今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第五夜 籠城ゲーム
《6》

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 背後では今にもぶち壊さんばかりの勢いで格子戸が揺すられている。
「ちょっと待って下さいね、かず子さん。今、開けますから」
 しのぶがねじ式の鍵に手を伸ばそうとすると途端にテリーこと吉田耕作が慌てふためいた。
「か、堪忍してえ」
 先程までの威勢の良さは露と消えて、小さな子供みたいに頭を抱えてしゃがみ込む。
 しのぶはちらりと彼を見遣ったがすぐに格子戸に向き直るとキュルキュルと軋む音を立てて鍵を外した。待ちかねたように格子戸が勢いよく引き開けられる。が、じれていたせいか勢い余ったらしい。立て付けの悪い格子戸は珍しくノンストップで端まで滑っていき、大きな衝撃音を立てると、そのまま表に向かって引っ繰り返った。更に派手な音が路地中に響き渡る。
「今、ガラスが割れへんかったか?」
 バリキがぼそっと呟いた。
「割れたな。見事に」
 ユウやんが(いら)えた。
「あ、大将ごめん」
 派手な原色カラーの塊が店に飛び込んできて叫んだ。
「入口のガラスが割れてもうた。あんじょう弁償させてもらうよって堪忍して」
 申し訳なさそうに手を合わせる吉田のおばちゃん。だが、主人は呆然と凝固したまま微動だにしなかった。
「ガラスが割れたんじゃない。ガラスを割ったのです。ガラスに足が生えてるわけじゃあるまいに。全く科学的な思考が……」
 センセの繰り言のような文句に耳を傾ける者は誰もいない。
「さ、耕作さん。勇気を持って『ごめんなさい』と言いましょう。そしたらかず子さんもきっと赦してくれます」
 周囲の状況に気付いていないのか無頓着なのか、しのぶはマイペースに吉田のおばちゃんの旦那、耕作ちゃんの背中を押した。
 耕作ちゃんはふらふらとおばちゃんの前に歩み寄るとひょこっと頭を下げてこう言った。
「ごめんなさい。もうしません」
 客達は固唾を呑んでおばちゃんの次のリアクションを見守る。が、あまりにも予想通りの反応だったため、誰もが溜息をついた。
「ごめんで済んだら警察はいらんわい」
 ランニング一丁で悲鳴を上げる旦那を引きずっておばちゃんは店の外に出て行った。その直後、客達の耳に届いて来たのは、今夜さんざん語られた。『当人同士の話し合い』と言った穏やかな物音ではなかった。

