今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第二夜 人魚姫の殺意
《8》

「Gの書斎」に戻る


 
「ええ店やろ」
 春の夜風が心地好く二人の頬を撫でていく。
「ああ」
「ええ店の必須条件は三つあるて先輩に教わったことがある。『ええ店主』、『ええ常連』、『旨い酒と肴』や。けど、俺はもう一つ条件がいるんちゃうかて気がしてる。『気持ちのええおしゃべり』や。愚痴や人の悪口で呑む酒くらいまずいもんはないで」
「そやな」
 心地好いとはいえ四月の夜はまだ肌寒い。バリキは大型犬が毛に付いた水を振るい落とすように大きく身震いをした。
「遥ちゃんて、ええ()なんやろ」
 また唐突に切り出す。学は鬱陶し気な顔をしてそっぽを向こうとした。が、思い直したように話しだした。バリキの方は向かず目はじっと遠くに見える駅舎を見据えている。
「姐御肌つうのかな。グループができるとすぐリーダーに担ぎ上げられるタイプやねん。頼られるとイヤとよう言えんらしいねんな。家の事情がややこしくてな、小六の時に母親が男作って蒸発したんやて。それがトラウマになってるんかもしれん。大勢の友達に囲まれてても独りぼっちで取り残されるんちゃうかっていっつも顔に出てるんやわ」
「うちも親が早うに死んだし、なんとなく惹かれる理由もわかるけどな」
 ウィスキーの酔いをほぐすようにバリキは腕をぐるぐる回しながらのんびりと言った。
「思い込みの激しいとこもあるし、気持ちに余裕がないやっちゃなぁてしょっちゅう感じるけどなんかほっとかれへんねん」
 二人は黙って駅の階段を上がっていく。九時を過ぎた改札はそれでも帰宅を急ぐ人々で賑わっていた。自動改札を通り過ぎたところで学は振り返った。そこだけ時間を止めたかのように彫像のようなバリキの体躯が立ち尽くしていた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとうな」
 言って学は背を向けるとホームへの階段を駆け上がって行った。

