今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《5》

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「俺は生まれも育ちも神戸や。というかこの店が建ってる場所で育ってん。生まれたんは昭和十九年。で、家の近所に菊地さんいう大きな家があってそこに同い年の鏡子ちゃんいう女の子がおってん。経緯は忘れたけど、まだ三つ四つの頃にお袋に連れられてそこの家を訪ねて、その子の遊び相手になってやってくれて言われてん。鏡子ちゃんはその頃ちょっと体が弱かったから普通の子供みたいに外で遊べんかったみたいやな。俺にしてみたら女の子と遊ぶんは退屈以外の何者でもなかったけど、その家に行ったらお菓子がもらえる。ともかく年中お腹空かせてた時代やったから、どっちかというと俺の興味は鏡子ちゃんやのうてお菓子に集中しとったな」
 主人は何か思い出したらしく、低い声で笑った。
「鏡子ちゃんな、よう気のつく子やったんやけど、俺がいっつも『お菓子、お菓子』言うとったから勘違いしよってな。どうも俺が料理人かお菓子の職人になりたいんやと思い込んでたみたいや。ある日、大事なことを打ち明けるみたいにこう言いよってん」
 『なあ、大きくなったら一緒にお店しよ。お料理屋さんしよ』
「そのうち同じ小学校に入って、中学校に上がって、男子と女子やし普通は大きゅうなるうちに疎遠になっていくもんや。けど、よっぽど馬が合ったんかな。不思議と縁が切れることもなく、クラスが一緒になる、遠足の班が一緒になる、帰りが一緒になるねん。そしたらまあ何か喋るわな。それがどういうわけか料理のことばっかりやねんな。知らず知らずに俺自身、料理に興味を持つようになっとった。恋愛感情があったか言われてもピンと来ん。男子も女子もない、ただ気安い友達と喋ってるいうだけやった気がする」
 『ちょっとええかな』―そう断って主人はぐい呑みに生酒を注いだ。主人はぐっとそれを傾けて旨そうに呑んだ。客達は主人が酒を飲む姿を初めて見た気がした。
「鏡子ちゃんを見る目が変わったんは中三の時や。同じクラスに遠藤いうやつがおって仲が良かってんけど、そいつに訊かれてん」
『おまえ、菊地のことどう思うてるねん』
『どうもこうもないけど……』
『そやかて、一緒の班になったり一緒に帰ったりしてて仲良えやん』
『あんなんたまたまやん』
「そう言うたら遠藤、心底あきれ顔になって『おまえはホンマ鈍感やな』っていうねん。鏡子ちゃん友達に頭下げて班を替わってもらったり、お前がクラブ終わるまで寒い廊下でじっと待ってるねんで。クラスで知らんやつ、たぶんお前だけや」
 また一口酒を煽る。
「次の日からも俺は今まで通りに振る舞おうとしたけどどうもあかん。それからや、鏡子ちゃんのことを女子として意識し出したんは。そしたら、二人でお店持とういう話も俺の中でなんや現実味を帯びてきた。この娘と一緒に店持ったらこんな料理出して、店の内装はこんな風にして、って淡い夢描いたりしてな」
 想い出を語る主人は楽しげで、それを聴く酔客達もなんだか温かい料理を口にしている気分になった。
「その頃、二人で決めたルールがあってな。一日に料理を一品考えるいうルールや。前の晩、考えた料理を放課後に持ち寄って二人で吟味してノートに付けていくねん。もう、食糧事情もだいぶ良うなってたから休みの日に試作してみたりした。鏡子ちゃんは元々才能があったんやろな。俺が思いもよらん料理を次々考え付くねん。それが悔しくてあの頃は猛勉強したな。なんや笑えるやろ料理の猛勉強してる中学生って。で、鏡子ちゃんが知らんような料理を思い付いたときは勝った、って気分になるねん」
 笑いながら主人はまた酒を煽った。
「一日、一品言うても馬鹿にできへんで。二人おったら一年で七百三十品、その習慣は三年続いたからノートに書かれた料理は二千品を超えとった。高校に上がってからはもう一つ習慣が増えた。料理屋になるんやったらまずはいろんな料理の味を覚えなあかん。食べ歩きしたいけど資金がないやん。それで、五十円玉貯金というのをやってん。家の手伝いやアルバイトで稼いだお金の中から五十円をよけて二十枚貯まったら千円札に両替して料理を食べに行くねん。まあ、三カ月に一回くらいやったけどあの頃の千円って今の一万円くらいの値打ちがあったから結構なもんが食べられたで。しのぶちゃんが初めてこの店に来た時、受け取った千円札をしまおうとして、あの娘は財布に千円札一枚きりって言うてたけど、もしかして俺らと、土曜日のおじさんと同じようにしてその千円札は生まれたんちゃうやろかって、気になったなあ」
 ぐい飲みが空になった。主人が再び酒を注ぐ。
「高校二年の時、俺は鏡子ちゃんにプロポーズした『学校を卒業したら一緒に料理屋やろ』って言うてな。鏡子ちゃんはそれを受けてくれてんけど、そのすぐ後で状況が一変した。ある意味、おばちゃんとこと同じや」
 主人がおばちゃんを見遣る。薄々事情を察したおばちゃんは黙って頷いた。
