今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第二夜 人魚姫の殺意
《1》

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『ぼくはなんてしあわせものだろう。もう決して見つけることができないと思っていたいのちのおんじんとこうしてめぐり会えたのだもの。ねえ、きみもぼくのことをいわってくれるだろう。だれよりもぼくのことを思ってくれるきみだもの』
 おうじさまのことばを聞いてにんぎょひめは、むねがつぶれそうになりました。それでもせいいっぱいのえがおでおうじさまにうなずいたのです。

 ずっとこのお話が嫌いだった。どうして人魚姫は笑ったりできたのだろう。大切な人が自分の許を去ろうとしているのに。
 どうして人魚姫は王子様を殺せなかったのだろう。彼は別の娘と結婚して自分は海の泡となってしまうのに。
 子供の頃から大嫌いだった『人魚のお姫様』の絵本。そのくせ、何度も何度も読み返して、とうにぼろぼろになってしまった絵本。 頬を涙が流れた。鼻がつんと熱く疼く。たまらず私は絵本を壁に投げつける。パサリと音を立てて絵本は口を開いたまま床に倒れ伏した。
 私だったら、迷わず王子様を殺す。愛が得られなかったからじゃない。王子様が別の娘を愛してしまったからじゃない。ひとりぼっちになるのが怖いからだ。
 のろのろと立ち上がる。夕闇が迫り始めた部屋を横切り壁際に落ちた絵本を拾い上げると胸に抱きしめた。
『ごめんね』
 腕の中のその大嫌いな宝物に心の中で詫びを告げた。かさりと絵本が音を立てた。

