今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《8》

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「しのぶ、貴方はなんて軽率なことをしたのです」
 鏡子はしのぶを見据えると、あからさまな叱責口調で言い募った。
「その場の思い付きで滅多なことを人様に言うものではありません。貴方のその一言がその方の生活や人生を左右することもあるのですよ。ましてや情報の限られた居酒屋の世間話を基にして、したり顔で推理を巡らすなど以ての外です。その場で知られていない情報が貴方の推理を否定するかも知れないではないですか。酩酊した思考が論理を誤らせてしまうかも知れないではないですか。それを軽佻浮薄にも悦に入って探偵を気取るとは軽率以外の何者でもありません」
 しのぶは何か言い返しかけたが、今の言葉が余程堪えたのだろう。黙りこくって俯いた。
「しのぶさん。貴方が萎縮したり、気を咎める理由はどこにもありませんよ」
 不意にセンセが鏡子に負けず劣らぬ険しい口調でしのぶを励ました。それから鏡子に向き直ると真剣な眼差しを向けた。
「お言葉ですが少々勘違いをされておられるようです。しのぶさんは一度たりとも探偵を気取ったり推理を弄んだりしたことはありません。バリキの譬えも不味かったのですが、物語の探偵のように得々と推理を披露して悦に入ったこともありません。というより、しのぶさんにとって真相の究明はいつも二の次で本当に心に懸けておられたのはその謎を持て余している人の心の棘、屈託をどうしたら取り除けるかということでした。そして彼女は時に優しく、時に厳しく、それこそ全身全霊を懸けて、私達の心の中のわだかまりと真摯に向き合って下さったのです」
 客たちは口々に言い募った。
娘達の夢を素直に応援してやれない自分の背中を押してもらったことを。犯人の追求よりも弟が傷つきはしないかと気遣ってもらったことを。愛して止まない人の言動に深く傷ついた自分にそれは誤解だと心を解きほぐしてもらったことを。娘の臨終を悔やみ続けて前に進めないでいる男の背中を後押ししたことを。友人のためにすべきことを見誤って、道を外しかけた自分を(すく)ってくれたことを。
「しのぶちゃんの推理はいっつもただの方便やねん。真相に辿り着くためのもんやない。その人を済うためのもんやってん」
 主人が締め括るようにそう言った。鏡子は矢継ぎ早に語る客達の言葉よりも、その仕種や眼差しが懸命であり、必死であり、真剣であることに驚かされた。ひとつ大きく息を吸ってから鏡子は口を開いた。
「みなさん良い方ね」
 客達は初めて鏡子が笑みを浮かべるのを見た。常の厳しい顔付きからは想像し(にく)い、意外に可愛らしい笑顔だった。
「しのぶ、ごめんなさい。聞き齧った情報で当て推量をしたのは私の方でした。貴方はこの方達にとっても、このお店にとってもなくてはならないと思って頂けるだけの働きをしたようですね」
 居住まいを正すと鏡子は厳しい顔付きに戻った。
「手紙が私の手元に届かなかった真相は貴方の説明とこの方達の推理を聞くうちに私には解けました。それを説明するのはた易いことですが、この謎は貴方自身で解きなさい」
 鏡子はじっとしのぶを見詰めながら続けた。
「但し、お酒はなしで。メガネとポニーテールを外すのもなしです」
 それを聞いて客達はどよめいたが鏡子が『実は……』と切り出すとすぐに静かになった。
「しのぶにも、みなさんにも、今日ここに来た目的があると思うのですが、実は私にもあるのです」
 『それはしのぶのことです』と、鏡子は言った。
「先日、白澤家にしのぶを連れ帰って十日ばかり経ちます。その間私はしのぶを見ていて、これは普通ではないと思いました。振る舞いも話し方も考え方までまるで中学生のままなのです」
「そら、そちらのお屋敷に行ってからしのぶちゃんは一度も呑んでないやろうしな」
 バリキが率直な意見を述べた。
「そこです。先程、そちらの大きな方―バリキさんと呼ぶのね―の説明を伺ってようやく私も合点がいきました。みなさんも身の回りでそう言った経験はありませんか?お酒を呑んだ途端に人格が変貌してしまう人がいるのを」
「嫌になるほど、そういう奴を知っとるわ」
 ユウやんが笑った。
「服装や髪形が変わると口調や仕種が変わってしまうことがあるのを」
「それもあるな。特に女性に多い」
 吉田のおばちゃんが頷く。
「どちらがその方の本質かと問われれば私はどちらもだと答えます。そう言った一面も持ち合わせているというだけで、全部合わせて一つの人格だと思います。では、どちらがよりその方の自然体に近いかと言うと……」
「わしは、酒呑んでる時の方がその人の素が出てる気がするな」
「服装で言うと服飾品が少ない方が素が出やすい気がする」
 ユウやんとおばちゃんは口々に言ったが、何かに思い至ったように『あっ』と声を立てた。鏡子が大きく頷く。
「バリキさんは、まるでしのぶが変身するかのようにおっしゃいましたけど、私は逆だと考えています。お酒の力を借りて、服飾品を外すことでしのぶは本来の姿に戻っていたのだと思います。言い換えれば、しのぶの本来の姿はみなさんがごらんになった二十歳の娘の姿なのです」
 鏡子は立ち上がるとしのぶの隣の丸椅子に移った。そっと手を伸ばすとポニーテールを結っている桜色のリボンに触れてその感触を確かめた。
「これは涼子が使っていたものね。そのメガネも涼子に買ってもらった品じゃないかしら」
 しのぶは小さな子供のようにこくんと頷いた。
「貴方はこのリボンやメガネに守られて来たのね。これを身に着けていることで自分は一人じゃないと言い聞かせて」
 しのぶは唇を噛んで俯いた。
「でも逆にこのリボンやメガネに縛られてしまった。貴方自身が変わってはいけない。お母さんと別れた時から貴方が変わってしまったらリボンもメガネも効力を失くす。あの時の自分がもういないようにお母さんももういないと分かってしまう。自分が世界でひとりぼっちだと思い知らされてしまう。だから貴方は中学生さながらの姿から変わるわけにはいかなかった」
 バリキが抗議の声を上げようとしたがセンセが手で制した。客達と主人は固唾を呑んで二人を見守った。
「でもね。どんな姿をしていても、どんな口調でも、どんな仕種でも貴方は貴方よ」
 鏡子は両手でしのぶの手を握った。
「さあ解いてご覧なさい。ヒントは三つもある。白澤グループの中核をなす事業は何?お母さんが亡くなった時期はいつ?そして貴方が送ってくれた手紙の外観はどんなだった?もし解くことができたら、私が決して貴方やお母さんを見捨てたのではないことが分かる。貴方は決して独りぼっちじゃなかったことを知る」
 しのぶはそっと目を閉じた。長い睫毛が揺れて瞼が震えているのが分かる。眉間に皺が寄り、唇がへの字に結ばれた。やがて――固く結んだ唇が緩み瞼が開かれた。
「ごめんなさい。何も思い付きません」
 首を横に振るしのぶの肩を掴んで鏡子はその目を覗き込んだ。
「簡単に諦めない。意識を集中して、想像力をもっと働かせなさい。さあ、目を閉じて」
 再び鏡子に手を握られてしのぶは瞼を閉じた。
「ここは白澤家の居間です。今は2002年の十二月。さあ、貴方の手紙はどこ?」
 しのぶの睫毛が再び震えた。頬が二度、三度痙攣する。(うなじ)の上でポニーテールが揺れた。
 不意にしのぶの背筋がすっと伸びてその体が一回り大きくなったように見えた。その唇が緩やかな弧を描き笑みを作る。頬の桜色が濃くなる。そして―目尻から一筋透明な涙が頬を伝って落ちた。瞼が開かれ、二、三度瞬いてからしのぶは目の前の祖母をじっと見詰めた。
「おかえりなさい」
 この五年間、しのぶが誰かに言ってほしくてたまらなかった言葉を祖母は口にした。
「ただいま」
 言いたくてたまらなかった一言を口にするとしのぶはそのまま祖母にしがみついて泣いた。
「淋しい想いをさせてごめんなさい。つらかったよね」
そう言って鏡子はしのぶの肩をしっかりと抱き締めていた。

