今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《7》

「Gの書斎」に戻る


 

「お屋敷の前までは行きました。でも、それからどうしたら良いのか、何をどう話して良いのか分からず逃げ帰ってしまいました。あの頃の私は臆病で世間知らずの子供でした」
「いやいや、それはいくらなんでも人見知りが過ぎるんちゃう?お母さんが危ない時やねんで」
 呆れるおばちゃんの袖をユウやんが引いた。
「おばちゃん、首相官邸にアポなしで入って行く勇気あるか?」
「また大仰な譬えやな。そんなんあるわけないやないの」
「いや、あの邸はそういうとこやねんて。大のおとなでも足が竦むわ」
 ユウやんの言葉にしのぶは小さく溜息をついた。
「大きな門の前で竦んでしまった時、私は如何にそれまで母の厚い庇護に守られて育てられて来たかを思い知りました。その母の命の火が今にも消えようとしている。消えてしまったら私はこの世界でたった一人になってしまう。そう思うと心細くてたまりませんでした」
 しのぶの前にもかぼちゃと大根餅が並べられた。
「ちょっとでもええから食べた方が良えよ。冬至かぼちゃは風邪知らず言うて体に良えねん。相変わらず疲れた顔してるみたいやし」
 主人の言葉にしのぶは素直に頷いて箸を取った。
「母が亡くなる一週間前頃からは二日に一通は手紙を出していました」
 しのぶはまた鏡子を睨んだ。
「六年前の今日。十二月二十四日―クリスマスイヴの日に母は亡くなりました。母が息を引き取った時、枕元に居たのは私だけでした」
 真冬の早い夕暮れ時、病院の窓から差す光はたちまち頼りなくなり、窓の外は真っ暗になった。看護婦が誰か他に身内の方はいないのと気遣ってくれたが、しのぶは首を横に振るしかなかった。母があれほど会いたがった人はとうとう来てくれなかった。
 諸々の手続きをするためにしのぶは一度家に戻らなければならなかった。病院を出て駅に向かう道すがら、あちこちの家を飾る美しい電飾が目に入った。それはどこか遠い国の光景のようにしのぶの瞳には映った。
 連休明けの平日にも拘らず、地下鉄の中はイヴを三宮で過ごそうという人達で溢れ返っていた。華やかな洋服で着飾った恋人達、数名で固まってこれから会う女の子達の噂を大きな声で話す若い男の人達。しのぶは壁にもたれて虚ろな眼差しで楽しげな人達を眺めていた。五、六歳くらいの女の子が向かいの席に座っていた。女の子は両隣のお父さんとお母さんを代わる代わる見上げながら夢中で何か話していた。しのぶは血が滲むほど強く唇を噛んでそれを見ていた。
 電車が三宮に着いて、乗り換えのためにしのぶは街に出た。繁華街はイヴの雰囲気を楽しむ人々でごった返していた。折しもエスニック料理が売りのチェーン店の居酒屋から二十人ばかりの客が繰り出してきて街路をひときわ賑わしている。こんなに大勢の人が歩いているのに。何千何万という人がこの街にはいるのに。
 しのぶは一人ぼっちだった。
 そう思った途端、壊れた人形のように膝が崩れ、しのぶはその場にしゃがみ込むと声を上げて泣き出した。道行く人はあるいは好奇の目で薄笑いを浮かべながら眺め、あるいはイヴの雰囲気を損なう異物を見たように顔を背けて足早に通り過ぎた。皆、イヴの夜に煩わしい事になど巻き込まれたくはなかったのだろう。(つい)にしのぶに声を掛ける者や手を差し伸べる者は誰もいなかった。
 どれくらい時間が過ぎただろう。やおら、しのぶは立ち上がり、しゃくり上げながら歩き始めた。母と暮らした家に。もう誰もいなくなってしまったあの部屋に向かって。
「貴方が送ってくれた手紙には正直記憶がないの。御免なさいね」
 鏡子の声がしのぶを回想から呼び戻した。
「どんな封筒に入っていたのかしら。普通の茶封筒?」
 思いの外に柔らかな声で尋ねる祖母に戸惑いながらしのぶは答えた。
「いえ、初めてお祖母さんに送る手紙ですから精一杯可愛らしい封筒を選んだつもりです。雪の結晶模様をあしらった封筒や山小屋の外に雪だるまが立っているイラストの封筒に見覚えはありませんか?地の色は薄い青で雪だるまが立体的になっていて、とても特徴のある封筒だと思うんです」
 記憶を辿りながらしのぶは懸命に説明した。しかし鏡子は首を横に振って『ごめんなさい』というばかりだった。
「もしかして、あれちゃうか」
 焼酎の湯割に手を伸ばしながらバリキが言った。
「時々、ニュースになってるやん。配達のアルバイト君が寒くてしんどかったから言うて、配達をサボって手紙を自分の部屋に隠しとったとか」
 言われたしのぶは小首を傾げて考えたが、すぐに首を横に振った。
「私、本当に何通も送ったんです。それに十二月に入ってからイヴまでには三週間近い期間があります。そんな長い間、その地区の手紙が不達になったら大きなニュースになっていると思います」
 『そらそうか』と、首を振ってバリキはまた考え込んだ。
「ああっ」
 吉田のおばちゃんが出し抜けに大きな声を出した。皆がぎょっとした顔で振り返る。
「そういえばしのぶちゃん、自分は世間知らずの子供やったって言うてたよね。もしかして封書の料金が八十円に値上げされたことを知らんかったんちゃう?」
 どや?という顔で一同を見回す。しかし、しのぶは即座に首を横に振った。
