今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第二夜 人魚姫の殺意
《5》

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    学とバリキの前に黒色の四角い塊が入った小鉢が置かれた。
「チェダーボーダーや。アイルランドのチーズに黒ビールを練り込んだもんやな。少しずつ崩して食べて」
 さっそくバリキが箸を入れて口に運ぶ。
「お、こら良えわ。酸味と渋みのバランスが絶妙やん。それに少しずつ、箸で崩しながら舐めるように食べられるから長持ちしそうや」
「で、アクシデントというのは」
 続きが気になるセンセはタラの芽の天ぷらを口に運びながら急かせる。濃いめの天つゆで食べる一品は今月売り出しの甑倒(こしきだお)しによく合っているようだ。
「遥ちゃんのお婆さんの具合が悪くなってドタキャンされたんです。事情が事情だからしょうがないんですけど、テンション下がりまくってるとこへ、一人の子がハイヒールで来よってどないするねんって騒ぎになって、別の子はやっぱ虫がおるとこ行くのはいやや言い出すしまつで。とどめは時間を過ぎても佐橋が来なかったことですわ」
 言って学はウィスキーを煽った。
「そもそも佐橋が来ることが遥ちゃんから伝わってなかったらしくて、『全員揃たし行こか』言うところに俺と篠原が水差したみたいな感じになってテンションだだ下がり。みんな普段からは考えられんような早起きして出てきてるわけで気も立ってる。おまけに篠原が電話しても出ないし、『ほっといて行こ』言う雰囲気になったんですけど、俺なんかしっくりこなかったんです。金曜に呑んだ時の様子からしてもそんなええ加減なやつに思えないし。これ、異常事態ちゃうかって。で、後を篠原に任せてマンションに向かったんです」
「そしたら、佐橋君が倒れてたいうわけか」
「はい」
  *
「すみません。2609号の佐橋の友人なんですが連絡が取れないんです。オートロック開けてもらえませんでしょうか」
何か書き物をしていた初老の管理人が面倒臭そうに顔を上げた。
「両親か、親族の委任状持ってはりますか」
如何にも融通の利かなさそうな横柄な態度。
「そんなん持ってません。けど約束してたのに来なくて、もしかしたら中で倒れとるかも知れへんのです」
「あんたドラマの見過ぎやで」
無根拠な(いら)えを返して管理人は又俯いた。
「ほな、一緒に来て下さい」
「まだ巡回の時間やないからな。ここを動かれへんのや。次の巡回は十時やさかい待っとり」
下手に出ていた学もキレて強硬手段に出かかったが丁度その時、間の良いことにオートロックの中から小学生が飛び出してきた。機を逃さず中に飛び込む。
「こら、何しよるねん。不法侵入やぞ」
管理人の声を尻目に学はエレベータに飛び乗った。
佐橋の部屋のドアに手を掛けた時の感触を学ははっきり憶えている。ノブを回すとドアは何の抵抗もなく開いた。その日はハイキング日和の好天で九時を過ぎたその時刻には気温も上がっていたはずだ。にも関わらずドアを開いた瞬間、氷水の中に手を突っ込んでしまったように冷たい空気を感じた。三和土に入った瞬間、何故か身震いがした。
佐橋は玄関を入ってすぐ、リビングに続く廊下で頭をリビングの方に向けてうつ伏せに倒れているのが見えた。腹の辺りから血が床に広がっていて尋常ではない状況であることは一目瞭然だった。一階に戻ろうかと考えたが急を要することは明らかで、あの管理人と不毛な問答をしている場合ではないと考えた。
意を決して靴を脱ぐとリビングに入って警察に通報し救急車も頼んだ。受話器の指紋が気になったがどうせ金曜日にベタベタ付けまくっていたはずと自分を納得させた。警察を待つまで少し暇がある。電話の横のペン立てからボールペンを二本抜くと佐橋のところに引き返した。倒れている佐橋の脇にコンビニの袋が転がっていてどうも気になっていたのだ。ボールペンを突っ込んで中を覗いた。封の開いていない食パンと牛乳、濡れて袋にへばりついていたレシートを苦労して剥がし打刻を読んだ。その日の六時十分となっていた。そっとボールペンを抜く。遠くからサイレンが近づいてきた。
