今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《3》

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「おばちゃん、ちゃうねんて。センセな今日、学校で失礼な質問されたんやて」
「え?なになに?」
 おばちゃんの頭の切り替えは速い。センセの隣にどっこいしょと言って座ると身を乗り出して尋ねる。
「研究室で娘達の写真を見せていたのです。そうしたら一人の学生が二人の容姿に魅了されたようで……。ま、それは無理からぬことなのですが、『先生はどちらのお嬢さんが好みなんですか』と愚かな質問をしてきたのです」
 苦々しい顔でセンセは言う。
「で?で?なんて答えはったんですか?」
 『はいどうぞ』と言わんばかりにバリキはセンセに手を差し出す。
「酢豚と餃子とどっちが好きかと訊かれて君ははっきりと答えられるのかね?と言ってやったんですよ」
 相変わらずセンセは娘のことになると見境がない。おばちゃんは『ええと』と言って頬を掻いた。
「一つ訊いて良いですか?」
 思い切ったようにおばちゃんは口を開く。
「どうぞ」
「それは、上のお嬢さんが酢豚で下のお嬢さんが餃子という……」
「それ、ツッコむとこかい」
「いや、大事なことやで。酢豚に喩えられるのはまだ堪えられるとして餃子はちょっと」
 おばちゃんの不毛なツッコミで座はいつものごとく収拾がつかなくなる。
「ほい、おまちど。(にら)雑炊や」
 タイミングを計ったように主人がバリキの前に料理を出した。
「へえ、一人鍋やん。贅沢やな」
 (した)(なめず)りせんばかりにおばちゃんが覗き込む。
「やらんぞ」
 撞木のように太い腕でガードしながらバリキは鍋にかかった。
「センセにはテールスープや」
「あ、それも美味しそう」
 危険を察知してセンセが皿をおばちゃんから遠ざける。
「おばちゃんは何にしはる?」
 主人に聞かれておばちゃんは迷わず『中華』と答えた。
「あと、紹興酒。うんと熱うして」
 準備運動のように巨体を揺すりながら言う。からりと音がしてユウやんがひょいと顔を覗かせた。
「あちゃ。やっぱり一番は無理やったか」
「ユウやんの頼むアテと一緒や」
 バリキが鍋から顔を上げて言った。
「甘過ぎやで」
 座は一気に賑やかになり、店も本格的に動き始めた塩梅(あんばい)である。
「ああっ、センセのしょうもない酢豚と餃子の話で忘れるとこやった」
 おばちゃんがいきなり大声を出す。
「しょうもないとはなんですか」
「えっ、なになに」
 ユウやんが聞きたがったがさすがに誰もその話を蒸し返す気はないらしい。『あとで、センセに聞いて』と一蹴された。
「一大事件やねん。なんと、しのぶちゃんに重大な秘密があってん」
 おばちゃんはワイドショーよろしく高らかに宣言した。バリキがすっと真顔になる。
「おばちゃん、ちょっとその話止めとかへん。人のプライベートをそれもその人がおらんところで喋るんは良うないで」
「ちょっとバリキ、何マジになってるん。単なるう、わ、さ。ホンマなわけないやん。深刻な話やったらあたしかて持ち出さへんわ。なんと、あのしのぶちゃんに……」
「ちょっと待ちて」
 バリキの制止も虚しくおばちゃんが先を続ける。
「不倫疑惑」
「だから止めときて…………。ええと、何それ?」
 バリキは自分の努力が空回りしていたことを悟った。
「相手はなんと職場の教授やねんて」
 今度はおばちゃんの逆隣でセンセがビールにむせた。
「ちょっ、ちょっと待って下さい。職場の教授って工藤先生のことですか?」
「ええと、確かそんな名前やった」
「その話の出元はどこなんです?」
 真顔になったセンセにたじろぎながらおばちゃんは『実はやね』と話しだした。
   ※
「ねえ、先輩聞かはりました」
「何を?」
 御崎先輩は目の前に出されたグラスワインに手を伸ばしながら訊いた。表情に乏しく、必要最低限の言葉でしか会話しないから知らない人が見ると不機嫌そうに見えるらしい。それで先輩は損をしていると佳代ちゃんは思った。
 三宮にある隠れ家的ダイニングバー。前からチェックしていて、今日思い切って先輩を誘ったのだ。やたら大きな声で喋っているおばちゃんがいたりしてちょっと騒がしいけれど、想像以上に料理もお酒も美味しいし、この店当たりやわ。佳代ちゃんは満足げにグラスを傾けた。
「工藤教授としのぶちゃんの噂です」
