今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第五夜 籠城ゲーム
《1》

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「ギムレット」
 男はコートを壁のフックにかけながらオーダーした。まだ夏の名残が色濃い秋口にそのコートが珍しいのか、カウンターの隅の先客達がこちらをちらちらと窺っている。その視線には無頓着に男は静かにスツールに腰を沈めた。
 老練なマスターは無言で頷き、冷蔵庫からジンとライムジュース、丸い氷を出す。慣れた手捌きでシェーカーを振ると男の前にコースターを置き、よく冷えたマティーニグラスを載せた。薄緑色の液体がシェーカーから注がれるのを男は黙って見詰めている。
 マスターが注ぎ終えると、男はライムの香りを確かめてから、軽く煽って太い息を吐いた。ようやく人心地ついたという顔で店の中を改めて見回す。刃物のように鋭い視線とぶつかって先客達が慌てて目を逸らした。
 小さな音に男は振り向いた。男の前に白い小鉢が置かれている。
「こいつはなんだ」
 男がねばり気のある視線でマスターを見遣った。

「今度こそほんまもんの心霊現象ですて」
 しのぶの甲高い声が酔鏡の店内に響く。
「いや、八月の山下さんの時のように勘違いなさっているだけという予感をひどく感じるのですが」
 隣でセンセが持って回ったような執り成し方をする。開店から小一時間、酔鏡の客は珍しい取り合わせの二人だけだ。一番ビールを手中に収めたセンセはビールを干して二杯目を何にするか思案しながら目を泳がせている。しのぶの前にはいつもの熱燗に平皿が置かれていた。
「走りの秋鮭やな。バターでローストしてしめじや舞茸など茸を添えましたという趣向や」
「上に散らしてる黒いのは何ですのん?」
「鮭の皮を軽く揚げて微塵に刻んだもんに塩、山椒を合わせてシーズニングにしてみてん」
 口に入れるとバターを利かせた鮭の身を香ばしい皮のシーズニングが引き立てて食欲が刺激される。
「めっちゃ美味しいです」
 しのぶが歓声を上げると主人は満足げににっと笑った。壁のホワイトボードには、

