかすことはあったやろうけど、十周年パーティーやるくらいや、おしなべて円満やったと思う」
 それを聞いてしのぶは何故か溜息をついた。
「でしたら、夫の亡骸を雨ざらしにするのに抵抗感がなかったはずがないですよね。相当な逡巡や躊躇があって当たり前です。でも、現実にはその夜のうちに決断を下して、夫を雨ざらしにしてまで現場を偽装しています。この決断の早さは決断の後押しをした何かの存在を示唆していると思うんです。弥生さんは夫の亡骸を雨ざらしにすることと何かを天秤にかけて、その結果天秤はその何かに傾いたんだと思います」
 息苦しくなったのかしのぶは言葉を切って、また猪口を傾けた。
「それが何かは分かりませんけど、どういった性質のものかはある程度推測できます。その性質は大きく二種類に分けられます。一つは、天秤の他方を下げる性質のもの。たとえば、夫の亡骸を雨ざらしにしてでも守るべき大切な何かです。もう一つは雨ざらしにすることへの抵抗感を奪い天秤の均衡を変えてしまうもの。たとえば……、ユウやんには申し訳ないのですけど、可能性の問題として考えるならば康男さんへの憎悪といった感情です。夫婦仲は普段から悪くなかったということですから、その夜、恐らく転落死に絡む何かが弥生さんの憎悪を一瞬の内に沸騰させたというのがありそうな可能性だと思います」
「可能性というだけならあり得る気はする」
 ユウやんは考え考え言った。

 

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