今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第二夜 人魚姫の殺意
《7》

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  「状況を考えるとこの事件の犯人って、とても限定されると思うんです。そういう意味ではマスターの篠原さん犯人説はひとつ大事な条件が合わないので違っていると思います」
「大事な条件というのは何ですか?」
 センセがグラスを脇に置いて本腰を入れて聴く態勢に入る。
「犯人は部屋のスペアキーを持っていると思うんです。でも、佐橋さんにとって篠原さんが初対面だとしたらスペアキーを渡しているはずがありませんよね」
「どうして、スペアキーを持っていると思うのですか?」
「佐橋さんが刺された場所が玄関を入ってすぐのところだったから。もし部屋の外で待ち伏せして佐橋さんと一緒に部屋に入ったのなら、それからキッチンまで包丁を取りに行かなければなりません。その間家の主の佐橋さんが玄関で立ち続けているというのは不自然ですよね。この場合、もっと部屋の奥が犯行現場になると思います。玄関で佐橋さんを刺すには先に部屋に入って包丁を持ってきて待ち伏せている必要があるんです」
「他の部屋で刺して玄関まで運んだいうことは……、ま、その出血量ではすぐバレるか」
 ユウやんが自己完結する。
「たぶん、佐橋さんがそんな朝早くからコンビニに行かなかったら起こった出来事は全然違ったんじゃないかなってわたし思うんです。でも、佐橋さんのその行動が犯人を限定することにもなりました」
「あいつ律儀そうっすからね。きっと朝飯の食パンが切れてるのに気付いて買いに行ったんじゃないかな。ただでさえ早起きせんとあかんねんから朝飯くらい抜いても良さそうなもんやのに」
「で、しのぶちゃんはスペアキーの持ち主に心当たりがあるんか?」
 ユウやんが山菜の変わり種を注文しながら尋ねた。
「推理する拠り処が少なくてあまり自信はないのですけど……」
 言い迷うように唇をキュッと窄める。
「まあええやん。言うてみ」
「その人は佐橋さんと同棲されていた女性じゃないかと思うんです」
「ぶっ」
 バリキと学の兄弟が盛大にウィスキーを吹いた。
「なんすかそれ?言うたら悪いけどお友達を作るのにも苦労してるような奴っすよ」
「でも、男女の仲はまた別だとわたし思うんです」
「その拠り処とやらを教えて下さいな」
 センセが執り成すように尋ねた。
「引っ越しましたの葉書。ピザの注文。赤い歯ブラシです」
「お前、わかるか?」
 バリキが学の肘を突つく。
「いや、さっぱり」
 しのぶは猪口をくっと傾けて燗酒を煽ってから先を続けた。
「あの転居案内の葉書は学科全員の方に届いたんですよね。学さんの学科は何人いらっしゃるんでしょう?」
「たしか……、四十五、六人だったと思います」
「ピザの注文をしたとき佐橋さんは住所のメモを見ながら電話をして『まだ、住所が憶えられない』っておっしゃったんですよね。わたし、あれれ?って思ったんです。佐橋さんは四十枚以上の葉書に手書きで新しい住所を書かれたはずです。いやでも住所を憶えてしまうんじゃないかしらって。ましてや難関の入試をパスされた方ですから」
 言葉を切ってしのぶはまた一口酒を呑む。
「わたし、その葉書の表書きをした人は佐橋さんじゃないと思うんです。誰か、四十枚以上もの葉書を厭わずに代筆してくれる身近な方がいらっしゃったんじゃないでしょうか。ただ、ご家族の方ではありませんよね。引っ越し自体ご存じなかったみたいですから」
「それって……」
 口ごもる学にしのぶは頷いた。
「学さんが歯ブラシの話をされた時もわたし、あれ?って思いました。空っぽのゴミ箱に赤い歯ブラシがひとつ転がっているだけっておかしいですよね」