 遠くで教会の鐘が響く。四月に入って随分日の長くなった夕暮れの路地をユウやんはご機嫌な足どりで歩いていた。
「そやねん。てっきりハズした思うたら、枠番と馬番のマークシートこすり間違えとったいうわけや。お蔭さんでえらい金持ちになったわ。あ、ちょっと待って」
 尻のポケットで秋川雅史が朗々と歌いだす。
「……。おう、ご無沙汰やん。弥生ちゃん元気か?……。ええっ、十周年。そないなるか。いつやて?……。十一月かだいぶ先やな。よっしゃ空けとくわ」
 電話を切ったユウやんの足どりはますます弾んで見えた。前方に『酔鏡』の文字が浮かび上がる赤提灯が見え始める。ユウやんの足どりは心ならずも速まり……、並足から、駆け足へ、そして全力疾走にシフトチェンジする。
「ちょっ、ちょっと待てっ……」
 路地の反対側から巨体が走ってくる。さながら大映の看板映画、大魔神のようなシルエット。夕日を背にした大魔神は不敵な駿足で赤提灯に向かって疾駆してくる。ユウやんと酔鏡の距離はわずか二十メートル。倍の距離が開く大魔神は恐るるに足らないはずだった。
「いらっしゃい」
 主人が顔を上げるとバリキが巨体をぬっと滑らせて店の中に入ってきた。後ろ手に閉めた格子戸に誰かが飛びついたと見えてけたたましく硝子が音を立てた。
「こ、この
卑怯者(ひきょうもん)。わしの姿見てダッシュしよったやろ」
 格子戸を開けると息を切らせながらユウやんは抗議した。膝と肘に白く擦った痕があるのはゴール前で転倒したらしい。二十メートルのラストスパートには筆舌に尽くし難いドラマがあったようだ。
「ほい、一番ビールや。あんたらも飽きもせんとようやるこっちゃ」
 笑いながら主人はバリキの前にジョッキを置いた。主人の流儀で店の一番客の一杯目は主人の奢りだ。先陣争いの軍配が上がったバリキはご満悦でジョッキを傾けた。
「言うとくけど、あの転倒なしでも俺が勝ったで。ま、運動能力の差やな。普段からもっと鍛えた方がええて」
「やかぁし。大将、わしもビールな」
 バリキの隣にユウやんが座るやいなや目の前にジョッキが出される手際は相変わらずだ。
「今日の付け出しはちょっと変わってるで」
 二人の前に黒い小鉢が並べられる。大葉が一枚敷きつめられた上に白魚のような魚が載っている。色はごく薄い白で大葉と皿の黒地が透けて見える半透明だ。
「これ何?」
「のれそれ言うねん。あなごの稚魚やな。春らしいと思うて買ってきた。味は付いとるからそのまま食べて」
 ユウやんは珍しげに箸で掬い上げるようにしてぬらりとしたのれそれを啜った。
「こら、さっぱりしてて淡白やな。インパクトが強いわけやないけど付け出し向けや。どうも、最近胃の調子がようないらしくてな。時々痛むねん。こういう胃に優しい感じのアテがええなぁ」
「ええっ、ユウやん体悪いんか?病院行かなあかんやん」
 ビールを煽りかけたバリキはジョッキをカウンターに戻して真顔で振り返った。
「なにマジになってるねん。大したことあらへんて。多分、胃酸過多かなんかやろ」
「素人判断はあかんて。手遅れになったらどないするねん。酒呑んでる場合やないで」
「あのなあ。手遅れてなんやねん。ちょっと胃が痛いって世間話しただけやん」
 まるで二人の間合いを計ったように格子戸が開いた。差し込む夕日を背にしてひょろりと背の高い影が店の床に伸びた。
「こんばんは」
 ブリーフケースを脇に抱えたセンセが立っていた。今日はチェックのシャツにグレーのカーディガンを羽織っている。
「おう、センセええとこに来はったわ。大学病院とか顔広いやろ。ユウやん、胃が痛むらしいねん。誰ぞええ先生紹介したってや」
「それはいけませんね」
 センセはブリーフケースを脇に置いて座るなり心配げな顔でユウやんを見遣った。
「胃痛を馬鹿にしてはいけませんよ。ともかく検査だけでも受けた方が良いでしょう」
 言うなり携帯電話を取り出す。
「ちょ、ちょっと待ち。おちおち独り言も言われへんな。わし医者は嫌いやねん。医者にかかって病気になった友達何人も見てるで」
「病気になったんやのうて、病気が見つかったんやろうが」
 いつになくバリキは頑なだ。
「かなんなぁ。ほなセンセ、後でメール送ってや。気が向いたら行くさかいに。けど、注射はいややで。わし先端恐怖症やもん。あんなもん刺されるくらいやったら死んだ方が……」
「子供かい」
 バリキはあきれ顔でビールを煽った。
 三人連れのサラリーマンが店に入って来たのを潮に胃痛の話は収まった。
「いらっしゃい」
 格子戸が開いて今度は背広姿の二人連れが入ってきた。今日の酔鏡はなかなかに忙しい。
「釜井さん、こんなことしてたら又部長にどやされますよ」
 若い方の男が座りながら言う。
「構うか。今日は店じまいや。生二つな」
 釜井と呼ばれた男はふうっと太い息を吐いて背広のポケットから煙草を出すとくわえた。
既に呂律が怪しい。
「それよりさっきの道、ほんまに大丈夫か」
「大丈夫ですて。穴場ですわ。学生時代からいっぺんも捕まったことありませんから」
 若い方が黒いキーフォルダを振って見せる。
「すんませんけど、酒出せませんわ」
 ジョッキに注ぎかけたビールをシンクに捨てて主人が言った。
「運転してはるんやろ。危ないで」
 物言いは柔らかだが主人の言葉には有無をいわせない響きがあった。
「細かいこと言いなや。捕まるも、捕まらんもこっちの自己責任やねんから」
 釜井はへらへら笑って場を収めようとしたが却って場は白けきった。
 向こう正面の三人組は関わり合いを避けるようにことさら内輪話に熱を入れ始めた。主人はビールを注ごうとはしない。
「なんやこの店は客に酒出さんのかい」
 釜井が恫喝するような声で主人を睨んだ。
「大概にしとき。酒呑んで運転したら危ない言うてはるねん。筋通ってるやん」
 バリキが釜井の方を見ずにぼそりと言った。
「釜井さん出ましょ」
 若い方が釜井を促して席を立つ。
「ちょっと待ち。あんたも呑んで来はったんやろ。キーはこの店に預けて行きや」
バリキは若い男を睨んで言った。二人はバリキの巨体を見て怯んだが釜井は引っ込みが付かなくなったらしい。
「なめとんのか」
 バリキはぬっと立ち上がった。
「バリキ、なんぼなんでもやり過ぎやで」
 止めるユウやんに構わずバリキは釜井の傍らに歩み寄った。
「俺は暴力は嫌いや」
 釜井と対照的にバリキの声は静かだった。
「がっきゃ、やろゆうんかい」
 立ち上がりざま釜井は先手を取って右ストレートを繰り出す。意外に喧嘩慣れした動きで腰の入った重い拳に見えたが難なくバリキは掌底でそれをまともに受け止め、そのまま左手で手首を押さえ込んで関節を決めた。
「誰が喧嘩の話してるねん。呑んで運転したら立派な暴力になるやろ。俺はそういう自覚のない暴力が一番嫌いや」
 もがく釜井は十秒ともたなかった。
「わ、わかった。わかったから離してくれ」
「悪いこと言わんから今日は電車で帰れ」
 バリキは手を離すと静かに言った。若い男が縋り付くような声で「お勘定」と言う。それには及ばないと主人が言うとキーフォルダをカウンターに置いて釜井の背中を押すように店を出て行った。
「おっちゃん、すんませんでした。騒がしうして。俺、今日はこれで上がるわ」
 バリキは尻のポケットから折り畳んだ五千円札を出してカウンターに置いた。
「釣りはええです。そちらの方にも気い悪い思いさせてしもたから何か一杯呑んでもろて下さい」
 主人が何か言いかけた時、場違いなファンファーレのようにロッキーのテーマが響いた。
 バリキは主人を手で制して携帯を取り出す。
「もしもし。はあ……。学は弟ですけど。はあ……。はあ?傷害事件ってなんですのん」
 バリキの声が瞬時に強張り声が裏返った。
「み、身柄って……。すぐそっち行きますから話はそれからいうことで」
 慌ただしく電話を切ると。「すまん、また来る」と言い置いてバリキは店を飛び出した。

 

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