今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《7》

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  「一切、家に帰らんようになった。耕作ちゃんの実家にお嫁さんがおれんようにしてしもて、離縁に持ち込んで独身に復帰しよった」
「洒落にならん話やな。本人同士で話し合うとかもっと穏便に進めようとするやろ」
「わかっとらんなあ。時代背景はバリバリの昭和やで。しかも耕作ちゃんの家は格式高い旧家、お嫁さんもそれなりの家の出や。結婚も離婚も本人同士の気持ちや思惑でどうこうできるわけないやん。くっつくんも別れるんも決定権持ってるんは家ちゅう大きな仕掛けの方や。あたしは相手がどんな人やったかなんて全然知らんし知りとうもないけど、耕作ちゃんにしたって気持ちの良えやり方やったはずないやん。苦渋の選択やったと思うわ」
「しっかし、二十歳そこそこやろ。つくづく過激過ぎるで。よう真似せんわ」
「あたしらやからできたにきまってるやん」
「その耕作ちゃんの前の奥さんそれからどうしはったんですか?」
「知らん。知りとうもないし」
「けど、めっちゃ可哀そう。何も悪いことしてないのに」
 今度はしのぶが離縁された女性に同情して涙ぐむ。ふいに、おばちゃんの目が不穏に細められてきっかりとしのぶの顔を見据えた。
「あのな、しのぶちゃん。それは優しいとか人が良えのとはちゃうで。その人の残りの人生知ってどないするん?一生、後ろめたい想い引きずって生きていくか?こないなことなら自分が身を引いたら良かったって後悔するか?人間、幸せになりたいと思うたら意地でも忘れなあかんこともあるし、目瞑らなあかんことかて仰山ある。真剣に幸せになりたいと思うんやったら、後ろを振り返ったらあかんし、余計なことは何一つ考えたらあかんねん。それが残った(もん)の義務や」
 おばちゃんは太い息を吐いて軽く首を振るとにんまりと笑った。
「人生は短いねん。楽しんで生きな嘘やんか。でな、晴れて独身同士に戻ったしこれでバラ色の人生が始まるて、あたしは思うてた」
「じゃあすぐに耕作ちゃんと結婚しはったんですね。ええなぁ。羨ましいなぁ」
 現金なものでしのぶは又目を潤ませる。
「いや、思うてもみてへんかった伏兵がおった。そう簡単には結婚に至らんかってん」
「何ですのん?伏兵て」
「耕作ちゃんや」
 思い出すのも腹立たしいといった形相でおばちゃんは吐き出すように言う。
「ああもう、男ってなんであないに愚図いんやろな。二人とももうええ大人や。一応一通りの結婚も経験してたし周りもやかまし言わんようになってた。耕作ちゃんは日曜の度にデートに誘うてくれはった。けど、それだけやねん」
「それだけ?」
「プロポーズがないねん。いつ会ってもぐずぐず、ぐずぐず、って何か言いたそうにしてるだけでな水向けても話はぐらかしよる。こっちはおさげの中学生ちゃうねんで。あの鎧武者の勢いはどこ行ったんやてキレて帰ったこともある」
「ひっどぉ。おばちゃんそれだけ待ってはったのに」
「そやろ。最初の一、二カ月はまだ初々しいし、暫く恋人気分を味わうのも良えなあて思うてたで、それが半年経ち、一年経ち、二年、三年、五年……」
「ながっ」
「不安通り越して絶望的な気分や。よっぽど絶縁状叩きつけたろかいなと思うた」
 それは結婚しないと叩きつけられない。
「要は二人を引き裂く運命があったから盛り上がっててん。いきなり、あとは勝手に言われてもなあて気分やな」
「典型的な長過ぎた春パターンやな」
「聞いた風なこと言うてるんやないで。けどその通りやろな。そのうち結婚を切り出すのも難しくなってくる。毎週デートして、時々お泊まりしたりしてもう半分結婚してるみたいなもんやったもん。さすがに五年目には耕作ちゃんも焦りだしたみたいやった。なんぞ一発凝ったプロポーズかましたろいう雰囲気が漂ってきたわ」
「うわぁ、いよいよですね」
