今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第六夜 十一月にふる雨
《9》

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「男はそうやって一生家族を守って生きてくもんだろうが。今のご時世、やれ自分がねえの、生きがいがどうのとめんどくさいことを騒ぎやがるから、お前さんみたいに頭がこんぐらがった若いのができちまうのかもしれねえな」
「俺は……」
 康男は俯いて黙りこくった。
「そんなんいやや」
 出し抜けに子供染みた声で叫ぶと網戸を引き開けて康男はベランダに飛び出した。エアコンの室外機に飛び乗ると片足を柵の上端にかける。
「馬鹿野郎。お前が死んだら弥生や翔はどうなる。了見違いも大概にしろ」
「家族、家族、もう聞き飽きましたわ。家族を守る前に俺にはもっと大事なもんがある。それをよってたかって取り上げようとしやがって。お前らみんな好き勝手するんやったら俺も好き勝手させてもらうわ」
 吹き降りの雨に濡れまみれながら康男は半狂乱になって叫んだ。
「この半ちく野郎。どういう了見で所帯を持った。弥生と結婚した。翔を作った。男の責任を果しもせずに勝手に幕引くことが許されるとでも思ってんのか」
 だが、義父の叫び声は康男に届いていない。康男は惚けた顔になって焦点の合わない目で暗い中空をぼんやりと見詰めていた。やにわに室外機を飛び下りて部屋に戻ると康男は義父を突き飛ばした。不意をつかれた義父はタンスに強か腰をぶつけて呻いた。康男は苦しげに唸っている義父を置き去りにして寝室に飛び込んだ。
「あんたの理屈やったら、これで良えわけですやろ。翔も連れて行ったら俺が死んでもひもじい思いせんで済みます。弥生はもう大人やから一人ででも食っていけるでしょ」
 必死に身を起こそうとする義父を尻目に翔を抱いた康男は再び室外機に飛び乗った。眠りからいきなり引き戻され吹き降りの雨に晒された翔は火がついたように泣き叫んでいる。
「馬鹿……野郎」
「もう説教は聞き飽きましたわ」
 笑い混じりに言って康男はベランダの柵に足をかけた。玄関で重い扉を開け閉てする音が聞こえた。リビングに顔を出した弥生の目に半狂乱の男が翔を抱えて今しもベランダから飛び下りようとしている姿が飛び込んできた。
 金切り声がほとばしる。
 その声に弾かれたように義父が跳ね起きるとベランダに飛び出した。渾身の力を込めて康男の腕にしがみつくと翔を引き剥がしにかかる。奪われまいとして腕に力を入れた康男は足元が不安定なことを忘れていたのだろうか。義父が翔を引き剥がしたはずみにバランスを崩してベランダの向こうに消えた。弥生は父に駆け寄ると翔を抱き取った。それからベランダの端に寄り真下を見下ろす。
 動かなくなった夫が地面に横たわっていた。冷たい雨が髪を濡らすのも厭わず弥生は長いことそれを見下ろしていた。
 やがて気を取り直して部屋に戻ると翔を布団に横たえて弥生は部屋を飛び出した。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう……
 死ぬなら一人で死ね。死ぬなら一人で死ね。死ぬなら一人で死ね……
 何かの呪文のように二つの想いが言葉となって胸の中で渦を巻いている。二つの想いをやがて一つの決意に変えながら弥生は非常階段を駆け下りて行った。
   ※
「うわっ、本降りやな」
 格子戸を開けたユウやんは黒い傘を外に差し掛けながら言った。
「十一月に降る雨は雪にならん分、(たち)が悪いねん。うっかり濡れたら体を冷やして風邪をひいてしまいそうや」
 呟くようにそう言うと格子戸を潜って外に出る。閉められた格子戸の向こうで大きなくしゃみが聞こえた。客達と店主はしばらくの間、真新しい格子戸をじっと見詰めていた。

 ─完─

 

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