「そ、そうすか?」
 学は完全にしのぶのペースに嵌まっている。
「佐橋さんが説明された通りのことを頭の中でなぞると、やっぱりおかしいです」
 徳利から猪口に燗酒を移し、猪口をその小さな唇に当てて酒が流し込まれる。小さな喉が小気味良く動く。その一連の美しい動作に学は見とれてしまった。
「まず、空っぽのゴミ箱があります。佐橋さんが赤色の歯ブラシを下ろします。歯ブラシが入っていたケースがゴミ箱に捨てられます。学さん達が見たときには歯ブラシしかなかったので、赤い歯ブラシを捨てるまでにゴミの日が来たのでしょう。ケースはゴミの収集に出されてもう一度ゴミ箱は空になります」
 また一口、燗酒がしのぶの喉を通過する。
「佐橋さんは何度か使う内に赤い歯ブラシが気に入らなくなって捨ててしまいます。そして、今度は緑色の歯ブラシを下ろして使い始めます。だとすると、ゴミ箱の中に足りないものがありますよね」
「緑色の歯ブラシのケースがないな」
 ユウやんの言葉にしのぶが頷いた。
「学さん達がご覧になった状態にゴミ箱がなるのは、二本の歯ブラシが一緒に下ろされてケースが二個捨てられ、ゴミの収集日にケースを出した後で赤色の歯ブラシだけが捨てられた時です。だから、元々歯ブラシは二本並んでいたんじゃないかなと思うんです。きっと、佐橋さんの代筆をされた方は歯ブラシを仲良く二本並べるような生活をともにされていたんじゃないでしょうか」
「女やな」
 呟くユウやんの前に白い鉢が置かれる。拍子木に切った野草の茎に濃い緑の粒が塗されている。
独活(うど)の木の芽和えや。相当クセがあるから、好き嫌いも分かれるとこやけど、ユウやんは気に入るんちゃうかなて思うてるねん」
 主人の説明を聞きながらユウやんは独特の香りのする木の芽和えを箸で摘んだ。口に入れると清涼感のある奇妙な香りが口一杯に広がって目を丸くする。
「うわっ、変わっとるな。ハッカとも違うけどすうすうしよる。確かに好き嫌い分かれそうな味や」
 言いながらユウやんはクセになったようで、焼酎との相性を楽しむように交互に口に運ぶ。
「それで、別れ話が拗れて傷害事件に発展したというわけですか」
 センセの前には大振りの碗にあさりの潮汁が出された。あさりとしめじ、白葱で出汁を取って塩と酒だけで味付けしたシンプルな椀物だが、味のごまかしが利かない分、素材の吟味が腕の見せ所になると主人が自慢する。一口飲むと海の強い香りが口中に広がってなんとも贅沢な気分になった。
「口に入れる歯ブラシをゴミ箱に捨てるというのは、もう使わないというサインです。だから、二人が別れてしまったか、佐橋さんは別れるつもりなんじゃないかと想像するのが普通だと思います」
 しのぶの言葉を聞きながら学は手の中でショットグラスを弄んだ。
「なんか切ないっすね。葉書四十枚以上代筆するって、並大抵の想いじゃないのに……。きっと尽くすタイプの娘やろうになんで別れるかなぁ」
「でも、本当はそうじゃなかったら良いなあってわたし思うんです。ここからは、ホントにわたしの空想なんですけど別の可能性をもう少し話してみても良いですか?」
「ぜひ、聴きたいっす」
「金曜の夜に突然篠原さんから電話があって今から行くと言われた時、佐橋さんはとても慌てました。その女性はたまたま居合わせていなかったけれど、部屋の端々に彼女の足跡が残っています。彼女の私物をいっさいがっさい放り込んで鍵をかけたのが即席の開かずの間です。佐橋さんにしてみれば、初めて訪ねて来るクラスメートに実は女の人と暮らしているって知られるのはバツが悪くて何としても避けたかった。けれど時間があまりにも短過ぎて仕舞い忘れた物もありました。歯ブラシだけじゃなくて、その気になればもっと変なものが見つかったかもしれません」
