今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《10》

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  「あーあ、妙にさっぱりした気分や。なんかお腹空いたな。大将、何ぞボリュームのあるもん出してえな。和食はいややで、あたしも実は好きやないねん。耕作ちゃんが好きな中華がええなあ。あそや、しのぶちゃんも何か食べて。良え話聞かせてもろたお礼や。バリキも何か奢ったろ好きなもん頼み。今日は気分が良えわ」
 「肉や肉が良え」と騒ぐバリキにしのぶは「わたし、いかにも日本料理って感じのものを」と控えめな声で遠慮なく注文し、座は一気に賑やかになった。
 炭火の上で炙られている大振りの鶏肉からエスニックの強い香りが立つ。フライヤからは揚げ物が立てる小気味良い音が客達の胃をくすぐり、時折炭火に落ちる鶏の脂のジュッという音が殊更に耳を刺激する。主人は調理台の前に立ち、葱、生姜、大蒜(にんにく)と薬味を微塵に刻む。小鉢に合わせられたそれらの薬味に赤や青の瓶に詰められた中華の調味料がブレンドされていく。煙を立てて熱くなっている中華鍋に揚げ物が放り込まれ盛大な音を立てる。振りかけたごま油が香ばしい匂いを放つ。ブレンドされた調味料を回しがけた瞬間、緋色の炎が大きく舞って客達に料理の完成を告げた。
「お待ちどおさん。海老チリや。今日のテーマやし辛い目にしてあるで」
 白い中華皿にこんもりと盛られた海老チリはチリソースと豆板醤の赤を帯びて艶やかに輝いている。
「うわっ、大将愛してる」
 歓声を上げて箸を取るとおばちゃんは海老の山に踊りかかる。
「バリキはタンドリーチキン風いうんかな。本式の壺焼きでないけど炭火で焼いたんも旨いで。俺は骨つきの方が好きやけど。バリキはボリューム重視やろ。もも肉の塊んところを使うてみた」
 主人の説明を半分も聞かずにバリキは切り分けられた大振りのもも肉と格闘している。しっかり漬け込まれた香辛料とヨーグルトの酸味が口一杯に広がりバリキは思わず叫んだ。
「ビール。おっちゃん、ビールちょうだい」
「しのぶちゃんには地味目やけど茄子の炒め煮を出させてもらお。これな俺のお袋が夕飯によく出してはった惣菜やねん。出来立ても悪うないけど一晩おいた方が味が染みてて旨いと俺は思う」
 冷蔵庫から取り出された黒い深鉢はひんやりと冷たくしのぶの指先をくすぐった。賽の目に切られた茄子は油を帯びて艶やかに光っていて、口に入れると醤油の濃い味と鷹の爪の辛さが舌で踊った。しのぶは思い出したように徳利を振って空になっていることを確かめ、黙って主人に差し出した。主人も黙ったままにっと笑って頷いた。
「しかし今日はすっごい日やったなあ。まさか暇潰しにこの店に来た時はこないなことになるやなんて思いもせんかったわ」
「世の中何が起こるか分からんちゅうこっちゃ」
 本日二度目になるバリキのセリフも今度は説得力がある。少しずつ目減りしていく海老チリを名残惜しげに眺めながらおばちゃんは六杯目の焼酎を呑む。
「けど、しのぶちゃん、あんた凄い娘やなあ。とてもあたしと同じ人類とは思えん」
 そら思えんで。タンドリーチキンで忙しくなければバリキがそうツッコんだかもしれない。
「なあなあ、ことのついでやん。耕作ちゃんがなんで風に吹かれてを歌うてくれんようになったんかも推理してえな」
 未だに大人バージョンのしのぶにおばちゃんは恐る恐るにじり寄る。迫り来る巨体に茄子を喉に詰めそうになったしのぶは激しくむせた。
「いえいくらなんでも、人の心の中のことなので……、あの、無理です」
 小さな胸を押さえて息を整えながらどうにか返事をする。
「そうかあ?残念やなあ。長年の謎やねんけどなあ」
「あの、歌われない理由を耕作さんに直接尋ねるのが早道だと思うのですけど」
「それができたら苦労するかいな。元々、音痴やろ。家でも音楽の話は御法度やねん。仕事でカラオケ付き合わされても本人は絶対歌わへんし、あの曲だけは特別や思うから思い出したみたいに水向けるねんけど『そんな曲知らん』言うて決まって不機嫌になりよるねん」
 おばちゃんは「あーあ」と大きな溜息をついた。が、いきなり次の瞬間天啓を得たようにしのぶを振り返った。
「そや、しのぶちゃんにインスピレーションを与えたら何ぞ思い浮かぶんちゃうやろか?おばちゃんが今から風に吹かれて歌うからそれをしのぶちゃんが聴いてやね……」
「おっちゃん、急用思い出した。これ包んでくれ」
 バリキが涙目になって立ち上がる。
「何いうてるのん。おばちゃんの歌が聴けるなんて一生にいっぺんあるかないかの貴重な体験やで」
「一生いらん。何が悲しうて呑み屋で臨死体験せなあかんねん。それに確信持って言うけど、今聴いてしもたら当分俺の夢枕におばちゃんが立つ」
 じっとバリキを見据えていたおばちゃんの目が底意地悪く笑った。たじろいでバリキは後ずさりする。身構える隙も与えず、いきなりおばちゃんの口から英語の歌が流れだした。
「ハーメニー、ヤーズ、マスタマントゥンイース。フォートゥーウォートゥーダシー」
 かなりブロークンな英語だったが意外に味のあるアルトが響いた。拍子抜けしたバリキは何事もなかったかのように丸椅子に戻る。しのぶは目を閉じて首でリズムを取りながらおばちゃんの歌に耳をすませている。やがて、その桜色の小さな唇が何やら笑まし気に綻んだ。
「ヒズアンサマイフレン、イズブローインザウィン。ヒズアンサイズブローインザウィン」
 一コーラス歌ったところでしのぶが小さく拍手をし、おばちゃんがまんざらでもない顔で笑った。
「今度ぜひ、耕作さんも混ざって頂いてここで呑みませんか」
 おばちゃんが口を開く機先を制するようにしのぶが誘った。
「そら願ってもないけど一個だけお願い」
「はい何でしょう?」
「その時は、ポニーテールとメガネ付けといてな」
 子供がねだりものでもするような目付きで言うとおばちゃんはしのぶに片手拝みした。

 ─完─
 

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