「あれ、なんでまだメガネ外してるん?」
 バリキが店に戻るとしのぶは髪もメガネも戻さずに猪口を傾けていた。
「何か続きの話があるそうですよ。で、武装解除せずにバリキが帰ってくるのを待っていたのです」
「ホントは憶測で話すことではないとわかってはいるんです」
 言い訳するように猪口を見つめながらしのぶは言った。
「でも、あの葉書を学さんが警察に持って行くとおっしゃったのでやっぱり言うだけ言った方がいいかなって」
「なんやろ?」
 バリキがユウやんの隣に座りながら訊いた。
「一つ気になっていることがあるんです。どうして日曜のそんな朝早い時間に彼女はやって来たんだろうって。普通、まだ寝ているか起きたばかりの時間ですよね」
「付き合うとったんが水商売関係やったんちゃうか?やったら丁度ご帰宅の時間やろ」
「わたしもそうかなと思ったんですけど何だかしっくりこないんです。佐橋さんと彼女―Aさんと呼びますね。Aさんがどんなきっかけで知り合ったのかは分かりません。でも、二人が惹かれ合った理由は少し想像できます。佐橋さんはご家族の中で孤立していて、たとえそれが思い込みであるにせよ何年も孤独を味わって暮らしてきました。Aさんも佐橋さんを刺してしまった状況から見ると、今まで尽くしてきたことに対する裏切りを恨んだというよりはパニックを起こして衝動的に刺してしまったという印象が強いです。まるで独りぼっちにされるのを怯えたみたいに。ですから、二人が惹かれ合ったのは孤独を癒すためというか、独りぼっちから逃げ出したいという想いが気持ちの底にあったんじゃないかなって思うんです」
「水商売の女にはそぐわん言うんか?そら偏見やと思うで」
「いえそういうことではなくて、佐橋さんは模範的な学生で授業をずる休みすることもないと学さん仰ってましたよね。だったら生活のリズムは朝起きて昼間は学校に行ってマンションにはいません。夕方、マンションに帰ってくる頃、Aさんが水商売をされているとしたらそろそろ出勤時間です。そして帰ってくるのは明け方。もしお二人が独りぼっちになりたくないからと暮らし始めたのだとしたら擦れ違ってばかりのその生活って変ですよね。だからわたし、Aさんは佐橋さんと同じ生活のリズム―朝起きて、昼間活動して、夜には家にいるという生活をしているんじゃないかなと思うんです」
 しのぶの前には黒い小鉢にじゃこをぬらっとさせたような魚が盛られている。のれそれ同様高知の名産でドロメと呼ばれるらしい。こちらはクチコイワシの稚魚で口一杯に海の香りが楽しめる。
「春はやっぱり魚と野菜が楽しいと俺は思うで」
 主人は六甲の水を啜りながら得意気に説明した。
「そうすると日曜の朝、六時過ぎというのはやっぱり早過ぎます。もしかしたら、どうしても急用があって朝の六時過ぎから来られただけかもしれません。可能性の問題として論ずるならそれは否定できない一つの可能性です。でも、同じ可能性というならもう一つの可能性の方がわたしは気になるんです」
「もう一つ?」
 おうむ返しするバリキを見つめてしのぶは頷いた。
「朝早くに行かないと佐橋さんが出かけてしまうことをAさんが知っていたという可能性です」
 しのぶは話を切って猪口を口に運んだ。
「もしも佐橋さんがハイキングに参加することを知っていたとしたら日曜の訪問には特別な意味があったんじゃないでしょうか?」
「『あたしというもんがありながら、別の娘と遊びに行くんかい』ってねじ込みに来たんか?けど、それやったら佐橋が遊びに行くて話を聞いてすぐに電話掛けるんが普通やろ」
 ユウやんの言葉にしのぶは楽しそうに笑って首を横に振った。
「その逆です。佐橋さんがハイキングに参加すると決めたのは前日の土曜日、それを人伝てに聞いたとしたらAさんはそのハイキングの関係者です」
 男たちにもしのぶの言うAさんが誰なのか想像できた。
「佐橋さんが参加すると知ってAさんは一つの計画を膨らませます。明日の朝、いきなり訪ねて行って佐橋君を驚かせてやろう。実は私もそのハイキングに参加すると知ったら彼はびっくりするだろうな。それから二人で一緒に待ち合わせ場所に出掛けよう。彼の手を離したくなかったAさんはこれを機会に交際宣言してしまって揺るぎない二人の仲を築きたかったんじゃないでしょうか?」
 瞳の中に星を飛ばさんばかりに瞬きながらしのぶは胸の前で手を組んでうっとりと口元を緩めた。
「些か、乙女チックな妄想が暴走していて……いや、失礼」
 不本意な駄洒落を口にしたことを恥じるようにセンセはわざとらしい咳払いをした。
「日曜の朝、Aさんはうきうきとした気分で五時過ぎには起きてお洒落をして六時過ぎに佐橋さんのマンションに着きます」
 徳利から猪口に酒を移しながらしのぶは話を続けた。
「スペアキーで部屋を開けて入ると佐橋さんは生憎の外出中。きっと律儀な彼のことだから朝御飯でも買いに出掛けたんだろうと考えて勝手知ったる部屋の中をうろうろします」
 しのぶはまた一口熱燗を喉に流し込み、遠くを見つめるように目を細めた。
「そして間の悪いことにゴミ箱の中の赤い歯ブラシを見付けてしまうのです。一瞬にして楽しい気分は消し飛んで彼女の心に怯えが走ります。どうして内気で人見知りな彼は二つ返事で女の子達とのハイキングに行くと言ったんだろう?キッチンに並んでいるグラスの洗い物、ピザの空き箱は誰かが来たことを示している。冷蔵庫に買っておいたチーズやハムを彼は何の躊躇いもなしにその来訪者に出したのだろうか?少し思い込みが激しくて性格に余裕のないところがある彼女の心は一気にパニックを起こします。そして、ゴミ箱の中の赤い歯ブラシは彼女にこう告げているように見えたのです『お前は捨てられたんだよ』って」
 ユウやんとセンセは呆気にとられてしのぶを見た。隣でバリキは黙り込んで何かを考えている様子だった。
「ハイキングに参加する女性の中で佐橋さんが参加することを知らされたのは遥さんです。そして日曜の朝に集まった他のメンバーは遥さんから聞いていないと言いました。警察の捜査が入っている時です。遥さんの証言を取ればすぐに嘘とバレる危険性があることですから彼女達が嘘をついているとは思えません。ですから、ハイキングの参加メンバーの中にAさんがいるとしたらそれは遥さんしかいません」
 しのぶは徳利を脇に置いてバリキに向き直った。
「今の話はあくまでも可能性の一つです。でも、否定できない可能性でもあります。学さんが葉書を警察に提示して、もしその通りの事実を知らされるとしたらあんまりだと思ったんです」
 グラスを睨むようにして黙り込んでいたバリキはポケットから携帯電話を取り出した。
「ちょっと待ちやバリキ。事がはっきりしてホンマにその通りやったらあんじょう慰めてやればええ話や」
 ユウやんの言葉にバリキの手が止まる。
「そないに先回りして学くんを構うのはちょっと過保護過ぎちゃうか。生きとったら失恋の一つや二つもするわいな。けど、痛い目見た経験は絶対あとで活きてくる」
「私もそう思いますよ。正月の時の娘たちへのアドバイスのお返しをするわけじゃありませんがバリキは少し学くんを構い過ぎてやしませんか?彼は両親のいない負い目を背負って君が善意から構ってくれていることは痛いほど理解していますよ。でも、その想いが彼を束縛しているように私には見えます。だから今彼は君に依存もできず、独立もできず、苦しんでいるんじゃないでしょうか」
 口幅ったいことを言ったと、センセは恥ずかし気な顔をしてまた咳払いをした。
「一度、完全に手を離しておやりなさいな」
 今日はこれでおしまいというようにセンセは甑倒(こしきだお)しの残りを飲み干した。
「今度はいっぺん一人でここにおいでと言うたってや」
 カウンターの向こうでグラスを磨く主人がバリキの方を向いてにっと笑った。
              
 ─完─
 

「Gの書斎」に戻る
inserted by FC2 system