今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《2》

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「来年の三月からやったら保育士の口を探してる人を紹介できますよ。こちら開所時間拡張してから保育士の実働、週五十時間近いんちゃいます?」
「それは……、いや、誰に聞いたんですか」
「一般論ですて」
 ユウやんがまた笑った。
「けど、もしそうやとしても追加の保育士の確保は今日日難しいし、いろいろ大変やろなて思うたんですわ。けどこのままやったら、保育士さんから厭味や愚痴言われるだけではすまんようになるんちゃいます?」
 言われた園長先生はじっと考え込んだ。
 数分後、園長室の戸を後ろ手に閉めるユウやんは鼻歌でも歌い出しそうな顔をしていた。
   ※
「どうしたの?敬一くん、いきなりそんな昔の話を聞きたがるなんて」
 センセは家に帰るなり妻に大学の同期生のことでちょっと教えてほしいと切り出した。
「だいたいさあ、今日は呑んでくると思ったから夕飯の支度何もしてないじゃん。普通、メールとかくれないかなあ」
 妻はなかなか本題に入ってくれそうにない。
「いや、それは置いておいて。大したものはいりませんから」
 栄養がどうのという妻を宥めつつセンセは本題を切り出した。
「数学科の結城先生の結婚相手って、千秋さんの同期ではなかったですか?」
「ん?白澤(しらさわ)涼子(りょうこ)ちゃん?うん、そうだよ」
 センセの妻の千秋さんは事も無げに頷いた。
「学生結婚だったそうですね」
「敬一くんがそれ言うかなあ。自分の研究室の女子学生口説いて奥さんにしたくせに」
 千秋さんがけらけら笑う。『うちはうちです』―しれっとセンセは言った。
「だいたいさあ、あの二人が結婚したのってあたし達の影響なんだよ。周りからいろいろ言われたのをものともせず、あたし達が結婚しちゃったから、あの二人も駆け落ちに踏み切ったんじゃない」
 『知らなかった』とセンセが漏らすと、有名な話よ―と、千秋さんが笑った。つくづく教授なんてものは学生同士のことについては蚊帳の外だとセンセは思った。
「で、何が知りたいの?」
「その、お二人にはお子さんがいたそうなのですが、何か覚えてますか?」
「ええと、そういえば女の子が一人いたはずだなあ。ただ、あたしも涼子ちゃんとは研究室が分かれちゃったからそれほど親しくなかったのよ。それにほら、あの子達が結婚したのって二十一年前でしょ。あたしは……」
 言って千秋さんはお腹の前で半円を描くジェスチャーをする。それを見てセンセは『ああ』と言った。
「お腹の中に(めぐみ)がいたもん。もう学校どころじゃなかなったなあ」
 女子学生の頃と変わらないはじけるような笑い声を立てる妻を見て、センセはわけもなくどきまぎした。
「ま、同期に訊いて回ったらわかると思うよ。ちょっと待ってて」
 言いながら既に携帯電話を握っている。思い立ったらすぐで、行動が素早いところもあの頃のままだとセンセは思った。
   ※
「そういえば八月に面白い数学の問題にまつわる話を聞きました。それを小学校一年生の女の子が解いたんだそうです」
 ふと顔を上げてしのぶが振り返りながら言った。しのぶの背後に立っていた工藤教授は何か言い掛けて止めた。まもなく午後九時。二人以外に残っている者はなく、部屋はしんとしている。しのぶは山下から聞いた正直村と嘘つき村の話をした。
「有名な問題だね。応用問題を一つ出そう。質問を一つしてどちらの道が正直村に続いているか知るためには君はなんと質問する?」
 しのぶはちょっと考えてすぐに答えた。
「一方の村を指差して『あなたが住んでいるのはこちらの村ですか?』と訊きます。私が指したのが正直村なら正直村の人も嘘つき村の人も『はい』と答えます。私が指したのが嘘つき村なら『いいえ』と答えます」
 正誤の判定を待つようにしのぶは工藤教授をまっすぐ見詰めた。
「正解だ。だが、答えを出すのが少し性急過ぎる。他にもっと良い解答がないかを模索すべきだ。たとえば、もっとシンプルに『あなたの村はどちらですか?』と訊けば、正直村の人も嘘つき村の人も正直村を指すんじゃないかな」
 工藤教授に言われてしのぶはちょっと首を傾げたがすぐに答えた。
「いえ、その質問だと嘘つき村の人に『どちらでもない』という答えをさせる隙を作ります。この問題のポイントは、質問に対する嘘の答えが複数できないようにすることです。ですから、正しい答えの反対が嘘の答えであることすなわち、『はい』か『いいえ』の二択でしか答えられない質問をすることが一番シンプルになると思います」
