今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第五夜 籠城ゲーム
《9》

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「なあなあ、せっかくやん。今日こそ『風に吹かれて』歌うてえな」
 焼酎をボトル一本空けてだいぶできあがってきたおばちゃんが巨体をすり寄せるようにしてねだる。
「そないな曲知らん言うてるやろ。お前もしつこいな」
 急に不機嫌な顔になってぶすっと言う耕作ちゃんの目の前には空になったバーボンのボトルが横たわっていた。
「今日はその手は喰わんで。五百円玉貯金の埋め合わせや。歌うてえな」
 おばちゃんが尚も喰い下がる。
「親爺、バーボンもう一杯くれ」
 無視した耕作ちゃんの態度にキレたおばちゃんは席を蹴って立ち上がった。
「あの……」
 しのぶがおそるおそる手を上げる。
「はい、しのぶさん」
 なぜかセンセが指名する。
「代わりにわたしが歌ってもいいですか?」
 予想外の申し出におばちゃんは目を瞬かせて、拍子抜けしたように丸椅子に腰を落した。それから『うん、ええけど……』と気抜けした声を出した。
 意を決したようにしのぶが立ち上がる。客達は皆口を噤んだ。些か季節外れになった風鈴の音が夜風に乗って響く。
 しのぶは目を閉じてじっと何かを想っているようだった。桜色の口元が何やら楽しげに綻んでいる。じらすように、気を持たせるように長い間があった。

 ハウメニイヤーズマスタマウントィーグジストゥ ビフォーイリズウォーシュトゥダシ

 意外に声量のある柔らかなソプラノが響く。客達は居住まいを正したり、肘を付いたり思い思いの姿勢を取ってそのメロディに耳を傾けた。耕作ちゃんはウィスキーのグラスを口に持っていきかけたが又カウンターに戻すと目を細めて聴いていた。が、首を傾げて目を見開くとおや?という顔になる。その厳つい首がゆっくりとスイングし始め、指がカウンターを打ってリズムを取り出す。やがて、首の揺れが大きくなり、記憶をまさぐるように目をぐっと細めると口元を綻ばせた。

 ヒズアンサマイフレン イズブローインダウィン ヒズアンサリズブローインダウィン

 老境に差し掛かったボブディランのような渋い歌声が店の中に響いた。
 時ならぬ拍手が響く中、おばちゃんだけが憮然とした顔で腕組みをすると旦那を睨んだ。
「どういうことなん?」
「え、何がや?」
 満更でもない顔でウィスキーを煽っていた耕作ちゃんが聞き返した。
「あたしがあれだけ言うても歌うてくれんかったくせに、相手が若い娘やったらほいほい歌うんかい」
 言いながらおばちゃんの手は旦那のアルマーニのネクタイを締めにかかる。
「ちょっ、苦しい。何の話やねん」
 必死で気道を確保しながら救いを求めるように耕作ちゃんはしのぶを見遣った。
「あの……」
 しのぶが遠慮がちに口を開いた。
「首を締められてるところ申し訳ないのですけど……」
「いや、二人とも申し訳ないとは思うてへんで。たぶん」
「耕作さん、この曲が『風に吹かれて』なんです」
 旦那の動きが停まった。まじまじと吉田のおばちゃんを見返す。
「そうなんか?」
 おそるおそる訊く。
「もしかして知らんかった言うオチ?」
 呆然となっておばちゃんもおそるおそる訊き返す。
「そやかて英語のタイトルはブローインザウィンドなんやろ」
「ちょっと意訳かも知らんけど『風に吹かれて』で通じるやん」
「ええっ、窓がどうのいう曲やろが」
「そら、ウィンド違いや」
 やる気のない漫才のように二人は茫然自失の掛け合いを繰り返した。

「六月、かず子さんに風に吹かれてを歌って頂いた時、ブロークンだけどネイティブに近い発音を押さえておられるなと思ったんです。それで、もしかしたら楽譜や歌詞カードを読んで覚えたのではなく、レコードから耳で覚えられたんじゃないのかなと考えたんです」
「想い出の曲やからな。一日中レコード聴いとったら自然に覚えた」
「それでふと思ったんです。英語が苦手だとおっしゃっていた耕作さんも耳からまる覚えしたのかもしれない。だとしたら、曲のタイトル、特に日本語のタイトルを目にされていない可能性もあると思ったのです。つまり、『そんな曲は知らない』ではなくて『この曲が風に吹かれてだとご存知ない』のじゃないかと思って……。それを確かめたくて今度は耕作さんもご一緒にってお誘いしたんです」
「楽譜見たって読まれへんからな」
 ぼそっと、耕作ちゃんが言った。
「ギター弾けるやつつかまえて弾き方教わりながら耳で覚えてん。タイトルは聞いたかもしれんけど忘れたわ。ともかく弾ければそれで良かったし……」
「あーあ。あほらし」
 おばちゃんがわざとらしく大きな声を出した。
「けど、すっきりした。長年の謎が解けたわ。しのぶちゃんおおきにな。結局、この謎解きでもあたしの期待に応えてくれたなあ」
 まじまじとしのぶを見ながらおばちゃんは言った。
「けど、今度会う時はメガネとポニーテールしといてって言うたのに……。そこだけは期待に応えてくれへんかったなあ」
 恨めしそうに言う。しのぶは小首を傾げて静かに笑った。
「なあなあ、しのぶちゃん。佐山君が舞台に立たへんかて言うてるで」
 カウンターの向こうでユウやんがおもしろそうに言った。
「いや、絶対舞台映えすると思うんですわ」
 佐山君は存外真面目な顔で説得にかかる。けれどしのぶは笑いながら首を横に振った。
「それは無理です。お銚子を二、三本空けないと稽古も始められませんから」
 軒にぶら下がった風鈴が応えるように鳴る。ひんやりとした夜風がぽっかり開いた入口から吹き込んできた。

 ─完─

 

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