今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《10》

「Gの書斎」に戻る


 

「そら又いきなりの告白やな。他に好きな娘でもおるんかな?やとしたら、それなりに誠実なとこあるやん」
 しのぶは、ユウやんを恨めしげに見遣った。
「いいえ。『僕が愛せるのは最低でもバスト85以上、できればDカップ以上なんです。80未満の女性はどうしても愛せないんです』と言われました」
 しのぶはカウンターの上で硬く拳を握った。
「ということで円満にお流れになりました」
 鏡子がしれっと言う。いや円満ではないだろうと、しのぶを見ながら客達は思った。
「ま、まあ、世の中いろんな男がおるわ。けどその男も失礼なやっちゃな。いくらしのぶちゃんかて80未満いうことはないやん」
 しのぶが黙ったまま俯いて、気まずい沈黙が店を覆った。バリキがユウやんを無言で絞めにかかった。
 烏賊ワタのルイベ、このわた、タチの味噌汁、真冬ならではの料理が続く。客達は舌鼓を打ちながらこの一年を振り返る。
「前から不思議やってんけど、しのぶちゃん、ようこの店見付けたな。駅からだいぶ離れてるし、住宅街の中にぽつんとあるから場所がわかってないとちょっと気付かんと思うんやけど」
 バリキが素朴な疑問を口にする。
 しのぶは何事か鏡子に耳打ちした。鏡子は『まあ』と驚いたような声を上げたが、笑って『構いませんよ』と頷いた。しのぶは真っ直ぐに主人を見詰めた。
「実は……、母に教わっていたんです」
「しのぶちゃんのお母さんは、うちに来られたことがあったんかな」
 主人が尋ねる。記憶を辿るように首を傾げながら主人は自分のぐい呑みに生酒を注ぎ足した。
「いいえ、来たことはないそうです。ただ、わたしがとことん困って一人でどうしようもなくなったらこのお店を訪ねなさいと言われました。年が明けた頃から、わたし薄気味の悪い男の人達に付きまとわれていて、何かされるわけではないから警察にも相談しづらくて困っていたんです。それであの日、わたしここに来ました。お店の前で入りあぐねていたらバリキさん達が駆け寄ってきたのでてっきりあの男達の仲間に襲われると思って……」
 お店の中に飛び込みました―としのぶは言った。後にその男達は祖父がしのぶの身辺調査のために寄越していたのだと知った。しのぶは猪口の中身を一息に干して続けた。
「母は言いました。ここは、わたしの本当のお祖父さんがやっているお店だから、きっと力になってくれるって」
 主人が盛大に生酒を吹いた。
「ちょっ、鏡子ちゃん」
 むせ返りながら主人が訊く。思わず昔の呼び名が出た。
「ええ。涼子は駆け落ちしたあの夜にできた伸一さんと私の子供です。だからしのぶは伸一さんの孫ですよ」
 鏡子はまるで今日の天気の話でもするような気軽さで答えた。
「ええと、旦那さんはその事知ってはるんですか?」
 さしもの吉田のおばちゃんも恐る恐る訊く。
「もちろん。というか、白澤は元々子供が作れない体質なのです。少し理解しづらいかもしれませんが、白澤は恋愛感情や嫉妬心は生きていく上で邪魔になるだけの瑣末な感情と考えているようです。涼子のことも正直に話したら。『そうか』と言って、自分の娘のように接してくれました」
「夫婦揃ってただもんやない」
 ぼそっとおばちゃんが呟くのを(みみ)(ざと)く聞いて、バリキは内心おばちゃんがそれを言うかと思った。

「そろそろ、おいとましましょうか」
 鏡子は立ち上がり、しのぶを促した。結局鏡子は一升空けてバリキとユウやんを驚嘆させた。しのぶも頷いて立ち上がる。
「あの、先に行って頂けますか?すぐに追いかけます」
 察して鏡子は頷くと『ごちそうさま』と言って格子戸を潜った。
「あの、わたし皆さんにお礼が言いたかったんです」
 背筋をしゃんと伸ばしたしのぶは銀縁メガネとポニーテールをしていても、もう中学生には見えなかった。
「初めてわたしがこの店に来た時のことを覚えていらっしゃいますか?五十円玉二十枚の謎をセンセが話された日のことです」
 男達が頷いた。
「あの日、わたしは時間を気にしていて慌てて帰ろうとしましたよね。あれは用事があるフリをしていたんです」
「フリ?」
「はい。家に帰っても用事なんて何もありませんでした。でも、あれ以上ここにいたら泣いてしまいそうだったから。……わたし、お店を出てから少し泣きました」
 男達は黙って聞いている。
「誕生日おめでとう」
 しのぶは小さな声で呟いた。
「嬉しかった。そんなこと言われたの母が亡くなってから初めてだったんです。今、出会ったばかりの見ず知らずの人達に『おめでとう』って言ってもらって、誕生祝いにとご馳走して頂いて。世の中にこんなに温かい場所があるなんて……。それで、わたし、居酒屋が……この酔鏡がいっぺんに好きになりました。この一年間、わたしとても幸せでした。このお店で過ごした時間をずっとずっとわたしの宝物にします」
 几帳面なお辞儀をしてしのぶは格子戸を開けた。いつの間に降り出したのか舞い始めた粉雪が彼女のコートをからげてひんやりとした十二月の夜気を店の中に運ぶ。
「ちょっと待ち、何しんみりしてるん」
 吉田のおばちゃんが慌てて呼び止める。
「年が明けたら今よりもっと忙しくなります。だからここにはもう来れないと思うんです」
 客達に背中を向けたままそう言ってしのぶは格子戸を潜った。誰もが何か言おうとしたが、誰も何を言って良いのかわからなかった。
「良いお年をお迎え下さい」
 戸の向こうでしのぶはもう一度お辞儀をすると静かに戸を引いた。主人と客達はいつまでも黙ってその黒々とした格子戸を見詰めていた。


 ─完─

 

「Gの書斎」に戻る
エピローグへ
inserted by FC2 system