今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《4》

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 からり
 格子戸が開いた。客達が振り返るとおよそこの店の客らしからぬ二人の男が立っていた。ダークグレーのスーツに暗褐色のタイ。服装は地味なサラリーマン風だが、まるでアクション映画の俳優のように纏う空気に隙がなさ過ぎる。二人とも筋肉質な体格で上背も平均以上はありそうだ。襟に白い菊を(かたど)ったバッチを付けているのが目を惹いた。そのバッチを目にした途端、しのぶの顔が引き攣った。
「お嬢様、申し訳ありませんが時間がございません。同行をお願いします」
 ノーフレームの眼鏡をかけた男がしのぶの背後に立つと慇懃に言った。もう一方の口の上に髭を生やした男は店の入口にじっと立っている。
「何度もお断りしているじゃないですか。私は白澤家とは一切無関係です」
 しのぶが素面の時にはかつて見せたことがないような大きな声を出した。そのままカウンターに手をついて立ち上がると男を押し退けて入口に向かおうとする。が、行く手を髭の男に阻まれた。
「来ていただきたいのです」
 髭の男の言葉はその慇懃さとは裏腹に有無を言わせぬ響きが籠もっていた。
 呆気に取られてそれを見ていた客達が一斉に騒ぎだした。
「ちょっと待ちや」
「その対応は乱暴が過ぎるでしょう」
「警察呼ぶで」
 口々に客達が言い募る中、バリキが髭の男の前に立った。
「この娘はいややというてる。そこをどいてくれへんか」
 しかし、男は微動だにしなかった。それどころか、バリキの方を見ようともせずしのぶの腕を取った。
「行きましょう」
 バリキの腕がぬっと伸びて、男の腕をしのぶから引き剥がした。男は初めてバリキの存在に気付いたように珍しい生き物でも見るような目でバリキを見遣った。が、次の瞬間の男の動きは神懸かり的に素早かった。男はバリキの脇をすり抜けざま身を反転させて背後に立つとやにわに羽交い締めにした。
「こら、離さんかい」
 バリキはさかんに身もがいたが、信じられないことに身動き取れないらしかった。
「しばらくのご辛抱を。お嬢様をお連れしたらすぐにこの手を離します。(さかき)
 男が顎をしゃくって合図すると眼鏡の男がしのぶの手を取って店を出ようとした。
「ちょっと待ち。あたしの目が黒いうちはこの店で勝手はさせへんで」
 まるで自分の店のような物言いで吠えて立ち上がると吉田のおばちゃんが榊に躍りかかる。
「失礼」
 榊はぬっと腕を突き出した。飛び掛かろうと勢いがついていたおばちゃんはいきなり目の前に出現した腕を避けきれず尻餅をつく。おばちゃんを見下ろしながら、榊は後ろ手で格子戸に手をかけた。
「ちょっと待ち」
 声のした方を見るとカウンターの中で腕組みをした主人が険しい顔で榊を睨んでいた。
「これは鏡子さんの差し金か」
 主人が静かに言った。
「答える必要はありません」
 榊がにべもなく言って肩を竦めた。
「俺の店でこれだけの騒ぎを起こしといてその言い草はなんや。ここの店主が訊いてるねん。答えんかい」
 腹の底から沸き上がるような声で主人は吠えた。
 からり
 格子戸が開いた。『あっ』榊が息を呑む声が聞こえた。榊を脇に押しやって一人の老婦人が店に入ってきた。
「何事ですか、この騒ぎは」
 彼女は男達を一喝した。バリキを押さえていた男が慌てて腕を離す。老婦人は吉田のおばちゃんに手を差し伸べて立ち上がらせた。
 それから彼女は主人に向き直ると深く腰を折って言った。
「伸一さん、ご無沙汰しております」
 主人は苦いものを口に含んだような顔になって、じっと老婦人の帯の結び目を見詰めていた。
「貴方のお店で数々のご無礼を働きましたこと、この者達に代わりお詫び申し上げます。けれど今は差し迫った状況なのです。ここは何もおっしゃらずにどうかしのぶを連れ帰らせて下さい」
 老婦人はまた深く腰を折る。
「頭上げて下さい、鏡子ちゃん。話もできへんやん。一つ訊いて良えかな。貴方がしようとしていることはしのぶちゃんのためになると思うて間違いないか?あの時の俺らみたいにその後の人生で悔やみ続けなあかんことやないと信じて良えか?」
 頭を上げた老婦人はきっかりと主人を見返した。
「はい」
 迷いのない声で彼女は答える。主人はじっと彼女の目を見ていたがやがて『わかった』と言った。それから店の端でゆらゆら体を揺らしながら立っているしのぶに向かって言った。