「鏡子ちゃんの家は大きな事業をやってはってんけど、お兄さんがいてたし嫁にもろても差し支えないやろと俺は高をくくっとった。ところが、その事業自体が左前になってしもうて白澤商事からの支援を受けることになってん。ついては、両社の経営基盤を血族で固めるためにもその商社の若社長と縁組をいうわけや。あからさまな政略結婚やな」
 主人はまた生酒を煽った。
「鏡子ちゃんがご両親からそれを告げられた次の日のことはよう覚えてる。登校したらな、鏡子ちゃんが何も言わんと俺の袖引っ張るねん。その顔見てぎょっとしたで、一晩でお婆さんか幽霊にでもなったみたいにやつれ果ててるねん。そのまま校舎の裏に連れて行かれて、鏡子ちゃんはしゃくりあげながら延々と両親や兄貴への恨み言を繰り返しとった。慰めようもない言うか、俺の方が泣けてきたわ。何もした覚えがないのにある日目が覚めたら描いてた夢が幻に変わってたんやもん。思い詰めとったんやろな俺も。唯一、鏡子ちゃんを泣き止ませる方法はこれしかないと思うてそれを実行に移した。丁度、五十円玉預金は千円になったとこで懐はあったかかったし、鏡子ちゃん連れてそのまま逃げてん」
「なんか感覚がマヒしてる言うか……」
 ロールキャベツをあらかた平らげたバリキが自嘲気味に言った。
「しのぶちゃんの両親の話を聞いて、吉田のおばちゃんの話を聞いて、おっちゃんの話を聞いてると、駆け落ちって日常茶飯事な気がしてならんねんけど」
「いえ、明らかにそれは感覚がマヒしていますよ。私は自分の研究室の女子学生と結婚したのですが、最後まで怯まず彼女の両親を説得しました」
 思わぬところでセンセがカミングアウトして一同は仰け反る。ユウやんが『ま、センセの惚気話は置いといて先を聞かせてもらおか』と言って主人に話を戻した。
「いや、もうあんまり先はないねん。その夜、俺らは結ばれた―って綺麗な言葉やね」
「自分で言うて照れないな」
「けど、あれは鏡子ちゃんにしたら最後の想い出作りやったんやな。あの夜、鏡子ちゃんはもう覚悟を決めとった。自分の我が儘で家族を困らせることはできへんって。次の朝、起きた時には鏡子ちゃんは消えとった。俺の枕元には一枚の手紙と三年分のレシピを書いたノートだけが残っとった」
『あかぬ日のつひの別れぞ
わがふるき日のうた』
手紙には流麗な女文字で三好達治の詩が綴られていた。が、そのあちこちに落ちた滴がインクを滲ませているのが痛々しかった。
「次の日から鏡子ちゃんは学校に来んようになった。結局、俺が鏡子ちゃんに最後に会うたんはその駆け落ちの夜や。俺は高校を出て普通の会社に勤め出してんけど、両親が亡くなったのを潮に会社を辞めて家を改装して居酒屋を始めてん。それが『酔鏡』の始まりや。この店の料理の基礎は鏡子ちゃんと毎日二人で考えたその時のノートやねん」
「この店の名前の由来な、高校の頃に店持つんやったらこれが良いって俺がずっと言うてた名前やねん。鏡子ちゃんは恥ずかしいからいややって言うててんけど」
 『夢心地に鏡子に酔う店―酔鏡』
「店の由来は、『高校の時に初恋の人に振られて、一途な想いで独身を通した酔狂な美少年がやってる店』というのが正しい」
 言って主人はにっと笑った。
「二十年くらい前や。ある日いきなりその白澤家から人が来て、家捜しさせろと言い出した。こっちはわけがわからんやん。その人を宥めて事情を聞くと、一人娘が駆け落ちしたんやって。それでここで匿ってるんちゃうか言われて……、えらい濡れ衣やな。けどおかげで、涼子いう一人娘が生まれたこと、その娘が結城いう学生と駆け落ちしたことを知った」
 主人はバリキとセンセに向き直って言った。
「先月、しのぶちゃんの名字が結城やて分かった時は肝を冷やしたで。珍しい名前やもん。しかも、しのぶちゃんの両親も駆け落ちした言うてる。もしやって思うわな。そしたら、あの牡蠣のしぐれ煮の話や。あのオイスターソースのアイデアを考えたんは鏡子ちゃんや。しのぶちゃんのお母さんが作るしぐれ煮が同じ味やったということは、お母さんにその料理を教えたしのぶちゃんのお祖母さんというのは間違いなく鏡子ちゃんやと確信した。ということはしのぶちゃんの意志は置いといて、あの子は白澤グループ総帥の直系のご令嬢やと気付いた。いつか、今夜みたいなことがあるかもしれんとちょっと覚悟はしててん」
 主人はぐい飲みを傾けて生酒の残りを呑み干した。

 それから数日後、白澤鏡子から差し迫った状況は収拾が付いたと酔鏡に連絡があった。ついては過日の約束を果たすべく貴店に赴くので皆様のご都合を知らされたし―
主人が音頭を取って常連達の予定を摺り合わせ、十二月二十四日に日取りが決まった。そして当日、常連達に一通の電子メールが一斉に送信された。

 今宵、酔鏡にて
 結城しのぶさんと白澤家の確執につき決着を付ける由。
各位万障繰り合わせてご同席お願い申し上げます。

 

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