「それがまたへたれな話ばっかりやねん。夜中に電話で呼ばれて様子がおかしいから駆けつけたらベロベロに酔うてたりな。酔った勢いで告白する腹やったらしいけど朝まで介抱させられただけや。逆に朝早うに叩き起こされて伊丹空港まで来てくれ言うから慌てて行ったら血走った目付きで立ってたりしてな。あたし、柱の陰から観察しながら『あかん心中する気や』と察して逃げて帰ったわ。巻き添え喰ったらかなわんもん」
 シビアである。
「結局、伊丹で何しはるつもりやったん?」
「千歳まで連れて行って、結婚してくれんかったら帰らんて駄々捏ねるつもりやったらしい」
「わかりにくっ」
「性懲りもなく街宣車調達してきよったけど町内に入る前になんとか食い止めた。何が悲しうて町内の伝説に残るようなプロポーズ受けなあかんねん」
「いや、一生の思い出にはなるやろ」
「あのなあ、あたしはロマンチックが好きやねん。プロポーズの言葉はしっとりと秘めやかに囁いてほしいねん。そう仄めかしたらやっと分かってくれたみたいで週末に金星台で待ってるて言うてくれてん」
 気を持たせるようにおばちゃんは焼酎を一口煽った。
「約束の時間は七時やってんけどな、事故渋滞でバスが遅れて着いたら七時半回っててん。耕作ちゃんの足元見たらいっぱい吸殻が散らばってて焦ったな。耕作ちゃん、気い短いし、顔見たらもう我慢の限界みたいな顔してたし、ここは言い訳しても始まらんから取り敢えず謝っとこかて口を開き掛けた時や。いきなりでかい声で『この大事な日にいったい何分待たせる気や』て怒鳴りつけられてん。瞬間、頭ん中がプチンってキレてしもたわ」
 おばちゃん、勢いに任せて焼酎を飲み干す。
「あたしが何年待ったと思うてるん」
 ドスの利いたアルトが酔鏡に響いた。抑揚のない口調が聞くものを震え上がらせる。
「たぶん三分以上、耕作ちゃんはフリーズしてたと思うで。その後、ようやく意識を取り戻してちゃんとプロポーズしてくれた」
「何て言うてもろたんですか?」
「『結婚して下さい』って」
 おばちゃんは言いながら体をくねらせて恥じらった。象あざらしのダンスを見るような目付きでそれを見ながら、バリキが諦観とも安堵とも知れぬ溜息を吐いた。
「それから元町でうんと呑んで、酔った勢いで第五管区の海上保安庁の係留施設にこっそり入って、ポートタワー見ながら思い出の風に吹かれてを二人で歌うてん。あそこ、人が来うへんし穴場のデートスポットやで」
 来ないのではなく侵入しないのだとバリキはツッコミたかったが、あまりにもおばちゃんが幸せそうなので黙っておいた。その夜、艦艇の浮かぶ港は時ならぬ外国の反戦歌でたいそう賑やかだったことだろう。
「よかったですぅ。ほんとに二人がハッピーエンドになって。あたしめっちゃ嬉しい」
 目を潤ませながら、胸の前で手を組む。
「今でもお二人はラブラブなんでしょ。夫婦喧嘩とかしはらへんのんちゃいますか」
「夫婦喧嘩なんかしょっちゅうやで。ま、それは仲の良え証拠みたいなもんやから」
 おばちゃんとしのぶは「いややあ」とか言いながら親子のあざらしよろしく身をくねらせる。
「けどな」
 急におばちゃんの顔が真顔になった。
「どうしても許せんことが二つあるねん。一つはそのボブ・ディランや。結婚してから耕作ちゃんに風に吹かれて歌ってえなって、なんべんもリクエストしてるのに、絶対歌うてくれへんねん。『そんな曲知らん』の一点張りや。別に中学の時みたいにギターの生演奏でなくても良えねんで。カラオケでもアカペラでも良えから言うてるねんけど、その話したら『知らん』言うねん。あたしにとっては思い出の大事な曲やのに、耕作ちゃんにとってはどうでも良えんかなと思うたら、めっちゃ淋しい」
「ひっどぉ。おばちゃん今から抗議の電話しましょ」
 しのぶがおばちゃんの丸太のような腕に縋りつく。
「いや、許せん言うてもこれはあたしがちょこっと我慢すれば済む話やし。問題はもう一つの方や。最近、耕作ちゃんの浮気が発覚してん」
「ええっ」
 驚愕の色が走ったしのぶの顔は一気に怒りで真っ赤になる。
 

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