今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《8》

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  「何ですかそれ。最低やん。おばちゃん、そんな男とはすぐ別れた方が良えですよ。あ、警察にはちゃんと通報しましたか?」
「そやろ。ひどい話やろ。あたしも、すぐ警察に通報しよ思うてんけど何課にかけたら良えかわからんで困ってるとこやねん」
 かけてこられたら警察が困るだろう。
「先週の金曜のことや。耕作ちゃん、えらい呑まはってな。会社の部下に送ってもらいよってん。あっ、耕作ちゃんて大手の運送会社で今は専務やねんで。こっちも部下の人(ねぎろ)うてお茶の一杯も出すわな。そしたらその人、『今日は良え話聞かせてもらいました』言いよるねん。って、何が良え話やねん」
 おばちゃんは肩を怒らす。
「『専務の初恋の話聞かしてもろたんですわ』ちゅうからてっきりあたしのこと惚気られたんや思うて、いややな、素面で耕作ちゃんがどんな話したか聴かされたら恥ずかしいなって思いながらどないな話してましたって訊いてん」
「訊いたんかい」
「そしたらどうも様子が違う。『専務の初恋の人って、小学校一年生の同級生や言うてはりました。今でもずっとその娘が俺の心の星やねん』って、こう言わはるんよ。あたし目の前が真っ暗になったわ。あたしは中一の時に耕作ちゃんに一目惚れしてずっと耕作ちゃん一筋で来てんで。それがあたしの初恋や。そやのに、耕作ちゃんはちゃっかりその何年も前に女作ってたやなんて。いけしゃあしゃあと、どこの馬の骨ともわからん女つかまえて、初恋の人や、心の星やて今でも思うてるやなんて。部下の人がおらんかったらその場でいびきかいて寝てる耕作ちゃんのアルマーニのネクタイ解いてそれで首絞めたろか思うたもん」
「絞めないな」
「いや、耕作ちゃんアルマーニ好きやし」
「そうやなくて。それのどこが浮気やねん」
「ひっどお、あたし、おばちゃんの気持ちよう分かります。一時の浮気心やったら涙を呑んで堪えられるかもしれんけど、今でも関係が続いてるやなんて離婚調停もんやわ」
 『続いてないて』というツッコミを入れる気力は体力が売りのバリキでもさすがに失せていた。
「しのぶちゃん、あんたほんまに良え娘やなあ。なあ、今日からうちの娘にならへん?あの浮気者放り出して二人で暮らそ」
 おばちゃんはしのぶのポニーテールを弄くり回しながらうっとりとした声を出す。傍で見ていたバリキがどこまで本気か危ぶむほどその手の動きには執着心が感じられた。
「けどなんやね。もうちょっと大人っぽくしても良えんちゃうかな。あんたほとんど素っぴんやろ。折角こないに可愛いねんからもうちょっとおしゃれせなな」
 おばちゃんは足元の紙袋を探ると目が眩むようなラメ入りの紫色の化粧ポーチを引っ張り出した。
「口紅くらいつけてやね。あらあ、綺麗な桜色やね。リップつけるんが勿体ないくらいやわ」
 おばちゃんの万力のような手に顔を固定されて声も出せず身動きも取れずしのぶは両手でもがいた。
「それにポニーテールも可愛いけどもう大人なんやからたまには髪の毛を下ろしてメガネもコンタクトにしてみたらどうやろ。イメージ変わるよお」
 バリキと主人が慌てて止めようとしたが間に合わなかった。おばちゃんはしのぶの項に手を伸ばすと桜色のリボンをシュッと音をさせて解き、太い指で小さな鼻の上のフレームを摘むとメガネを外してしまった。
「へえ、結構髪長いんやねえ。でも、ちょっと鬱陶しそうやからわけてあげましょ」
 今度は目の眩むような原色オレンジのブラシを取り出してしのぶの髪を左右に梳きにかかる。
「思った通りやわ。だいぶイメージが違っ……、え?えええっ」
 仰け反るおばちゃんの前に二十歳の娘が姿を現した。度の強いメガネの奥に隠れていた大きな瞳は酒の酔いに手伝われて奥二重に変貌している。その瞳が焦点を合わせようとするように長い睫毛を添えてしきりに瞬かれる。長い髪は頬を掠めて軽くウェーブを巻きながら胸元に掛かり、白い丸顔にシルエットを与えてすっきりとした細面に見せている。しなやかに伸びた背筋が一瞬にして一段背丈を伸ばして見せた。
「あの」
 とまどったような声で低めのソプラノが柔らかく響く。
「ちょっとお。イメージ変わり過ぎやで。あ、しのぶちゃん、さっきの一緒に暮らそういう話なしな。忘れて。あたし、十六歳以上の女の子には興味持たれへんねん」
 だが、『ひっどぉ、幼児誘拐目的やったんですか?』といったボケは帰って来なかった。
「あの、少しよろしいでしょうか?」
「はいなんでしょ?ってなんで東京弁」
「おばちゃん解禁してしまいよったな。しのぶちゃんな、メガネとポニーテール外すと別人に変身するねん。何でか知らんけど」
「わたし、ついさっきまではこんなお話するつもりなかったんです。思い出に水を差すような気がして。でも、冗談めかしておっしゃってるけど、かず子さんがとても傷ついているのが分かるからやっぱりお話しします」
 しのぶは気持ちを落ち着かせるように猪口を煽ってから言った。
「耕作さんの初恋のお相手なんですけど、わたしやっぱりかず子さんじゃないかなって思うんです」
 

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