今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《6》

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 その日は三連休の最終日。明日は平日にも拘らず三宮や元町の繁華街はイヴの雰囲気を楽しむ人々でごった返していた。折しもエスニック料理が売りのチェーン店の居酒屋から二十人ばかりの客が繰り出してきて街路をひときわ賑わしている。
 そんな街の喧騒と同じ時間を共有しているとは信じ難い程、その店は神戸の片隅に静かに建っていた。
 『酔鏡』
 赤い提灯が灯り、墨痕鮮やかに店の名が浮かび上がる。店の格子戸には達筆な手で『本日貸切』と書かれた紙が貼られていた。店の前の路地、はるか東側の入口に小柄な人影が現れた。人影はかなり草臥(くたびれ)れた動きながら、それでも全力疾走してくる。トレードマークのパンチパーマから湯気を立てんばかりの疾走の末、ユウやんは真新しい格子戸に飛び付きざま引き開けた。
 からり
「すまん。遅うなってしもた」
 先客達が一斉に振り返る。バリキ、センセ、吉田のおばちゃんが固まって座っている。その集団から離れてL字カウンターの他方、その両隅に着物姿の白澤鏡子としのぶが座っていた。
「遅いやん、何しとったん」
 早速飛んでくるバリキの声にユウやんは片手拝みした。
「すまんすまん。ちょっと弁護士と打ち合わせ」
 事情を察してバリキもそれ以上何も言わなかった。
「ほな、始めさしてもらおか」
 主人が司会者のように宣言した。
「まず料理やけど、今日は喋ってもらうんが目的やから、俺のお任せでやらしてもらおうと思うてます。酒は適当に頼んで」
 主人の背後のホワイトボードには、

