今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《4》

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「考えてみたら、あのひ弱な外見が相手を油断させる作戦やったんや。授業が始まってすぐにあたしはそれを痛感した。……、勝たれへんかってん。足し算カードでも、書き取りでも、タッチの差でエッチの方が早う終わりよるねん。おまけにヤラしい標準語が妙にウケて、いきなりクラス委員の座を奪われてしもた」
「いや、気持ちはわからんでもないけどな」
「わかるかいな。いきなり副委員長に格下げになったあたしのみじめな気持ちが。言うてみたら聞いたこともない対抗馬がいきなり現れて総裁選に負けて小泉さんが官房長官にならされるみたいなもんやで」
 譬えが無茶苦茶でツッコミようがない。
「人生初めての挫折やった。あの悔しさをバネにあたしは五十年近く生きてきたんや」
 五十年間それを持続していることの方が凄い。おばちゃんの背中には五十年分の凄まじい気迫が籠もっているように見えた。
「そして運命のあの日がやってきた。二学期いうたら運動会の季節やろ。その日の体育の時間はクラス対抗リレーの選手を決める大事な大事なレースやってん。正直、あたしは自信があった。多少勉強ができたかて、東京弁喋れたかて、運動では下町のワイルドな環境で育ったかず子ちゃんの敵やない」
「かず子ちゃんって?」
「知らんかったか?あたしの名前かず子やで。平仮名のかずに子供の子。うちのお好み焼きの店『かずちゃん』いうやん」
「いや、噂には聞くねんけど誰もその店を見た者がおらへん言う都市伝説が囁かれててやな……」
「こわっ、もしかして店の裏に古い井戸があって髪の長い女の人の骸骨が埋まってたりして」
「戦後すぐはこの辺も天然痘が流行ってたらしいし……」
「こら、リレーの話聞かんかい。あたしの実力からして選手に選ばれるんは間違いない。問題はアンカーになれるかどうかやった。アンカーは文字通りクラスのエースやからな。今までの学習効果でエッチがひょろひょろの見せ掛けであたしを油断させる可能性は充分ある。危機感を感じたあたしは一カ月間早朝の走り込みをやってその日に備えた」
 一年生の徒競走の話がインターハイのスケールに聞こえる。
「最初、五、六人づつ走って上位を絞っていって代表六人はすぐに決まった。あたしはもちろん残ったけどエッチのやつもちゃっかり残りよった。その六人で同時に走って一番になったんをアンカーにしよいう話になったんやけど、残り四人をぶっ千切ったあたしにピッタリくっついてエッチが同着しよってん。男子の方が人数多いしアンカーはエッチでええんちゃうかて言う先生にあたしは噛み付いたで。一対一で決着付けるんが筋やて。スタートラインに並んだ時、エッチのやつが妙におどおどした目でこっちを見て来よるからグッと睨み返してやった。さっきの同着の悔しさで、あたしちょっと涙ぐんどったんかもしれん。クラス全員が見守る中で先生の笛が鳴った。地面からふわって浮く感じがしてな。めっちゃ体が軽いねん。イケる思うて夢中で手足を振ったがな。ところがエッチのやつ背が高い分コンパスが長かった。半分過ぎたとこで、あいつはあたしに背中を見せとった。負けた―て、思うたな。それがゴール直前であいつの手の振りが急に遅うなって、あっと思うたらあたしはあいつを抜いてゴールを踏んどった」
「よかったやん」
「ええことあるかい。手抜きされたんや。涙ぐんでたん見て同情しよったんや。あたし、ゴールに座り込んで号泣したで。ヘタレなクラスの連中は嬉し泣きと勘違いしよるし、エッチは場違いなわけわからん笑顔を見せよるし、怒りの持って行き場がないやん。そやから、そのままエッチに飛び掛かってボッコボコにしたった。目に青タン(こさ)えて鼻血流しよったから、ま、今日はこの辺で勘弁したろ言うて手離したってんけどな。ひいひい言うて泣いとったわ」
「むちゃくちゃしよるな」
「おばちゃん、めっちゃ格好良えわ」
 バリキとしのぶで微妙に感想が違う。
「結局、あたしはアンカーを辞退した。お情けでアンカーもろて嬉しいはずないやん。青タン顔でみんなの同情集めたエッチがアンカーに選ばれてん。それがまた腹立つことに運動会の本番ではあいつ三人抜きの大活躍で優勝しよった。あたし、残りの競技放ったらかして学校飛び出した。そのまま家の二階で夜まで泣き伏しとったわ」
 なかなか壮絶である。
「ま、スポーツマンはそれくらいハングリー精神旺盛でなかったらあかんとは思うねんけどな。それのどこが……」
 すっかりおばちゃんペースにハマって素朴な疑問を投げかけようとするバリキをおばちゃんは目で黙らせた。
「あたしはしつこい人間やない。済んだことは水に流す主義や」
「何の話や?」