 少し考え込むようにしのぶは黙ってから、やおら言葉を続けた。
「ピザの注文をするために住所のメモを取りに行って歯ブラシに気付いた佐橋さんは慌てて彼女の方を深い考えもなしにゴミ箱に捨ててしまった」
 心なしか猪口を持つしのぶの手に力が入る。
「日曜の朝、彼女は佐橋さんがコンビニに行っている間に戻ってきて部屋の有り様に驚きます。自分の痕跡が悉く消されていることを知ってパニックになってしまいます。起きてしまった事件から逆説的に考えると二人の関係があまり巧くいっていなかったか、彼女の気持ちに余裕がなかったことが窺えます。でなければいきなり問答無用で刺すというのは極端過ぎますよね。わたし、なんとなくダメを押してしまったのが、そのゴミ箱の中で一つぽつんと転がっていた歯ブラシのような気がしてたまらないなあって思いました」
「確かに、不安でいっぱいいっぱいなところで見せられるには切ない光景やな」
 バリキがウィスキーを煽る。
「もし本当に二人が喧嘩していたり別れようとしていたわけじゃなくて、わたしが想像したみたいな行き違いがあっただけだとしたら、日曜の朝、二人はなんて間の悪いすれ違いをしちゃったんだろうって思います。もし、佐橋さんがコンビニに出掛けていなければ、あるいは彼女が来るのがもう少し遅ければ、佐橋さんが状況を説明して全部笑い話になったはずなのに……」
 しのぶは徳利の残りを猪口に移して一息に煽った。酒を飲み干してから、その小さな唇の端が笑まし気にあがる。
「でも、もしわたしの想像が当たっていたら佐橋さんが亡くならなかったことは本当に不幸中の幸いだったと思います。だって仲直りをするチャンスが残されたんですから。穿った考え方をすると、佐橋さんが事件のことを憶えていないって警察に説明しているのも、彼女を庇ってあげているのかもしれません。佐橋さんは彼女と仲直りをしたがってるんじゃないかなって、そう考えると少しだけ気持ちが温かくなります」
 しのぶは徳利を差し出して主人にお代わりを頼んだ。
「ま、あとは警察があんじょうやってくれる話やろうけど、呑み屋の話としては今のしのぶちゃんの説が一番気持ちがええな」
 ユウやんはいいながら、カウンターを回ってメガネとリボンを返した。
「しっかし、一月の時はたまたまか思うたけどそのメガネとポニーテールって、どないな仕掛けになってるんやろな。何かのスイッチみたいやで」
「わたしにもよく分からないんです。独り暮らしだから家では確かめようがないし、出掛けるときはメガネもポニーテールも外しませんし。でも、メガネを外すと亡くなった父が、ポニーテールを外すと亡くなった母が、わたしの中に入ってくるみたいです。こんな考え方って変でしょうか?」
「いや変でしょうかって言われても、乙女チック過ぎて返事に困るけど」
「あの」
 ウィスキーを空にした学がいきなり立ち上がった。
「いろいろありがとうございました。それにいろいろ失礼なこと言うてすみませんでした。正直何も期待してなかったし、ただの飲み会のつもりで来たんですけど、なんか気持ちが吹っ切れたというか、めっちゃすっきりした気分です。来て良かったってほんと思います」
 そう言って学は几帳面にお辞儀をした。そろそろ京都に戻らないといけない時間だという。
「あの、さっきの葉書は警察に見せた方が良いですよね。しのぶさんの推理の通りやったら指紋が残っているかもしれないし」
 ふと気付いたように学は言った。しのぶはちょっと小首を傾げながら「ええ、そうですね」と答えた。カウンターの面々と挨拶を交わして駅まで送ってくるというバリキと一緒に学は酔鏡を後にした。
 

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