今宵、酔鏡(すいきょう)にて
エピローグ

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【エピローグ】

 毎年の事だが年が明けてふと気が付くと一月も半ば頃になっている。センセはそんなことを考えながら朝刊をめくっていた。
「あ、敬一君。葉書が来てたよ。テーブルの上にあるでしょ」
 キッチンから顔だけ出して千秋さんが言った。何の変哲もない官製はがきがテーブルの隅に載っていた。宛名は吉岡敬一様、差出人は平井伸一となっていた。記憶にない名前だ。葉書を裏返してセンセは『ああ』と思わず声を立てた。
 今宵、酔鏡にて
 来る一月二十日午後五時より
 当店の創業四十周年を兼ねた
 ささやかな祝賀会を開催いたします。
 会費四千円 食べ放題飲み放題
 特別料理もご用意し
 皆様のご来店
 心よりお待ち申し上げております。
 達筆な手で書かれた案内文をセンセは何度も読み返した。常連達のところにも同じ葉書が送られたことだろう。手帳に予定を書き入れながら、あの娘はやはり来ないのだろうかとセンセは考えていた。

 一月二十日 日曜日
 センセは千秋さんを伴って酔鏡を訪れた。格子戸をからりと引くと、店内の喧騒が路地にまで溢れだしてくる。
「何事ですかこれは」
 おっかなびっくり格子戸を潜ると店の中はセンセがかつて見たことがない程の賑わいを見せていた。
「へえ、ここが敬一君の行きつけなんだ」
 もの珍しげに店の中を見回しながら千秋さんが続く。
「お、噂のお嬢さんも一緒なんや。お姉さんの方?それとも妹さん?」
 バリキが大きな声を出す。
「何を言っているのですか。この人は私の家内です」
 途端に客達がどよめき、口々に『犯罪だ』『職権濫用』『世の中間違ってる』と騒ぐ。やかましいことこの上ない。
「奥が二つ空いているで」
 主人がカウンターの向こうで顔を上げる。千秋さんを見て軽く会釈すると、千秋さんはきちんとお辞儀をして『主人がいつもお世話になっております』と挨拶をした。『おおっ』と客達が再びどよめく。
「センセ今晩は。奥さんは初めまして」
 L字カウンターの短い辺の側に腰を下ろした派手な服装のおばちゃんが手を振った。隣にはやくざの幹部かと見紛う男が座っている。
「吉田さんご夫妻です。ご主人は山通運輸の専務、奥様はお好み焼き屋を営んでおられます」
 センセが紹介する。千秋さんと吉田夫妻は挨拶を交わした。
「それから、ユウやん。自称競馬の神様」
 L字の角に座っているパンチパーマの男がぺこりと頭を下げた。
「お金に困ったら言うて下さい。確実に儲かる馬を教えたげます」
 『決して耳を貸さないように』とセンセは千秋さんに耳打ちして客達の後ろを進む。
「おや、珍しい方がいらっしゃいますね。千秋さん、こちら山下さん。童話を書かれています。隣は寺田さん、絵本の挿絵画家をなさってます。あ、家内です。わざわざ東京からですか?」
 センセが尋ねると山下は笑いながら顔の前で手を振った。
「実はようやく本ができましてね。来月発売です。打ち合わせを兼ねて寺田君を訪ねたところこちらからお誘いを受けているという。で、折角なので厚かましくお邪魔しました」
 軽く会釈をして二人は更に奥に進んだ。
「あ、センセ。明けましておめでとうございます。奥さん初めまして」
 東大寺南大門の金剛力士像と見紛う大男が首を捻って挨拶をした。男の隣の青年がどうしても小柄に見えてしまう。
「スポーツ万能選手のバリキ君と隣は弟の学君。京大の二回生で専門はバイオです」
「初めまして、主人がお世話になってます」
 千秋さんが挨拶するとバリキも会釈しながら『センセには勿体ないで、ほんま世の中間違うとる』とぼやいた。
 ようやく二人は端の空席に辿り着き腰を下ろした。
「ええと」
 主人が店の中を見渡す。
「お一人遅れはるそうやけど、始めさせてもらおか」
 吉田夫妻の横に一席空席があった。それを聞いた客達がざわめく。と、ユウやんが手を挙げた。
「あ、ちょっと、期待させてすまん。あと一人は、わしの連れで佐山君や」
 佐山君は劇団の主催者で去年の九月にこの店で起きたドタバタ劇の立役者である。
「最初に一言挨拶させて下さい」
 主人が居住まいを正した。
「ええ、お蔭様でこの店も今年で四十年を迎えました。これもひとえにこの店を支えてくれた多くのお客様の愛情の賜物やと思います。この店の中にはここに通うてくれた人の想いが四十年分ぎっしり詰まってます。これからもその想いを大切にして、精進して参りますのでどうぞよろしくお願いします」
 拍手が沸き上がり、店が回り始めた。壁のホワイトボードにはこう書かれている。