  *
「たいしたもんや。その状況でようそれだけ冷静に対応できたなぁ。さすが京大生、兄貴とは偉い違いや」
 筍の土佐煮を突つきながらユウやんが感心する。
「いえ、全然冷静じゃなかったです。袋覗いてたこともバレてえらい絞られたし」
「昔っからお前の悪いクセや。好奇心に負けてすぐいらんことに首突っ込むやろ。おとなしくパトカー待ってたらええやないか」
「けどなんでバレたんやろ」
「あの、もしかしてボールペンの先の方を突っ込まはったんとちゃいます?それやったらどない注意してもインクが付いた可能性がありますよ」
 猪口に酒を移しながらしのぶが言った。
「あっ」
「その袋に触った可能性のある人って四人しかいませんやん。お店の人と佐橋さんと犯人と学さん。お店の人と佐橋さんはボールペン突っ込むはずないですから、残るんは犯人か学さん。もしや犯人と学さんが同一人物ちゃうかと警察は疑ったんちゃいます?」
「なんや今日のしのぶちゃんまともやなぁ。しょうもない駄洒落が飛んで来るんちゃうかと身構えてるのに肩透かしばっかりや」
 ユウやんが呆れる。
「だから、スランプなんですて」
 しのぶが妙に残念がる。
「で、それからどうなったんです」
「犯行時刻は六時半から七時頃やったらしいです。直接教えてもろたわけやないんですけど、その時間帯中心にアリバイ聞かれましたから。俺も篠原も早起きの自信なかったから七時に駅前の喫茶店で待ち合わせて計画のおさらいしてたんですわ。それが証明されて無罪放免です」
「篠原さんの証言だけでは弱いでしょうけど店員の誰かが憶えていたんですかね」
「ん?ちょっと待ち。言うことは弟の無実を晴らすいうバリキの相談事はどうなるねん」
「あれ?」
 バリキが首を捻る。今頃になってようやく情報の整理ができたらしい。
「あれやないて。すんません粗忽な兄で」
「まあ、そない言いなや。俺も多少パニくってたし」
 多少ではないとバリキ以外の全員が考えた。
「けどせっかく集まってくれてるんやし、意見聞かせてくれへんやろか。学、他に何か情報持ってないんか?警察で聞いたこととか」
「あのなあ、『重要』が付いてないけど仮にも参考人やで。警察がほいほい手の内見せるはずないやろ」
 しのぶは猪口の酒を煽ると学に反論した。
「けど、普通何かあるんとちゃいます?その篠原さんのお父さんが実は府警の刑事さんやとか、佐橋さんのお父さんが警察に絶大な影響力があって『この事件は府警に任せとかれまへん。学はん、君の明晰な頭脳を見込んで正式に事件の解明を依頼しま。情報が必要やったらなんぼでも言うておくれやす』って言われたとか」
「それのどこが普通やねん」
 もはや、ユウやん以外誰も相手にしない。
「けど、話が進みませんやん。サスペンス劇場でもこないな地味な展開やったら視聴率取れませんよ。あっ、もっとええこと考えた」
 カウンターの面々は耳を塞ぎにかかった。
「遥さんは実は府警の新米刑事と付き合うてはるんですよ。男勝りで正義感の強い彼女はお尻に敷いている新米くんから強引に捜査情報を聞き出すんです。で、独自に捜査を始めるねんけど手詰まりになる。そこで、自分に気いのある京大生を巻き込んで打開を図るわけですわ。一人の女子大生を競り合ってええとこ見せようとする恋のライバル同士。揺れる女心。そこへ第二の事件が狙いすましたみたいに十時のCM前に起きるんですわ。学さん、心当たりあるでしょ?」
「ないない」
 今度も返事をしたのはユウやんだった。
 

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