今宵、酔鏡(すいきょう)にて
最終夜 今宵酔鏡にて
《9》

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「あたし前から思うてたけど、しのぶちゃんって時々めっちゃいけずやな」
 吉田のおばちゃんが拗ねたように言う。
「ごめんなさい」
 しのぶはまだ楽しげに笑いながら詫びた。ここ数週間の屈託がすっかり解けたようで、常連達は内心胸を撫で下ろしていた。
「白澤グループの中核をなしているのは総合商社の白澤商事です。商事会社の仕事は外国との貿易ですよね。ですから当然白澤グループも、その総帥である祖父も多くの外国の方と付き合いがあります。そしてわたしが手紙を送った時期は十二月。もしわたしが味気ない茶封筒にでも手紙を入れて送っていたら却って目立って気付いてもらえたかもしれません。けれど、わたしが送った手紙の外観はよりによって冬をイメージさせるグリーティングカード風のものばかりでした」
「あ、なるほどクリスマスカードですか」
 センセが手を打った。しのぶが頷く。
「祖父は世界的に有名な企業の総帥です。経済界、政界の著名人と多く交流があります。わたし達が元旦に年賀状を送るように、キリスト教圏の方なら当然クリスマスシーズンにはカードを送ってこられますよね。そういったカードは業務用の手紙ではありませんからプライベートの方に仕分けられます。恐らくは何千通というクリスマスカードの中にわたしが送った手紙は紛れてしまったんです」
「一つ貴方の推理を訂正しておきましょう」
 猪口を傾けながら鏡子が言った。
「何千通ではなく何万通です。毎年、申し訳ないと思っていますが、とても全部開封して読むわけにはいかず、差出人のリストだけ作らせているのです」
「では、今更ですが、その年のリストを調べればその何万人の中にしのぶさんの名前もあるのでしょうね」
 センセが感慨深げに言った。それからセンセは立ち上がるとカウンターを回り込んできてしのぶの前に立った。
「しのぶさんにお詫びをしなければならないことがあるのです。しのぶさんのお父さんが亡くなる原因を作ったのは私なんです」
 センセは深く腰を折った。
「どういうことでしょう」
「震災の年の一月、私の研究室でトラブルが起きて数学科から結城君に応援に来てもらっていました。結城君はうちの研究室の仕事を手伝っていて罹災したのです。申し訳ないことをしてしまいました」
 センセはなかなか頭を上げなかったのでしのぶはあたふたとした。
「いえ、それはセンセのせいじゃありません。誰も地震が来るなんて思っていませんでしたから」
 センセは頭を上げるとポケットから手帳を出してそこに挟んであった写真をカウンターに置いた。
「この写真どうされたんですか」
 しのぶが目を瞠った。そこには両親と赤ん坊のしのぶが写っていた。
「家内が白澤涼子さんと大学の同期なのです。同期生と連絡を取り合ったら、ご家族の写真を持っている方がいたので焼き増ししてもらいました。お持ち下さい」
「嬉しい。住んでいたアパートが燃えてしまったので子供の頃の写真が一枚もないんです。これ大事にします」
 しのぶは立ち上がってセンセに頭を下げた。
「ああっ」
 吉田のおばちゃんが本日三度めの大声を上げた。
「すっかり忘れとった。見合いの話はどうなったんですか?」
「そや、それが残っとった」
 バリキも鶏の骨を皿に戻して顔を上げる。
「ああ」
 鏡子はそんな話もありましたねと言わんばかりの気のない声を立てた。しのぶはなぜか怒ったような顔になりそっぽを向いた。
「十二月十六日は白澤商事の創立記念日で、午後にはごく限られた方達、けれど白澤にとって最重要の方達を内外から招いてパーティーを開きます。今年、しのぶは二十歳になったので白澤はそのパーティーに出席させてお披露目をすると言い出したのです」
「実は……」
 しのぶが鶏肉を皿に戻しておしぼりで手を拭きながら言った。
「十一月頃から、強引に白澤家に連れて行かれたことが何度かあったんです。仕事帰りに待ち伏せされて、屋敷に連れて行かれては写真を撮られたり、立ち居振る舞いを教え込まれたり」
 素面のしのぶでは太刀打ちできずになすがままになっていた可能性が高い。
「そう言えば、先月会うた時、なんやいろいろあって疲れてるて言うてたな」
 『ちょっといろいろあって疲れてますけど、若いですから』笑いながらしのぶが言っていたのをバリキは思い出した。