「そやから、音楽会の練習で大太鼓の取り合いになった時にバチでどついて失神させたんも、ドッチボールの時にあいつの軸足ばっかり狙って立てんくらいに青痣作ったったんも、馬跳びで思いっきり背中どやしてクラッシュさせたんも、リレーとは別の話や」
 どっちにしろ良い迷惑である。
「せやのにあいつ何考えてたんか、あたしのこと付け回すようになってん。もう十一月に入ってたかな。町のあっちこっちでしょっちゅうエッチと出喰わすようになってん。あからさまに尾行されてるわけやないねんけど、駄菓子屋に入ったらそこにおったとか、神社で遊んどって境内出てきたら杉の木の根方で本読んどったとか、ともかくわざとらしいねん。あたしと目が合うと何か言いたそうにじぃってこっち見るねんけど、結局何も言わんと目を逸らしてどっかに行ってしまいよる。気色悪かったでえ。喧嘩売られるの待ち構えてたのに肩透かしばっかりやもん。けど、まさか女子のあたしから果たし状叩きつけるわけにいかんしなあ」
 おばちゃんの嘆きにも客達は無言だった。ツッコミようがない。
「二学期の終業式の日に『おうちの事情で元の学校に戻られることになりました』って先生に紹介された時は心の中でガッツポーズやった。でっかいお年玉もらえたみたいな気分や。通信簿もろて、机ん中片付けて、さて教室出ましょういう時にエッチのやつが声掛けてきよった。校舎裏の花壇のとこで待ってるから来てくれ言うねん。よっしゃあって思うたな。御礼参りや。腕が鳴るがな。どないやって返り討ちにしたろ思いながらあたしは花壇に急いだ。感心なことにエッチは一人で待っていて個人戦(タイマン)の舞台はでき上がっていた。ただ、あいつ手を後ろに組んどったから、あたしはちょっと用心せなあかんかった。何ぞ武器(えもの)を持っとるいう感じや」
 一年生同士の喧嘩の話に聞こえない。
「大太鼓のバチか、縄跳びの縄か、リーチによって間合い変えなあかんからな。あたしはゆっくりとエッチに近付いて行った。あと二、三歩で間合いに入る、そう思うた時や。あいついきなり手を前に回して手に持っとったブツをぬうってあたしの方に突き出しよってん。充分身構えてたから跳び下がって攻撃をかわすんはわけなかった。けどあいつが手に持っとったんはバチでも縄でもなくて、でっかい真っ赤なバラの花束やったんや」
 脳裏に映像を再生するようにおばちゃんは固く目を瞑り、救いを求めるように天井を仰いだ。
「そのでっかい花束差し出してエッチのやつなんて言うたと思う?」
 そのシチュエーションでKILL YOU!はないだろう。
「『大きくなったら僕のお嫁さんになって下さい』やて」
 せいぜい口を窄めると舌っ足らずな裏声でおばちゃんは告白シーンを再現した。おばちゃんが何と返事をしたかは充分に予想がついたがそれでも客達は固唾を呑んでおばちゃんの口元を見詰めた。
「あたし言うたってん。『あほちゃう?』」
 予想を遥に上回っている。
「たった、その一言だけ?」
「いやいや、あたしもそこまで不親切やないて。どんな相手にでも誠意は見せなあかんと思うてる。そやから分かり易く説明したった。『あたしはひ弱なやつは嫌いや。あたしより喧嘩弱いやつは嫌いや。あたしより足し算カード速いやつも、書き取り速いやつも、足速いやつも大嫌いや』ってな」
 単なる恨み言である。
「『もう一つ言うたら親の金でバラなんぞ買うて格好つけたがるやつは一番嫌いや。男やったら自分の技で勝負せんかい。ギター弾いて歌でも歌うてくれたら考えたるわ』っていうてん。これはちょっと意地が悪かったと反省しとる。あたしもエッチもめっちゃ音痴で大太鼓の取り合いしたんやもん」
 ふうと、おばちゃんは太い溜息をついて焼酎を煽った。
「エッチのやつ、ぶっ壊れたような顔しとったな。そらちっとは……、一億分の一くらいは気の毒かなて思うたで。けど悉くあたしを阻む天敵で、そのクセいっつも屈辱的な同情の目で人を見よって、頭の天辺から足の先まで都会っ子丸出しファッションで、おまけに巨人ファンの男にどないせい言うねん。何億光年経ったって結婚相手にするわけないやん」
 皆が『光年』はおかしい―と思ったが他にもツッコミ処が満載で口が開かない。
「言うだけ言うたらすっきりしたから、後も見んとさっさと帰ったわ」
「それで?」
 主人が代表質問する。
「それでって?」
「それで、そのエッチとはその後どうなったん?」
「どないもならへんよ。その日を最後に二度と会うてへんし。ま、死ぬまで会うこともないやろな」
 ケロッと言っておばちゃんは焼酎を飲み干した。
「いやあ、ええラブロマンス聴かせてもろたわ。何ぞちゃう話しょうか」
 バリキは首の凝りをほぐすように音を立てて骨を鳴らすとしきりに肩を揉んだ。

 

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