今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第六夜 十一月にふる雨
《8》

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「弥生ちゃんはおっとりしてるけど芯の強い娘や。それにどないな逆風が吹いててもポジティブに物事を考える強さを持ってる。けどな、そのポジティブシンキングは諸刃の刃やねん。逆風をはね返すためなら手段を選ばんところがある。そして何よりネガティブな発想をする人間に対してえらく冷とうて、斟酌してやる寛容さに欠けてるように思う」
 ユウやんの言葉に力を得たように頷いてしのぶは居住まいを正した。
「私からもお願いします。警察に行ってありのままを話すよう弥生さんを説得して下さい」
 しのぶはじっとユウやんを見詰めた。ユウやんは再び表情を硬くした。
「お願いする理由は二つあります。一つは弥生さんが抱えている心の疵が心配だから。弥生さんが天秤にかけたものはとてつもなく重いものだったと思います。その夜の時点では弥生さんはベストの選択をしたと自分に言い聞かせたことでしょう。でも、時間が経つにつれてその選択が弥生さんを苛んでいるのじゃないかと心配なんです。なんて酷いことをしたのだろうと今になって自分を責めているのじゃないかと心配なんです。最悪の場合、弥生さんは心を病んでしまうこともあり得ます。それを避けるには全てを告白して心を軽くするしかないんです。取り返しがつかなくなる前にどうか弥生さんを説得して下さい」
 口をへの字に曲げてユウやんはじっと考え込んでいた。
「説得をお願いするもう一つの理由は、もっと切迫していて現実的な問題です。康男さんの靴は翌日になって屋上に置かれました。つまり前夜の雨に晒されていません。ということは、その屋上で雨ざらしに遭っていれば有しているはずの科学的特徴を持っていないんです。逆に前夜、靴があった場所で、その屋上ではあり得ない特徴を備えてしまっているかもしれません」
 しのぶは軽く猪口を煽って続けた。
「楽観的に考えれば自殺として処理されようとしている事件で科捜研はそこまで精密な検査を行わないかもしれません。でも、目端の利く方が精密な検査を行ったら、弥生さんの偽装は間違いなく総崩れになります。現場を偽装したことが発覚すれば早々に証拠が固められて逮捕されてしまいます。そうなったら弥生さんは自首する機会を失くしてしまうんです。裁判だって不利になります。ですからそうなる前に、自首のチャンスがあるうちに弥生さんを説得してあげてほしいんです」
 しのぶは立ち上がって深く頭を下げた。ユウやんはその長い髪が膝にかかるのをじっと見ていた。
「……しのぶちゃん」
 長い間の後、ユウやんは口を開いた。
「あんた、ネゴシエイターになれるわ」
 言って、ポケットから携帯電話を取り出す。しばらく操作してからユウやんは耳に当てた。
「……。もしもし、あ、弥生ちゃんか。わしや。……。遅い時間で申し訳ないけどちょっと話があるねん。……。うん。今日中の方が良えと思うてる。善は急げ言うしな」
 いつもの調子でユウやんはへらへら笑った。
「……。うん、二十分くらいで着けると思う。……。こっちこそ。よろしうに」
 携帯電話を切るとユウやんは深い溜息をついた。
   ※
 雨は降り続いている―
 弥生が出て行って部屋には康男と義父だけが残った。義父はいつものように焦点の定まらない目でぼんやりと宙を見ている。
「なんや最近、弥生にもすっかり愛想尽かされてるみたいですわ」
 背広のまま大儀そうに椅子に座ると康男はこぼした。義父は無反応である。それを承知で康男は喋り続けた。
「俺は根っからのエンジニアなんです。コンピュータの職人や。営業に行けいうんは俺に死ね言うのと一緒ですわ。けど、なんぼ言うても弥生にはそれがわからんらしい。二言目には家族、家族。男の仕事をなんやと思うてるねん」
 相変わらず義父の目は濁ったままで何を映しているのか定かではない。義父は東京の下町の出身で職人気質(かたぎ)で鳴らした腕の良い大工だったそうだ。だが、今の義父から往時を窺う術はない。
「俺、会社辞めようかなて思うてるんです」
 椅子が軋む音がして顔を上げた康男はぎょっとした。義父がじっとこちらを見ている。
「辞めて―どうしなさる」
 義父は塩辛声を張って睨めつけるように言った。康男は狼狽えた。いつもの義父とは明らかに違う。
「仕事のアテはあるのかい」