「今日のメインディッシュ。骨つきもものローストチキンや。クリスマスらしいやろ」
 主人が客達の前に大振りの皿を並べると歓声が上がった。キツネ色に皮がパリッと焼けた鶏肉にバターの香りが匂い立つソースがかかっている。上に散らした赤と緑のピーマンの微塵切りがクリスマスらしさを演出していた。
「いや、ほんまにこの料理が出せるか冷や冷やしたで。ま、俺は基本的に鏡子ちゃんもしのぶちゃんも信じてるから何とかなるとは思うてたけどな」
 主人の声も嬉しそうに響く。しのぶと鏡子は隅の席に並んで燗酒を呑んでいる。主人も今日は特別やと言って先程からぐい呑みをちょいちょい傾けながら仕事をしていた。しのぶは銀縁メガネにポニーテールのままだが声は低めのソプラノで大人の女性の声を響かせているので常連達にはまだしっくり来ないようだ。おどおどした素振りが陰をひそめたせいか、表情もしゃんとして年相応の面差しに見える。
 不意にしのぶは猪口をカウンターに置くと居住まいを正して鏡子に頭を下げた。
「ごめんなさい。わたしやっぱり子供でした。自分のことばかり考えていたから、見えるはずのものが見えていませんでした」
「いいえ。いずれにしてもあの頃の貴方では白澤の事情を察するのは難しかったのではないかしら」
 すっかり打ち解けた二人の会話に割って入るのは憚られると思ったのかユウやんが恐る恐る切り出す。
「あのう、毎度のことで申し訳ないんやけど、こっちにはさっぱり何のことかわからへんねん。解説してもらえんかなあ」
 それを聞いて鏡子としのぶは仲の良い姉妹のように肩を摺り合わせながら笑った。

 

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