「そのパーティーはプライベートな集まりですが、その場で公表される事はごくオフィシャルな発表になります。そのパーティーでしのぶのお披露目を行うということは取りも直さず、この娘が白澤の後継者であると公言することになるのです。そうなればもう後戻りはできません。この娘の残りの人生は白澤のために捧げることになります。ゆくゆくは白澤が見込んだ男性をしのぶの壻に取るという話も持ち上がるでしょう」
 鏡子はカウンターの上で硬く拳を握った。
「冗談じゃない。可愛い孫を私と同じ目に遭わせてたまるもんですか。私は必ずしのぶを守ってみせると心に誓いました。ということで、同じ日にしのぶに見合いをさせることにしたのです。そうすればパーティーを欠席する言い訳が立ちますから」
 バリキが呑み掛けた焼酎をぶっと吹いた。
「ええと、お披露目とお見合いって、どっちも人生を決めてしまうような重大事やと思うんですけど」
 吉田のおばちゃんが恐る恐る言った。
「あら、お見合いは後で理由をつけてお断りすれば済む話じゃないですか。別に結婚式を挙げると言っているわけではないのですよ」
 鏡子は徳利の残りを猪口に注ぐと徳利を振ってお代わりを頼んだ。
「おい、四本目やなかったか?ということは、もう六合呑んだ勘定かい」
 バリキがユウやんに囁く。
「というか八合はいくつもりみたいやな。しのぶちゃんも大概強いけどレベルがちゃう」
 とユウやんも囁き返した。
「そういえばバリキさん、貴方、どうしてお見合いの話をご存知だったの」
 バリキは先日のバスケットボールの試合の話をした。
「貴方の目から見て柳沼さんはどんな方?」
「うーん。会社経営のことはさっぱりわかりませんけど、バスケに関しては小物ですわ。ラフプレーは一見ズルをして勝ちに行く手段のように見えるけど、実は仕掛ける側にメリットはほとんどないんです。つまらんミスを多発するし、仕掛けた方が大怪我することもある。何より相手チームとのコミュニケーションを最悪にします。商売でもあるんちゃいますか?商売相手の立場を無視して自分だけ儲けようとしたら却って商売が上手くいかんようになること。いずれにしても、試合の大局を見ることができる男には見えませんでした」
 鏡子は満足そうに頷いた。
「それを聞いて安心しました。私の見立ては間違ってなかったようです」
「どういうことです?」
「実はお披露目の噂を聞いて、既に気の早い方からお見合い話が何件か来ていたのです。人柄、経歴を調べさせて、その中で最も断り易い人物、言い換えると断っても白澤が納得するであろう最低の人物をピックアップしました。それが柳沼さんだったのです」
 『ひっどお』、おばちゃんが率直な意見を漏らす。
「酷くはありません。酷いのはしのぶがどんな娘か知りもしないで結婚を申し込む彼らの方でしょう。あからさまな政略結婚じゃないですか」
 いつの間にか見合いの話が、結婚を申し込む話や政略結婚を目論む話にすり変わっている。『別に結婚式を挙げるわけではないのよ』と言った舌の根も乾かないうちに―客達はそうツッコみたくてうずうずしたが、なんだか怖くて誰もツッコめなかった。
「昔、私は政略結婚に泣かされました。だったら今度は、政略結婚を孫娘を守る道具に使ってやると心に決めたのです」
「うわあ、なんやうちのおばあちゃん見てるみたいや」
 吉田のおばちゃんが鏡子の耳に届かないよう小声でぼそっと言った。
「しかし、今回は凌げたとしても又別の機会にお披露目をする話は浮上するでしょう」
 センセが心配そうに訊く。
「今回はあまりにも急だったので非常措置を打ったまでです。これから、時間をかけて白澤を説得します。それでも性懲りもなくお披露目をしようとするのなら別の手を打つまでです」
 鏡子は事も無げに言った。
「あの方はとても失礼です」
 いきなりしのぶがとんがった声を出した。
「どないしたんしのぶちゃん。そういえばさっきから怒ってるみたいやけど」
 ユウやんが鶏肉を片手に訊く。
「お見合いの日。顔合わせをした後、柳沼さんと二人でホテルの庭を歩きました。男の方と二人きりでそんな風に歩くのは初めてだったので、わたしとても緊張していました。そしたら急にあの方、『ごめんなさい。僕は君を愛せない』って仰ったんです」

 

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