「い、いや、それはこれから考えますけど、どこへ行っても食っていけるだけの腕は持ってるつもりです」
 義父の声の凄味に気押されて、つっかえながら康男は答えた。
「この不景気にそうそう職が見つかるもんかい。悪いこた言わねえ。今の仕事を続けなせえ。まずは家族を食わしていくのが先だ」
 義父の言葉は容赦がない。
「しばらくは貯金ででも凌げます。俺は食うためだけに仕事をしてるわけやないんです。これは職人としての俺のプライドの問題や。弥生には理解できんみたいやけど、お義父さんやったらその気持ち分かるでしょ」
 義父の豹変に戸惑いながら康男は奇妙な高揚感を味わっていた。が、当て外れなことに義父は康男を小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「お前さんやっぱり仕事を辞めちゃいけねえ。今の仕事にしがみついてでも離れちゃなんねえ」
 お題目でも唱えるように小さな声でそう呟いていた義父が次の瞬間吠えた。
「家族を食わせてやれもしねえ男が偉そうに矜恃云々と語ってるんじゃねえ。お前さん今、矜恃のためなら弥生や翔がひもじい思いをしても構わねえってそう言ったんだぜ。お前みたいなのを半ちくってんだ」
 半ちくという言葉を康男は聞いたことがなかったが言葉の勢いから自分が半人前だと罵られたと察した。『半人前』―その言葉が浮かんで康男の頭に血が上った。
「ちょっと待て。その言葉取り消せ」
 相手が認知症の老人であることも忘れて康男は怒鳴った。
「俺は技術なら職場の誰にも負けへん自信がある。それに仕事で手を抜いたことは一度もあれへん。俺が関わった仕事は『西本ブランド』って呼ばれてて、万に一つの間違いもないと専らの評判や。それのどこが半人前や言うねん」
 康男の剣幕に気押される素振りも見せず義父は訥々と言った。
「お前さん何のために仕事してるんだ。腕を見せびらかすためかい。周りにお前さんの腕を褒めてもらうためかい」
 予想外の言葉に康男はたじろいだ。
「だったらその仕事はガキの遊びと変わらねえ。親に褒めてもらいたくて子供が一所懸命に勉強するのと変わらねえ。手抜きをしたことがねえだ?」
 義父は凄味のある目で康男を睨み付ける。
「当世じゃそれを職人の仕事っていうのかい?銭もらって仕事してんだ。手え抜かれちゃ先様もたまらねえだろうよ。さっきから聞いてりゃあんた銭に関してえらく浮世離れしてるね。仕事辞めても食っていけるだの、銭より職人の矜恃が大事だの。生まれてこの方、銭で苦労したことがねえ奴が言いそうな言い草だ」
 康男の前にいる義父は今や壮健な男にしか見えなかった。義父は不意に表情を和らげて静かに言った。
「そもそも、お前さんが自慢にしているその腕を見込まれて営業に移るんだそうじゃねえかい。弥生が姉貴に喋っているのを聞いたよ。だったら一体何が不満なんだい」
 義父の言葉が上司の内村の言葉と被った。内村もそう言って康男を説得したのだ。
「技術は語るもんやのうて振るうもんです」
 同じ反論を康男は口にしたが義父は鼻で笑った。
「屁のつっぱりにもならねえな。銭頂けるんなら何やったって構わねえだろうが」
「さっきから聞いとったら金の話しかしませんね。お義父さんには職人のプライドとかないんですか?」
「家族にひもじい思いをさせてまで守らにゃならねえ矜恃なんてあってたまるかよ。そんな余計なもんは金輪際捨てちまいな。そんなガキのおもちゃみたいなもんのために弥生や翔がひもじい思いをしようもんなら、俺はお前さんを許さねえよ」
 弥生と一緒だ。やはり親子だ。親子して俺の仕事を、仕事に対する情熱を小馬鹿にしやがる。
「なんでやねん。なんでそこまで何でもかんでも俺一人で背負わされて犠牲にならんとあかんねん。多少ひもじい思いをしてでも亭主を支えるのが女房ちゃうんかい」
 義父は立ち上がると繰り言を呟き続ける康男の腕を乱暴に引っ張って窓際まで引き擦って行った。やにわにサッシの窓をひき開ける。高層マンション特有の強風が十一月に降る雨を孕んで吹きつけてきた。
「頭を冷やしな。そして考えるんだ。本当に大事なことが何なのか。よおく考えな」
「わかりませんわ。男は仕事が一番大事や。なんで家族の犠牲になって納得のいかん仕事をやり続けんといかんのです?」
「それが男ってもんだろうが」
 義父は静かに言った。

 

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