 しのぶの答えを聞いて工藤教授は初めて笑った。
「問題の本質が理解できているようだね。大変結構」
 壁掛け時計が九時を告げた。教授は腕時計を見て『もうこんな時間か』と慌てた。
「君といると時間を忘れていけない」
 照れ臭そうに笑うと工藤教授はしのぶの肩に手を載せて『帰ろうか』と言った。しのぶは黙って頷くとまだ名残惜しそうに椅子の上で身じろぎしていたが、ようやく思い切ったように立ち上がった。
「あ」
 二人の声が重なる。立ちくらみを起こしたようによろけて、しのぶは教授の胸に倒れ込んだ。そのまましのぶはじっとしていた。
「私……、先生しか頼る人がいないんです」
 やおら、しのぶは胸に顔をうずめたままくぐもった声で言う。
「僕なんかで本当に君を支えられるのかい」
 彼女の肩をしっかりと抱きながら教授は訊いた。『はい』―しのぶは顔を上げて教授をまっすぐに見上げて言った。
   ※
「ほんま半端やなかった」
 バリキはソファにぐったりもたれかかりながら言った。テーブルの上のアイスコーヒーは一瞬で空になっている。
 試合は辛勝したのだが―。
「なんや普通の試合の三倍くらい疲れたわ。何が悲しうてバスケの試合でキックやパンチのガードばっかりせなあかんねん」
「だから言うたやん」
 向かいの相沢が笑いながら言った。試合を落さずに済んだ礼にとバリキを喫茶室に誘ったのだ。と、相沢の顔から笑いが消えた。バリキが振り返ると柳沼とチームメイトが店に入ってくるところだった。
 バリキは目顔で出ようと合図を送ったが、柳沼が目敏く見付けて近付いてきた。
「松崎さん、今日はありがとうございました。伝説のシューティングガードと試合できるやなんて夢のようでしたわ」
 柳沼はバリキの脇に立つと見下ろすようにして言った。上背はバリキと同じくらいあるが腕や脚はバリキより細く全体的に華奢な印象である。顔立ちは女性と見紛うほど整っていて、流行りなのか顎に髭を生やしている。
「ま、えらいセコイ勝ち方されたのは残念でしたけど」
 後ろでチームメイトが笑い転げる。バリキは立ち上がると柳沼と同じ目線になった。
「勝手に勘違いして油断したんはそっちのミスや。ま、ルールブックはよく読むことやな。三秒ルールは2005年に改正された」
 言うだけ言うとバリキは相沢を促して席を離れようとした。
「いやちょっと待って下さいよ。俺らも伝説のシューティングガードと話してみたいし」
 センターをやっていたごつい男が揶揄するように言って通路を塞ぐ。
「俺は見せ(もん)やない」
「それに柳沼さんが、良えもん見せてくれるんですって」
 スモールフォワードがバリキの袖を引きながら言う。こいつは太鼓持ちか―へらへらした顔を見ながらバリキは思った。
「今度、柳沼さんお見合いしはるんですよ。相手はなんと、あの白澤商事のご令嬢や。ね、滅多にない機会や。ええとこのお嬢の顔拝ましてもらいましょうや」
 『興味ない』と言って腕を振り払って通り過ぎようとするバリキに柳沼が絡んだ。
「ま、遠慮せんと。今見とかんと一生見ることあらへんかもしれませんよ。なんせ、今まで財界のパーティーにも出たことがない深窓の令嬢らしいから」
 失礼なことを言いながら柳沼はスポーツバッグのポケットからスナップ写真を取り出すとバリキの鼻先にぬっと突き出した。顔を背けるのも子供染みているので渋々覗き込む。次の瞬間、バリキは息を呑んだ。
 写真の人物はバリキのよく知る女性だった。硬い表情でそこに写っていたのは―しのぶだった。
   ※
「だから私は言ってやったんですよ」
 十二月も半ば―今年も残すところあと僅かである。が、酔鏡のカウンターに漂う空気は十年一日の如く変わらない。客は今のところ、センセとバリキという異色の二人だけである。
「酢豚と餃子とどっちが好きかと訊かれて君ははっきりと答えられるのかね?と」
 言ってセンセは胸を張ったが、言われたバリキは言葉に窮しているようだ。
「あれえ、また変わったメンツで呑んではること」
 格子戸がからりと開いて吉田のおばちゃんが顔を出した。
「外まで聞こえたで、酢豚や餃子って、今日のテーマは中華か?」
 言いながらおばちゃんはホワイトボードを覗き込んで『あれえ?』と言った。

 お品書き
 あったかいもん

 ホワイトボードには達筆な字でそう書かれていた。

 

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