 お品書き
 謹賀新年 子年

「まさか、ネズミ料理が出てくるんちゃうやろな」
 ユウやんが恐ろしいことを言う。
「あのなあ。子年に引っ掛けてお正月料理と根菜の料理いろいろ出させてもらいます言うこっちゃ」
 主人が解説する。
 客達は何度も店の格子戸を見遣った。今しもその木戸がからりと開いて、『こんばんは』とどこか頼りない声を上げながらポニーテールの娘が入って来はしないかと期待した。
 しのぶは、あのクリスマスイヴの夜以来ふっつりと姿を見せなくなってしまった。センセが数学科に確認すると年明け以来職場も休暇を取って休んでいるという。
「ほな、そろそろ特別料理を出さしてもらおかな」
 主人の声に客達が拍手を送る。
「中華の四川料理でおめでたい席では定番やねんて。豚ロースの甘酢炒めや」
 解説をするだけで動こうとしない主人を客達は怪訝そうに眺めた。
「良えよ。持ってきて」
 主人が奥に声を掛ける。暖簾を分けて――ポニーテールに銀縁メガネのしのぶが盆を捧げ持って現れた。赤いギンガムチェックのエプロンをしている。
 客達は一瞬何が起きたのか分からず、店の中はしんとなった。が、次の瞬間窓ガラスを割らんばかりのどよめきが沸き起こった。
「こんばんは」
 客達の興奮が少し収まるのを待って、しのぶはおどおどした声で挨拶をした。
「あれ?しのぶちゃん元に戻ってへん?」
 バリキが訊くとしのぶは小首を傾げながら答えた。
「クセになっちゃってるみたいで、ここに来た次の日にはもう元に戻ってしまって……。お祖母ちゃんがっかりしていました」
「で、何してるの?」
「あの……、店員なのですけど」
 自信なさそうにしのぶが言う。
「ま、ええやん。しのぶちゃん一杯呑みや」
 吉田のおばちゃんが大きな声で言う。千秋さんがセンセの袖を引いて『勢いでも中学生に呑ませたらまずいよ』と囁いた。『いえ、彼女はとっくに二十歳を過ぎているのです』とセンセが囁き返す。
 ひとわたりグラスが満たされ、しのぶも生酒のぐい呑みを握った。
「あの……、一つお願いがあるのですけど」
 消え入りそうな声でしのぶが言う。
「みなさんで『おめでとう』って言ってもらえませんか」
 客達はちょっと首を傾げたが、まあ四十周年やし、などと言い合ってバリキの『せえの』という音頭で、
「おめでとう」
 と声を揃えた。
「ありがとう」
 しのぶは嬉しそうにそう言ってグラスを干した。
「ああっ」
 ユウやんが大きな声を上げる。
「しのぶちゃん二十一歳になったんや」
 しのぶはにっこり笑って頷いた。
「はい。三日前になったんですわ」
 甲高い返事が帰ってくる。
「ほんまは三日前に祝賀会しよって、お祖父ちゃんは言うてたんですけど」
「お祖父ちゃん言わんといて。年寄り臭い」
 言いながら主人が照れて真っ赤になる。
「センター試験は今日までやから、今晩にしよいう話になったんです」
「センター試験ってしのぶちゃん大学受けるんか?」
「はい。前から準備進めてたんです。十二月頃は大変でした。寝不足でふらふらしてて。周りの人にもずい分助けてもろたし。特に、数学は出遅れてたから職場の工藤先生に遅くまで分からんとこ教えてもらったり参考書買うのに三宮まで付き合ってもらったり」
「ああっ、不倫疑惑」
 吉田のおばちゃんが記憶を呼び覚まされて大きな声を出す。
「ええっ、あたし工藤先生と不倫してたんですか?いやや、マディソン郡の橋とか金妻みたいに」
「それ、どっちも人妻の話やし」
「けど、大将も人が悪いな。しのぶちゃん来てるんやったら一言言うてくれたら良えのに」
 ユウやんがぼやく。
「案内状に書いたやん。開店四十周年を兼ねた祝賀会って、何と兼ねてるかいうたら、そら孫の誕生パーティに決まっとる」
 顔が雪崩を起こしそうな主人を見て客達は『アホらし』と溜息をついた。
「じゃあ、年が明けたら忙しくなるから来れないというのは受験の話だったんですね」
 センセが尋ねる。
「はい。今は職場も休暇頂いてます」
 しのぶはしれっと言う。
「お願いですから、今度からそういう話をしんみり言わないで下さい」
 言ってセンセは溜息をついた。
「受験が終わったらまた来ます。というかここで週三回アルバイトをさせてもらうことになりました。今日は研修なんです。あ、その特別料理はあたしが作ったんですよ。そこが特別なんですわ」
 言ってしのぶは笑った。
「バリキ、実験してみたいと思わへんか?」
 ユウやんが席の後ろから声を掛ける。
「俺も同じこと考えとった。……あっ、UFO」
「えっ、どこどこどこ?」
 ノリ良くカウンターからしのぶが身を乗り出すとバリキは銀縁メガネを外し、ポニーテールを解いた。
 長い髪を胸まで垂らし、奥二重のつぶらな瞳を瞬かせて二十一歳になった娘はしゃんと背筋を伸ばした。料理を口に持って行きかけた千秋さんが呆気に取られてストップモーションになってしまった。
 からり
 格子戸が開いて痩せ身の男が入ってきた。
「お、佐山君いらっしゃい。ごめん、おばちゃん一個詰めて」
 ユウやんが声を上げる。
 それでも佐山君はちょっと居づらそうに入口の傍に立っていた。
「ほんまに僕なんかお邪魔して良かったんですか?常連でもないのに……」
 それを聞いたしのぶがすっと寄ってくる。
「大丈夫ですよ。初めての方でも気安く入れるくらい敷居が低いのが当店の売りです」
 そう言って丁寧にお辞儀をした。
「ようこそ酔鏡へ」

 ─完─

 

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