「確かに封書の送料は昭和五十六年に六十円に、平成元年に消費税導入で六十二円に、平成六年に八十円に値上げされています」
 澱みなく答えるしのぶにおばちゃんは肩を落した。
「でも私はそれを知っていましたし、万一料金不足の手紙を出しても送り返されて来るか、相手局まで手紙が行っていれば宛て名の住所まで届けられて不足分が請求されます」
「そうなんや。けど相変わらずの博識やね。今すぐ郵便局の受け付けができるで」
 おばちゃんは『ええと』と呟いて、次の考えを巡らし始めた。
「先程から伺っているとしのぶさんの電話を受けた方は使用人、その対応と口調から推して恐らくは執事のような立場の方ではないでしょうか?」
 センセはワイングラスをカウンターに置きながら言った。折角のクリスマスだからと言って、しっかりしたボディーのチリ産ワインをボトルでオーダーしている。
「ええ、執事の青野だと思います」
「お話を伺っていると些か思い込みが激しく白澤家に入ってくるものに対して頑なな対応をとる方とお見受けしました。要は電話の場合と同じだったのではないでしょうか?手紙は届いていた。けれど、その青野さんが仕分ける際に勘当されたお嬢様の身内からの手紙と気付いて握り潰していたのです」
 センセは自分の説に頷きながらグラスを持ち上げた。本当は歩き回りたいところだが、鏡子に遠慮してその衝動を抑えているのかもしれない。
「それはあり得ません。青野はそのような出過ぎた真似をする男ではありません。そもそも差出人はしのぶになっていたのですよね」
 しのぶは小さく頷いた。
「青野は涼子の娘の名前を―結城しのぶという名前を存じません」
「ああっ」
 再度、おばちゃんが声を上げる。これにはさしもの鏡子もたじろいだ。
「仕分けで思い付いたんですけど、白澤グループの総帥のお屋敷やもん、仕事の手紙も届いたりするんちゃいます?」
 頷く鏡子に力を得ておばちゃんは続けた。
「それやな。しのぶちゃんの手紙は何かの手違いで業務用の方に仕分けられてしもたんや。それでお祖母ちゃんには届かんかったと」
「あのなあ、どこの世界に雪だるまや雪の結晶やて、そない可愛らしい封筒を使うた業務用の手紙があるねん」
 バリキがツッコむ。
「いや、意表をついて……」
 そんなところで意表をつく業者はたぶんいない。
「それに差出人はしのぶちゃんの個人名になっとったんやろ。却下や」
 おばちゃんは『うーん』と唸ってまた考え始めた。
「ちょっと良えかな」
 カウンターの向こうから主人が言った。
「今までの話をまとめると、どうもお宅までは手紙は届いとったみたいや。けど鏡子ちゃんは受け取ってないという。気い悪うせんと聞いてほしいねんけど、一人だけ手紙をなかったことにできるお人がいるんちゃうやろか」
 主人はじっと鏡子を見詰めた。
「夫の白澤龍一のことを仰っているのですね」
 鏡子は考え考え、言葉を選びながら語った。
「確かにあの人は世間から言われているように仕事の鬼です。でも涼子のことは溺愛しておりました。あの娘が駆け落ちした時、居所を調べもせず、強引に連れ戻しもせず、徹底的に無視したのはプライドのためではなく、あの娘をやはり愛していたからです。居所がわかれば白澤グループの総帥として跡取り娘を連れ戻さないわけにはいかなくなる。徹底的に無視することが、あの人のギリギリの妥協だったのでしょう。あの人は愛情は人の弱さだと考えている節があります。そして人に弱みを見せたがらない性分ですから愛し下手なのです。そんな人が娘の危篤を知って黙殺できるとは思えません。黙殺するメリットもありません」
 夫人がそう言うのであれば白澤龍一が手紙を握り潰したという線も薄そうに感じられた。
「あーもう、ほんま学習能力のない人らやな」
 突然、ユウやんがじれたような声を上げた。
「下手な推理をいくつ並べたって時間の無駄やと、この一年で学習せんかったんか。折角名探偵がいてるねん。その推理を聞くのが早道に決まってるやん」
「そもそも、そのしのぶちゃんがこの五年間答えを出せずじまいやからこうやって皆でああでもないこうでもないって考えてるんやんか」
 バリキの言葉をユウやんは手を振って否定する。
「それは、お祖母ちゃんが手紙を無視しとったという思い込みから推理を進めてなかっただけの話や。実はお祖母ちゃんの手に手紙が渡ってなかったという前提に立ったら必ず答えに辿り着くて」
「そらそうか。ほな、しのぶちゃん、メガネとポニーテールを解除したって。あ、その前に酒を呑まんとあかんのかな」
 この段階まで素面(しらふ)でいるしのぶを見たことがないからバリキも要領を得ない。
「どういうことです?」
 鏡子が怪訝そうな顔をした。バリキはしのぶが酒を飲むと急におどおどした性格が引っ込み、饒舌な関西弁に変わること、更に銀縁メガネを外し、ポニーテールを解くと容貌や仕種が二十歳の娘に変貌し物語に出てくる名探偵のような推理能力を発揮することを話した。
「今年の一月に初めてこの店に来た日から何べんも、お客が抱えて持て余してる謎を解かはったんですわ」
 バリキは我がことのように自慢げに語った。
が、それを聞いた鏡子の表情は急に険しいものに変わった。

 

「Gの書斎」に戻る
inserted by FC2 system