 お品書き
秋の風

 と達筆な字で書かれている。
「まだまだ暑いけど走りのもんがぼちぼち出始めてるねん。夏の名残を惜しみながら一足先に秋を楽しんでもらおいう趣向や」
 物問いたげなセンセの先回りをして主人が答えた。
「ちょっと小腹が空いてるんです。何か揚げ物でお腹にたまる物をお願いします。それに合わせて日本酒を」
 酔鏡にはレギュラーメニューがほとんどない。壁のホワイトボードには一言その日のメニューのテーマだけが書かれているので初めての客はもちろん常連たちでも毎度戸惑う。だが客がてんでに「揚げもんを」とか「何やさっぱりしたやつ」とか「激辛の肴あるかな」とか適当に料理のイメージを伝えると不思議とイメージ通りの料理が出てくる。期待が外れることはまずない。主人の慧眼は長らく客達の間で持ちきりの謎だ。
「そういえばあたし、バリキさんやユウやんと八月以来会うてませんわ。元気にしてはります?」
「ああ、ちょこちょこ顔出してはるで。けど、ユウやんはここんとこ忙しいみたいやな。何でも知り合いが主催してる劇団で起きてるトラブルの解決を頼まれたんやて」
「何ですのんそれ?」
 しのぶが口に持って行きかけた猪口の手を止めて不思議そうな声を上げた。
「例のライバル劇団に主演女優を引き抜かれたとかいうやつですか?」
「ええっ、ユウやんて演劇関係者やったんですか?」
「いえそうではなくて、別に劇団に限らずそういったトラブルを解決するのがユウやんの仕事なんですよ」
 しのぶが要領を得ない顔つきで首を傾げる。
「ある種の便利屋というんですかね。誰とでもすぐ友達になれて、とにかく友達を大切にする人でしょ。それに職業や地位で人を見下すことをしない。一度友人になった人間をユウやんが忘れることはないが不思議と相手も忘れないらしいのです。内外に数千人は友人がいると聞いたことがありますよ。で、友人達はもとよりその知人からもトラブルに巻き込まれたと頻繁に相談が持ち込まれるようになって、特に看板を上げているわけではないのですけど、いつの間にやらそれで謝礼をもらう便利屋になったそうです」
「へえ。でもどうやって解決しはるんです」
「ユウやんの武器は情報とコネクションです。電話一本で検索エンジンなど目ではないディープで正確な情報をピンポイントで掴めると言ってました。誰を動かせば解決に至るかの見極めが巧くて、仲裁のシナリオも描ける。提示する条件は示談屋顔負けと言いますから、ああ見えて困った時は結構頼りになる人なのです」
「へえ、人は見かけによらんのですねえ」
 二人とも微妙に失礼である。
「けど、今日はホンマに静かですね」
しのぶは猪口を煽って店の中を見回した。もとより客は二人だけである。
「ま、そういう日もあるて。けど、俺の経験からすると宵の口が静か過ぎると後でどーんとお客が来てえらい忙しい目に遭うたりするねんなあ」
 主人が格子戸の方を見遣った。と、間の良いことにその立て付けの悪い格子戸がガタガタと音を立てて力任せに開かれた。まだ暮れ残る夕日を背にして大きな人影が立っていた。
「いらっしゃい」
 主人は商売人の顔に戻って威勢の良い声を張った。上背が百八十はありそうな大きな男が無言で入ってきた。
「ギムレット」
 男はコートを壁のフックにかけながらオーダーした。秋口とはいえ、まだ残暑が厳しい時候にそのトレンチコートはいかにも不似合いでしのぶは何か言いたそうにセンセを見遣った。
 主人は眉一つ上げずに黙って頷くと冷蔵庫からジンとライムジュース、丸い氷を取り出した。棚から銀色のシェーカーを取り出す。
「見ました?あたしこのお店にシェーカーがあるやなんて初めて知りました」
 殊更声をひそめてしのぶが言うとセンセは黙って頷いた。主人は慣れた手付きでシェーカーを振ると男の前にコースターと冷えたマティーニグラスを置いて薄緑色のカクテルを注いだ。
「うわっ、あんなグラスもあたし初めて見ましたわ」
 声は密やかなのだが、テンションはフォルテシモなので店中に聞こえやしないかとセンセは気を揉んだ。男が口をつけるのを待って主人はジンとライムジュースの瓶を冷蔵庫に戻す。
「あの冷蔵庫、四次元ポケットちゃいます?そのうち樽酒とか出てきたりして」
 いや、それは永遠にない。
「かっこええ、なんや西部劇みたいですやん」
「せめてハードボイルドと言って下さい」
 二人はひそひそ声で会話を続ける。男のがたいはバリキと良い勝負で、年を重ねている分貫禄があった。年齢は五十半ばといったところか。髪はべったりとポマードを付けてやくざの幹部風。眉は太く顔のパーツも総じて大振り、眉間に深く刻まれた皺は見ている方が緊張してきそうだ。男はギムレットを軽く煽ると太い息を吐いた。男の緊張が弛緩するのが手に取るように分かった。人心地ついた顔で店の中を見回す男の視線がしのぶとぶつかる。猪口を傾けていたしのぶは派手にむせて慌てて目を逸らした。主人が白い小鉢を置くのが見えた。
「こいつはなんだ」
 男は少し目を細めて()め付けるように主人を見遣った。
「お付け出しみたいなもんと思うて下さい。お客さん今、メニュー探さはりましたやろ。けど、どんなオーダー頂いても出すまでにカクテルは半分がとこなくなってしまいます。口寂しいのは申し訳ないなと思うて、おしのぎのつもりで出しました。お気に召さんようでしたら引っ込めます」
 男は黙って箸立てから割り箸を取ると小鉢の中身をつついた。
「こいつはなんだ」
 同じセリフだがニュアンスが違う。
「にんにくの芽のピクルスです。洋酒に合う肴はいろいろあるけど案外に漬物やピクルスもイケますよ。変わったところで中華風ににんにくの芽を使ってみました」
 主人の言うがままに男は小鉢の中身を箸で摘んで口に入れた。暫く男はカクテルとの相性を確かめるように味わっていたが終に口を開くことはなかった。ただカクテルの残りを呑み干すとお任せでバーボンのロックをオーダーした。
「あのう」
 しのぶがおそるおそる手を挙げた。バーボンのグラスに無言で口をつける男をチラチラと見遣っている。
「あたしもおんなじやつを」
 なぜかひそひそ声でオーダーする。主人は頷いて冷蔵庫から小鉢を一つ取り出した。
「日本酒にもよう合うで」
 主人の言葉を聞きながらしのぶが箸を伸ばそうとした時、唐突に店の中にゴッドファーザーの愛のテーマが荘厳に響いた。しのぶは肩を震わせて中途半端に箸を止めたまま店の中を見回したがもとより客は三人しかいない。男はウィスキーのグラスをカウンターに戻すと慌てる素振りもなくスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「うわ、見ました?」
 しのぶがあからさまに指を差したのでセンセは肝を冷やした。男のスーツの裏地には派手な虎の刺繍が施されていた。
「はい」
 男は静かな、それでいて相手を威圧するような声で電話に出た。電話の相手は何やら興奮している様子で甲高い音声がしのぶ達の方まで聞こえてきた。
「なんやと」
 不意に男が声を荒らげた。三人は固唾を呑んで男を見守る。
「月末までノーチェックのはずやぞ。なんでこないに中途半端な時期に……。とりあえず、おおきに。助かったわ」
 男は手短に話して電話を切るとすぐにどこかに電話をかけた。
「加藤か?例の隠し金の件でそっちに電話行ってないか?……。使い込み言うな。人聞きが悪い。……。そうか、まだ手は回ってないな。なら、先手必勝や。悪いけど今からそっち行くから今晩泊めてくれ」
 言うだけ言うと男は電話を切った。

 

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