「しのぶさんは―」
 センセは些か疲れたような溜息を一つついてから口を開いた。
「彼が吉田さんのご主人だと気付いておられたのですね」
「あの、申し上げにくいのですが……」
 しのぶは気の毒そうにセンセを見遣りながら言った。
「後から入って来られたバリキさんは別として、気付いておられなかったのはセンセだけだと思います」
 言われたセンセは目を見張って主人を見遣る。主人はにっと笑って頷いた。
「初めてお見掛けする男性がお店に入って来られた時にこう思いました。この方はたまたまこのお店に気付いてふらりと入って来たのかしら?って。ところが、その方は事も無げにギムレットをオーダーしました。ギムレットはジンとライムジュースがないと作れないカクテルです。酔鏡の内装はどう見ても居酒屋で、バーのようには見えませんよね。ですので、この方は一見のお客ではなく、わたしの知らない常連さんか、この店がジンとライムジュースを常備していてオーダーすればギムレットも出してくれることを知っているどなたかの紹介で来られたのだと思いました」
 店の外で、未だ不穏な物音が続いている。それに気付いていなさげにしのぶは静かに猪口を傾けつつ話を続けた。
「次にその方はわたしと目が合いました。だのに何の反応も示されなかったのです。却ってわたしの方がお酒にむせたくらいです。今までの経験でわたしを初めて見た方はマスターに一言忠告されるか、そうでなくても例外なくギョッとした顔をなさるのです」
 しのぶはなぜか残念そうに言った。
「それで、この方はわたしの知らない常連さんではなく、わたしの事を知っているどなたかの紹介で来られたんだと思い至りました。お店を紹介する時に中学生のように見える常連がいるとでも話題にされたのでしょう」
「中学生にしか見えん常連がいてるちゅう話題やった気がするけどな」
 ユウやんが茶々を入れる。
「マスターは目端の利く方ですから、彼がわたしに反応しなかったのに気付いておられたと思います。それにギムレットはかなり珍しいオーダーですから以前どなたがそれを注文されたかも覚えておられたはずです。ギムレットをオーダーしたことがあって、わたしをご存知の常連さんという情報からマスターが一番にあの男性の素性に気付かれたんじゃないでしょうか?吉田かず子さんのお知り合い。風貌からして恐らくご主人だって」
「なるほど」
「それから、あの方に『隠し金』がどうこうという電話が掛かってきて話が不穏な方向に進み出してから、マスターがわたしに何度もサインを送って下さったんです。それでわたしもあの方がかず子さんのご主人の耕作さんだと気付きました」
「ま、吉田の旦那やと気付いた時点で、これは会社のカネを横領したとかたいそうな話やのうて吉田のおばちゃんのへそくりをくすねたとかいうしょうもない話やろうと読んだ。旦那の性格はこの前、散々聞かされたからな。いうことはこれからここで過激な夫婦喧嘩に発展する危険があると察してん。店を壊されてもかなわんしな。六月の一件でおばちゃんがしのぶちゃんには甘いのを知ってたし、テリーさんが実は吉田の旦那やてサイン送っといたらしのぶちゃんのことや、状況を推理して事態に収拾を付けてくれるんちゃうかと期待してん」
「そのサインというのは何なのです」
 センセが尋ねる。
「センセも『あれ?』って思いませんでした?テリーさんに出された料理です。付け出しが『にんにくの芽のピクルス』―マスターは『変わったところで中華風ににんにくの芽を使ってみました』とおっしゃいました。二品目が『蒸し餃子』―マスターは『中国では蒸しと水餃子が主流で焼き餃子は残り物を焼くくらいらしい』と解説されました。三品目が『お焦げの餡かけ』―マスターは『元々は中華の四川料理なんです』とおっしゃいました。どれも今日のテーマの『秋の風』とは無関係ですよね」
「あ」
「少なくとも今までにマスターがテーマを無視した料理を出されるのをわたしは見たことがありません。そして料理を出すたびにマスターはわざわざそれが中華料理であることを解説されています。これってどういうことだろうとわたし思いました。そして、もしかしたら、これはマスターからわたしに宛てたサインで、この人はわたしのことを知っている常連さんの知人で中華料理の好きな方だよと伝えようとされているのじゃないのかなって気付いたんです」
「にんにくの芽のピクルスを出したときはちょっとした洒落のつもりやってんけど、どうも雲行きがあやしうなってきてあせっててん」
 主人はつるりと頭を撫でてにっと笑った。
 丁度熱燗が空になったのでしのぶは徳利を差し出して主人におかわりを頼んだ。
「すぐに思い当たる方がいらっしゃいました。風貌も窺っていた通りなのでかず子さんのご主人で間違いないと思いました。と同時に大騒ぎになっている事件が公金横領といった不穏なものじゃないと気付いたんです」
「最初にしのぶちゃんが言うてたんが気になるねんけど」
 主人が口を開いた。
「テリーさんが吉田の旦那やと気付いてなかったんはセンセだけやったって。いうことはユウやんも気付いてたっちゅうことか?」
 主人はユウやんを見遣った。ユウやんは素知らぬ顔で焼酎を啜っている。それを見てしのぶは可愛らしい笑い声を立てた。
「いえ、知っていたも何も。今夜ここで起きた籠城事件のお芝居の筋書きを書いて演出家と舞台監督を勤めたのがユウやんなんです」
 言われたユウやんは肩を震わせて笑った。
「かなわんなあ。そやからしのぶちゃんにはバレるでって吉田のおばちゃんにも言うててん」
「何もかもタイミングが合い過ぎですよ。まるで舞台袖でお芝居の進行を確認しながらきっかけを掴んでキューを出してるみたいでした。これは明らかにお店の中のやり取りが外に筒抜けになっていたと考えるべきです」
「……盗聴器ですか」
 センセの言葉にしのぶが頷く。
「問題は盗聴器がどこに仕掛けられたかです。予めお店に仕掛けたり耕作さんより先に来ていたわたしやセンセが持っているというのはあり得ませんよね。耕作さんがこのお店にくるかどうかは分かりませんから。ですからその盗聴器は耕作さんが店に入ったことを確認した上で、後から店に来た人物が持っていたと考えるべきです。ユウやんがお店に入ってきた時のことを思い出して下さい。あの時ジャンパーのポケットに手を突っ込んでいました。あのポケットに盗聴器が入っていて、耕作さんが間違いなく店内にいることを確認してスイッチを入れたのではないでしょうか」
 言われたユウやんはポケットに手を突っ込むと小さな黒い装置を引っ張りだした。
「ほんま、恐れ入るわ」
 言ってユウやんは照れ臭そうに笑った。
「舞台袖のキャストを用意したのもユウやんですよね」
「それって店に電話を掛けてきたり、店の外で見張ってた人らのことか?」
 主人の質問にしのぶは頷いた。
「かず子さんは、テリーさんがご主人だとわたし達に知られたくなかったみたいなんです」
「正確に言うとしのぶちゃんに知られたくなかったということやねんけどな。で、わしの携帯に電話してきて、すぐに謎の組織を調達してくれて無茶言いよってん」
「キャストの陣頭指揮を取られたのは……劇団の主催者さんじゃないでしょうか?」
 しのぶは小首を傾げながら言った。
「なんやややこしい話やな」
 しのぶの隣に陣取ってさんまの竜田揚げを肴にビールを飲んでいたバリキが口を挟んだ。
「途中参加した俺にはさっぱりわからんで」
「いや、最初から座っていた私にもよくわかりません」
「ほぼ同時に二つのことが起きてしまったから余計に話がややこしくなっているんだと思います。耕作さんがこの店に来られたことと、籠城事件が起きたことは無関係のできごとなんです」
「お待ちどおさん。牡蠣雑炊や」
 しのぶの前に小振りの土鍋が出された。

 

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