「あの二人がどうかした?」
「付き合ってるんちゃうかって」
「まさか」
 御崎先輩は馬鹿馬鹿しいと言いたげに肩を竦めた。
「でも、夜遅くに研究室に二人きりでいるのを何度も目撃されてるし、この前なんか、センター街を並んで歩いてるところを町田さんが見たって」
「たまたまでしょ。二人がどうこうと言う以前に、私はあの結城さんが恋愛してるところが想像つかない。あの娘の精神年齢ってたぶん外見通り中学生で止まってるわよ」
「うーん、確かに外見のこと言われたらこの衝撃的な噂も怪しくなるんですよね。今どき、銀縁メガネにポニーテール。顔なんかほとんどすっぴんやもんなあ。中学生の方がよっぽどお洒落ですよねえ」
 佳代ちゃんは赤ワインを舐めるように飲みながら考え込んだ。
「でもほら、工藤教授って前にも似たような噂がありましたやん」
 いつの間にか、後ろのテーブルの声の大きなおばちゃんが静かになっていることに佳代ちゃんは気付いていなかった。
「なあなあ、その話もうちょっと詳しく教えてくれへん」
 いきなり耳元でドスの利いた声を囁かれて佳代ちゃんは飛び上がった。
   ※
「というわけで、たまたまその店の後ろの席に座っとったんがしのぶちゃんの同僚やったというわけや」
「ま、噂やな」
 気を揉んだことが馬鹿馬鹿しくなって、バリキが投げやりに言った。
「言うか、その二人が言う通りやろ。あのしのぶちゃんが普通に恋愛してるいうのがわしもピンと来うへん。あの娘の相手が務まる相手はそうおらへんで、いろいろな意味で」
 ユウやんが失礼なことを言ったが、客達は深く頷いてしまう。
「しかし……」
 一人、センセだけが難しい顔をしていた。
「工藤教授は研究者としては尊敬に値する方です。反面、女性関係については……、こう言ってはなんだが、度々良くない噂の立つ人ではあるのです」
「その工藤教授って若いんか?」
 尋ねるユウやんの前に丼が出てくる。
「卵かけにゅうめん。ま、卵かけご飯のにゅうめんバージョンやと思うて。シンプルやけどクセになるで」
 さっそくユウやんは箸を割る。
「いえ、私より二歳年上で五十二歳だったと思います」
 ユウやんが盛大に麺にむせた。おばちゃんが『きちゃないなあ』と顔をしかめる。
「ちょっと待ちや。え?三十二歳年上で妻子持ち?……ないないない」
 バリキが顔の前で団扇のように手のひらを振る。
「けど、わからんで。最近は年の差婚が流行りやし。もしかしたら、しのぶちゃん極度のファザコンかもしれへんやん」
 おばちゃんは手の中の湯割りのグラスをじっと見詰めながらしんみりと呟いた。
「それ本気で言うてる?」
「いや、言うてみただけ」
 しれっと言って蓮華を取る。洋風仕立てのスープに浮かせた水餃子がいたく気に入った様子で既に丼の底が見え始めている。
 からり
 格子戸が開く音に客達は一斉に振り返った。
 師走の宵闇を背にして、厚手のボアのコートに身を包んだしのぶが立っていた。
「こんばんは」
 言いながら店に入ってくるなり、しのぶはカウンターに手を付いた。丸椅子に足をぶつけ、壁に寄り掛かり、どうも真っ直ぐに立てない様子だ。
「ちょ、ちょっとどないしたん」
 おばちゃんが素早く駆け寄る。おばちゃんの腕の中でしのぶは『ごめんなさい』と消え入りそうな声を出した。おばちゃんに支えられて手近な丸椅子に腰をおろす。カウンターに寄りかかって、
「あの、熱燗を……」
 と、(しわが)れた声で言うと、そのままカウンターに顔を埋めてしまった。
「ちょっと……、酒呑んでる場合か」
 バリキに言われて、顔をあげたしのぶを見て客達は息を呑んだ。目は半分眠ったように瞼がとろんと垂れ下がり、目の下に濃い隈ができている。艶やかな桜色の唇は無残にひび割れていて、頬の色も血の気が感じられない。
「悪いことは言わん。今日はこのまま帰り。おっちゃん、俺ちょっと送ってくるわ。また、戻ってくるから」
 言ってバリキは立ち上がった。
「いえ、一杯だけでも良いんです」
 頑なに言って、しのぶは肘で体を起こす。
「たぶん、私もうここには来れないと思うから……」
 初めて店に来た時、『私、二十歳です。だからお酒呑めます』―そう言ってしのぶはきっかりと主人を見詰めた。あの時と同じ強い眼差しを主人はその瞳に見た。
「はいよ」
 主人はいつもと変わらぬ声を張って棚から雪平鍋を下ろした。

 

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