 お品書き
 大つごもり

 と、書かれてあった。
「まず、お付け出し。先月と被って悪いけど牡蠣のしぐれ煮を出さしてもらお」
 魔法のような手際で客達の前に小鉢と酒が並べられていく。『しのぶちゃんと鏡子ちゃんはお酒どないする?』と主人が訊くと二人とも黙って首を横に振ったのでほうじ茶が出された。料理は出揃ったが口火を切る者がおらず客達は皆押し黙ったままだった。心なしか店の明かりまで暗く感じられた。
「……ええと」
 ユウやんが緊張に堪えかねたような声を出す。
「このまま黙とっても始まらへんで。どう進めたら良えかようわからへんけど、とにかく何か喋らへん?それで……、何の話するんやったっけ?」
 皆がかくんとなる。
「先日の一件の真意も気になりますけど私としては何より、しのぶさんがお祖母さんに抱いているわだかまりを解くことを最優先にしたいのですが。あ、冷めないうちに食べましょう」
 そう言って、センセは率先して箸を割った。
「あたしも賛成や。この前、しのぶちゃんを連れ去ろうとした一件の真相がなんやったかなんて興味はない。知りたいのは今もこれからもしのぶちゃんに困ったことが起きへんかどうかその一点だけやし、それは後回しでも良え。まずは、しのぶちゃんがお祖母ちゃんを恨めしく思うてるお母さんとのことをすっきりさせてあげたいわ」
 おばちゃんがしぐれ煮を口に入れて目を瞠った。
「いやっ、このしぐれ煮上手に作ってはるわ」
 バリキやセンセはそっと鏡子の表情を盗み見たが、彼女は表情を変えることなく黙ってしぐれ煮に箸をつけていた。
「俺も基本的にセンセやおばちゃんの意見に賛成や。しのぶちゃんが不幸になるようなことがなかったらそれで良え。けど、一つだけ質問して良えかな。俺、しのぶちゃんが柳沼商事の御曹司と見合いするって聞いてんけどそれはしのぶちゃんも納得ずくのことか?」
 バリキが尋ねた。それまで無言で無表情だったしのぶの顔が一瞬強張った―ように見えた。
「何故、あなたがその話をご存知なの?」
 驚いたように鏡子が顔を上げて、値踏みするようにバリキを見詰めた。
「まあ、良いでしょう。いずれにしてもその話は終わったことです」
「ということは、なしになったんか?」
 バリキの問いに、この男は何を言っているのだと言わんばかりに鏡子は眉を上げた。
「いいえ。しのぶと柳沼さんとのお見合いは先週の日曜日に済んだと言っているのです」
 途端に座は騒然となった。あるいは捲くし立て、あるいは恐る恐る、質問の矢を飛ばす常連達と対照的に鏡子は泰然とほうじ茶を啜っていた。しのぶは表情を硬くして俯いたままだ。ひとしきり続いた矢継ぎ早の質問が収まると鏡子は湯飲みを置いて顔を上げた。
「お見合いの話は皆さんとの意見の相違とちょっとした誤解があるようですが、いずれにしても瑣末なことです」
 『瑣末なこと』という言葉に反応して客達がまた騒ぎ出す。
「いずれにしても物事には順序というものがあると思います」
 静かな口調にも拘らず鏡子の言葉には人を沈黙させる威厳が備わっていた。店の中はまた静かになった。
「まずは皆さんが仰るように、しのぶの私に対するわだかまりを解きたいと思うのですが、如何でしょう」
 常連達は不承不承という顔で頷いた。と、それまで俯いていたしのぶが跳ね起きるように顔を上げた。その顔を見た常連達はたじろいだ。いつもの楽しげな表情も、悪戯っぽい笑みも、そんなものは初めからなかったかのように消え失せて、ただ絶望的に暗い目が上目遣いにじっと客達を睨んでいた。
「わだかまりを解くってどういうことですか?何も知らないくせに。その人が母と私にどんな酷い仕打ちをしたのか、母が死んでから私がどんな気持ちで毎日過ごしてきたのか。何も知らないくせにいい加減なことを言わないで下さい」
 しのぶは肩を震わせた。その恨みがましい眼差しで見詰められると、まるで大人の理不尽な振る舞いに抑え付けられて、抗う術もなく、泣きながら身もがく幼女を見ているようで誰も何も言えなくなる。
「冷静におなりなさい。そんな物言いでは話し合いになりません」
 鏡子の言葉は老練な女教師が生徒に接するように冷徹に響いた。
「私は長く貴方のお母さんの死を知りませんでした。それを知った時はむしろなぜ知らせてくれなかったのかと貴方を恨めしく思ったものです。私が駆け落ちをした娘を許さなかったことを根に持って貴方がそんな仕打ちをしたのだろうと思っていました。けれど、先日こちらで貴方は何度も私に知らせたと言いました。私には何か行き違いがあるとしか思えないのです。でも、白澤家に来てから貴方は一切その話をしてくれないじゃありませんか。この方達の前なら話せるかしら。いったい何があったのか話してちょうだい」
 鏡子は出来の悪い生徒に接する教師さながら噛んで含めるように諭した。しのぶは唇を噛んで幼子が拗ねるように無言で鏡子を睨んでいたが、鏡子の冷徹な眼差しは怯まなかった。やがて、しのぶはしょんぼりと肩を落すと訥々(とつとつ)と話し始めた。
「父が地震で亡くなってから母は一人で私を育ててくれました。私、母が大好きでした。駄洒落好きで、とびっきりの美人なのに、こてこての関西弁を使うギャップが可愛くて、そしてどんなにつらいことがあっても私の前では笑ってた―そんな母が好きでした」
 しのぶは少し冷めたほうじ茶に初めて口をつけた。『煎れ替えよか?』と尋ねる主人の言葉にしのぶは首を横に振った。
「六年前、私が中学三年の秋に母は乳癌を患いました。すぐに病院に行ったのですけど、もう手遅れだって……」
 しのぶの声はか細く今にも消え入りそうだった。
「年が若いほど癌の進行は速いそうです。三十八歳だった母は日を追う毎に痩せていきました。母は譫言で何度もあなたの名前を呼んでいました。……私、なんとかして母にあなたを会わせてあげたかった」
 しのぶはまるで縋り付くように、両手で湯飲みをギュッと握っていた。
「今思うと、母はただあなたに会いたかったわけではなく、死期を悟って私の事を委ねるために会いたがっていたのかもしれません。最初は電話帳を調べて電話をかけました。どなたか男の方が出られたのですが、私がおどおどと話しているうちに間違い電話だと思われたみたいで、いきなり切られてしまいました。その頃の私は今以上に子供のような声だったので殊更にそう思われたのかもしれません。考えてみるとそれまで私は学校の友達以外の人、ましてや大人の人ときちんと話した経験がまるでなかったんです。慌てて二度、三度とかけるうちに声を覚えられてしまって、最初から険のある声で受け答えされるものだからますますパニックになって……。とうとう『これ以上しつこいと警察に通報する』とまで言われました。これはいけないと思って慌てて自分から切ってしまいました」
「それで手紙を書いたというわけか」
 バリキが尋ねるとしのぶは小さく頷いた。
「十二月に入って母の容体はいよいよいけなくなってきて、手紙なら確実にあなたに届くだろうと思ったんです。何度も何度も書き直してやっとあなたに手紙を出しました。だのに、三日待っても五日待っても何の連絡もなかった。もしかしたら事故か何かで手紙が届かなかったのかもしれない―そう思ってまた書きました。けれどやはり連絡はありませんでした。母の容体はますます悪くなる一方で焦ってまた電話したりしましたが、身構えてしまっていたからでしょう。相手が出たら自分でも何を喋っているのか分からず、気が付いたら受話器を置いている有り様でした」
「いっそ直接会いに行った方が早かったんちゃう」
 吉田のおばちゃんが言う。小鉢が空になったので次の料理が出されている。冬至かぼちゃに大根餅である。見慣れてはいるが、改めて見るとかぼちゃは橙色の果肉と緑の皮のコントラストが実に鮮やかである。大根餅もそのキツネ色が香ばしい香りをいっそう引き立たせていた。

 

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