今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第五夜 籠城ゲーム
《5》

「Gの書斎」に戻る


 

「あ、忘れるとこやった。八月三日な。第一金曜やろ。よう覚えてるけど、雨が降らんかった今年の八月で唯一雨やった日や。六甲山に登るどころやなかったで」
「そういえば、しのぶちゃん八月の第二金曜に六甲山行く言うてなかったか」
 主人が思い出したように言う。
「はい。そやから八月三日ですやん」
「いや、それ第二金曜やないし」
 ユウやんがすかさずツッコミを入れる。
「ええっ。けど写真の日付はそうなってますやん。って、あたしタイムスリップしたんですか?」
 男達はしばし黙り込んだ。やおら、テリーが代表するように言った。
「普通に考えたらカメラの日付設定を間違えていた確率の方が高いな」
「ああっ」
「大方その先輩も第二金曜に六甲山登らはったんやろ。そら写真見て笑うしかないわ」
 ユウやんが笑いを堪えながら言った。
「ほな、また来るわ」
 今度こそテリーが店の奥に向かって歩きだそうとした。それを待ち構えていたように三度(みたび)店の電話が鳴った。度重なる学習効果で主人もさすがにすぐには手が伸ばせなかった。
「嫌な予感しかしませんね」
 センセが客達の気持ちを代表するように呟いた。やおら主人が受話器に手を伸ばした。チンと音がする。
「もしもし。……、……。はいよ」
 用件を聞くだけ聞くと向こうが切る前に切ったらしい。
「『念のために言うとくが裏口は最初から押さえてある。姑息な手は通用せん』ですて」
「ここはユウやんが言う通り正面から出て話し合いをされるのが得策と思いますよ」
「話し合いが通じるような相手やない。問答無用でまた半殺しにされるんは目に見えてる」
「また、って……」
「けど、この店に立て籠もってても埒あかんだけやのうて事態を悪くするだけですて。早い内に話し合いに行くべきやわ」
「いやもう手遅れや。あの恐ろしさは半端やないねん。こうなったら高飛びして……」
 もはやコントのようなタイミングである。テリーの言葉に被せるように四度、店の電話が鳴った。
「はい。……、……。はいよ」
 また主人の方が先に電話を切ったらしい。主人は妙な顔でテリーに伝言を伝えた。
「『最後通牒や。五分以内に店から出て来んかったらミヤゾノに戻る』言うてはりました。意味分かります?」
 些か自信なさげに伝えた主人の言葉はしかし効果絶大だった。テリーは怖い先生に指名された小学生のように気を付けの姿勢をとって直立不動になった。眉間の皺は更に深くなり額から頬にかけて脂汗がしたたり落ちる。常連達は今にも引きつけを起こして卒倒するのではないかと危ぶんだ。
 まるで地獄の門を見詰めるような目付きでテリーは店の格子戸を凝視していたが、やおら(すが)れるものを探すように店の中に目を泳がせた。その視線がある一点でぴたりと止まる。天啓を得たような顔つきになってテリーはしのぶの背後に回った。
「えっ?えっ?」
 しのぶはふためいて忙しなく首を左右に振って振り返ろうとした。
「すまん」
 テリーはしのぶの肩を掴むと軽々と立ち上がらせ、撞木のような太い腕を首に回すと、
「人質になってくれ」
 と言った。
「えええっ」
「ちょっと……」
「あのなあ」
「落ち着きなさい」
 店主と客達は口々に声を上げて色めき立った。が、容易には近付けそうにない。客達が見守る中、テリーはじりじりとしのぶを引きずるようにして格子戸ににじり寄って行った。
 その時、店の中にいる誰一人として気付く者はなかったが店の奥、主人の居住スペースの方から音もなく巨大な影がぬっと現れた。バリキは無言で腰を屈めると音を立てずにテリーの背後に滑るように近付いた。まさにその腕がテリーの肩に伸ばされようとした瞬間、テリーの肩がハッと強張り、左足の蹴りがバリキに飛んだ。不意をつかれたバリキは壁にしたたか背中を打ちつけて引っ繰り返った。
「なんじゃおんどれは」
 興奮状態のテリーはしのぶを脇にどかせるとバリキににじり寄る。素早く身を起こすとバリキは跳び下がって間合いを取った。
 東大寺南大門の金剛力士像揃い踏み―まさに門の左右から抜け出てきた金剛力士がカウンター脇の狭い通路で対峙しているといった構図だ。
「店の客のしかも一番か弱い娘盾にとって何してるねん」
 バリキの声は静かだったが、その分深い怒りが伝わってくる。
「手段選んどる場合やなくなったんじゃ」
 テリーの方はバリキのがたいを面白そうに眺めながらゆっくりと背広を脱いだ。さらに毟り取るようにワイシャツも脱いでランニングシャツ一丁になる。露わになったその肌を見て客達は慄然となった。新しい物、古い物、無数の傷が胸と言わず腕と言わず散らばっている。中には明らかに刃物傷と分かる物も一つとならずあった。
 バリキはその傷に臆することもなく間合いを詰めていった。テリーも半身をずらして狭い空間で身動きし易い態勢になって身構える。
「あのう」
 場にそぐわないユウやんの間延びした声が響いた。
「余計なことかも知らんけど五分経ったで」
 その声が合図であるかのように店の格子戸が盛大に揺すられ始めた。
「ひぃっ」
 そのがたいに不似合いな悲鳴を上げて、テリーはしのぶに駆け寄った。乱暴に腕を引き寄せたはずみで銀縁メガネが弾け飛んだ。
「あっ」
 異口同音に声を立てる男達をよそにテリーは再びしのぶの首に腕を回そうと手を伸ばした。その時、腕時計のごつい金のバンドが桜色のリボンに引っ掛かった。シュッと音を立ててポニーテールが解ける。
「あっ」
 異口同音の声が再び上がった。テリーの腕の中でしゃんと背筋を伸ばしたしのぶは不意に一回り大きくなったような気がした。違和感を覚えたテリーが腕の力を緩めるとしのぶはくるりと振り返った。
 緩くウエーブの掛かった長い髪を胸まで垂らした娘がじっとこちらを見ていた。
「あんた……、誰や」
 その目に射すくめられたようにテリーは一歩たじろいだ。
「まずはちゃんと、ごめんなさいって言うべきです。―耕作さん」
 しのぶはきっぱりと言った。

 

「Gの書斎」に戻る
inserted by FC2 system