「しのぶちゃん。言いたいことはいろいろあるやろうけど、今日のところはお祖母さんと一緒に行き。あんた相当ひどい顔してるで。どっちにしても独り暮らしの部屋に戻って良えとは思えんわ」
 主人の言葉を聞きながらしのぶは壊れた人形のように首を横に振り続けた。
「いやです。その人は母を見捨てた人です。あんなに何度も何度も手紙を書いたのに一度だってお見舞いに来てくれなかった。母が臨終のときも枕元に私一人きりだった。亡くなる間際まであんなに会いたがっていたのに……」
 しのぶは強く唇を噛んだ。
「その人にとっては駆け落ちして勘当した娘は縁のない他人と同じなんです。死のうが生きようが何の関心もないんです。だったら、私だってその人とは縁もゆかりもない娘です。私、絶対に行きません」
「貴方何を言ってるの?」
 老婦人は厳しい顔つきでじっとしのぶを見詰めた。
「しのぶちゃん、気持ちはわかるけど今日は病院にでも行くつもりでお祖母さんと帰り。詳しいことはわからんけどこの人がこう言うんや。このまま自分の家に帰ったら良うないことがあるのは間違いない。その代わり……」
 主人は改めて老婦人に顔を向けた。
「このままでは済まさへんから」
 じっと彼女の目を見ながら主人は言った。
「鏡子ちゃん、ここにいてるお客さんはみんなしのぶちゃんのファンやねん。それだけやない、この一年で何がしか、しのぶちゃんの世話になった人ばっかりや。そやから、このままでは気持ちの収まりがつかん。それは俺も一緒や。その差し迫った問題が片付いたら早々に一度この店に来てきっちり説明して下さい。それから、しのぶちゃんはお母さんが亡くなってからずっと貴方にわだかまりを抱えてきたようや。差し支えなかったら、その席でこの人らにも立ち会ってもろて、とことん話し合って決着つけてほしい」
 老婦人は主人の言葉を吟味するように長く沈黙していたが、やおら『わかりました』と言った。しのぶは小さな子供のように首を振って嫌がっていたが、主人が再三宥めるとやがて諦めたように老婦人とともに店を後にした。
 店に残った常連達は気の抜けたようにぼんやりとしていた。口を開く者は誰もいない。新しく注文した料理や酒もあまり進んでいなかった。
「ご主人、何か事情をご存知なんですね。差し支えなかったら話してもらえませんか。このまま帰ったら今晩は眠れそうにない」
 センセがとうとうたまり兼ねたように切り出した。他の客達も目顔で頷く。
「さっきの人、どっかで見た気がすると思うたけど、白澤グループの総帥の奥さんやなかったか?確か、白澤……鏡子」
 ユウやんが(ぶり)大根を突つきながら言った。
「なんで、そんな雲の上のような人を知ってるん」
 吉田のおばちゃんが訊く。白澤グループは世界的に有名な総合商社白澤商事を中核とする日本有数の一大コンツェルンである。総帥の白澤龍一は経済界だけでなく政界にも強い影響力を持つと言われている。
「仕事がらみやて。知り合いの弁護士事務所のトラブル解決を手伝ったときに見た覚えがある。写真でやけどな」
「俺、この前見てん……」
 バリキは目の前のロールキャベツに箸もつけず言いあぐねていた。
「なになに?言いたいことがあったら言うた方が良えで」
「そやな……。この前、バスケの試合した時に相手チームのキャプテンが自慢げに見合い写真を見せて来よってん。その見合いの相手がな白澤商事のご令嬢で、そいつは逆玉の輿を自慢したかったみたいや。その写真に写ってたんがしのぶちゃんやってん」
「ちょっと待ち。話を整理すると、しのぶちゃんは白澤家のご令嬢で、白澤鏡子やったっけ?あのお婆ちゃんは、しのぶちゃんに見合いをさせるために連れ去ったいうことか?ちょっと大将どないなってるのん」
 吉田のおばちゃんが息巻く。
「いや、鏡子ちゃんがあそこまで言うねん。しのぶちゃんの意に反して無茶はせんはずや」
「えらい自信ありそうやけど、あれだけでかい組織になったら、総帥夫人であろうが、ご令嬢であろうが個人の意思なんて紙切れより軽いで」
 ユウやんが心配げな顔になる。
「すまんけど、今は俺を信じてくれとしかよう言わん。必ず近いうちに納得いく決着つけさしてもらうから」
 主人は険しい顔で唇を結んだ。が、また唇を緩めると
「まあ、このまま帰ってもろたら、お互いに気色悪うてかなわんわな。今日のところは俺と鏡子ちゃんの因縁話でも聞いてもらおか」
 思い切るようにそう言って主人は語り出した。

 

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