今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第三夜 吉田のおばちゃんのラブソング
《9》

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  「いやいや、かず子さんやてなんや照れるやん」
 吉田のおばちゃんは身をくねらせた。
「けど、そやかて小学校の同級生ていうてるんやで。あたしが耕作ちゃんに出逢ったのって中一の時やもん。話が合わへんやん」
「忘れているだけで、かず子さんは耕作さんに小学校の時に会われているんじゃないかなと思うんです。かず子さん、わたしに教えてくれましたよね『幸せになりたいと思ったら意地でも忘れないといけないことがある』って。きっとかず子さんは前を向いて歩くために嫌なことやつらいことを全部振り払いながら生きて来られたんだなと思いました」
「ま、済んだことは水に流す主義やからな」
「小学一年生の時の転校生のことも名前や顔を忘れておられるんじゃないでしょうか?」
「当然やん。一番思い出しとうないことの一つや。エッチて綽名を忘れられへんだけでも屈辱やのに顔や名前を憶えとるわけない」
「わたし、耕作さんとの出会いのお話を伺ってあれれと思ったことがあるんです。かず子さんの質問に耕作さんおかしな返事をされましたよね。『好きな食べ物は?』って訊かれて、『いや、和食はちょっと』って。で、そのすぐ後につまらないことを言ってしまったと後悔するみたいにそっぽを向かれた」
「よう憶えてるなあ。確かにそう言うたけど」
「普通、好きな食べ物はって訊かれたら、ハンバーグとかきんぴらとか好きな物の名前を出しますよね。だのにどうしていきなり和食が苦手とおっしゃったのでしょう」
「さあ、なんででしょう?」
 おばちゃん、しのぶの口調が感染している。
「耕作さん、かず子さんのご実家が日本料理屋さんだとご存知だったんですよ。それがいきなり食べ物の質問をされて口を滑らせてしまったんです。だからすぐに『しまった』っていう顔になったんじゃないかなってわたし、思うんです」
「ええっ、だって転校してきたばっかりの初対面の会話やで」
「ですから、耕作さんは初対面じゃなかったんですよ。ただある理由から自分のことを思い出してほしくなくて、かず子さんには初対面のふりをしていたんです」
「まっさかあ。あたし小学校ん時は恋愛恐怖症やったって言うてるやん。思い出されとうないって思われるほど深い関係になった男はおらへんで」
 おばちゃんが言うと妙にいやらしい。
「そのトラウマの原因になったエッチ君はもしかず子さんに再会されても絶対に思い出してほしくないって考えたと思いますよ。だってかず子さんの何倍ものトラウマを受けたと思いますから」
 しのぶは憐憫を含んだような遠い目をした。
「だって、耕作ちゃんやで。K・O・U・S・A・K・U。どこにもエッチなんか出てこんやん」
 おばちゃんはグラスについた水でカウンターにスペルを綴った。
「あれ、伸ばす音はO・Uやなくて、上に山形書くんやなかったっけ」
 横合いからバリキがUを消してOの上に^を書いた。
「そうやったかな。どっちにしても同じこっちゃ」
「ん?ちょっと待って。Hがあったんは名字の方やったんちゃうか?YOSHIDAってHがあるやん」
「それはないな。あいつ、格好付けて英語風に下の名前を先に書いててん。で、すぐにHいう字を見付けて、わあヤらしと思うたからよう覚えてる。そっから先、名字なんかはよう覚えてないわ」
「多分、そのエッチっていう一文字がかず子さんの目隠しになっていたんだと思います。実際には和食の一件だけじゃなくて出逢ったばかりの頃には、あれれって違和感を感じることがいくつもあったんじゃないかなってわたし想像します。でも、名前にエッチが入らないから二人が同一人物のはずがないという先入観があって違和感の方に目を瞑っていたんじゃないでしょうか?いずれにしてもお二人が親しくなられていくにつれて初対面だったかどうかは関係のないことになっていったはずです。でも、もし耕作さんとエッチ君が別人だとしたら偶然があまりにも重なりすぎていると思いませんか?」
 しのぶは記憶を手繰るように目を細めた。
「小学校の時、かず子さんはエッチ君に向かって彼が嫌いな理由を沢山並べましたよね。
『ひ弱な奴』
『あたしより、喧嘩が弱い奴』
『あたしより、足し算カードが速い奴』
『あたしより、書き取りが速い奴』
『あたしより、足が速い奴』
『親御さんのお金でバラなど買って格好をつける奴』
 伺っただけで六つもおっしゃってます。その上で、『男だったら自分の技で勝負しろ。ギター弾いて歌でも歌ってくれたら考える』っておっしゃったんですよね」
「なんや凄まじい記憶力やな、しのぶちゃん」
 さしものおばちゃんもたじろいだ。
「耕作さんは空手と合気道で鍛えられてひ弱な男子じゃありませんでした。もちろん、本気で格闘したらいくらかず子さんでも勝てませんよね。中学から始まった英語は別としたら、数学が苦手で、国語が苦手で、いつもかず子さんが教える立場でした。スポーツ万能のくせに走るのは苦手でかず子さんの方がタイムが良かった」
 呆気にとられていたおばちゃんの目の焦点が徐々に定まり始める。
「耕作さんは今まで秘密にされてきたみたいですしとても言いづらいのですけど本当に数学や国語が苦手だったんでしょうか?大企業で専務にまで昇進された方です。中学の一般教養は別と言われればそれまでかもしれませんけど、会社の経営を任される立場の役員がそろばん勘定できないはずがありませんし、取引先と複雑な文書を取り交わすのが日常業務なのに国語がまるでできないというのも違和感があります。走るのが苦手っていうのはもっとそうです。耕作さんが得意な武道はよりによって空手と合気道。どちらもスピードと瞬発力が重視される流派です。走ること『だけ』が苦手というのはどう考えても変です」
 おばちゃんの目の焦点が完全に合ったかと思うと象あざらしの巨体が盛大に震えだす。
「あんのがっきゃ、なめくさって。やっぱりアルマーニで絞めとくんやった」
「ごめんなさい」
 しのぶが今にも泣きだしそうな顔になって頭を下げる。
「なんでしのぶちゃんが謝るねん」
「だって本当は耕作さんはずっと秘密にしていたかったと思うから。絶対にかず子さんにだけは知られたくないと思っているはずだから。もし、知られてしまったら取り返しがつかないくらい嫌われてしまうかもしれないってずっと怯えておられたと思うから」
 言いながらしのぶはとうとう泣き出した。
「だから、ごめんなさい。本当は話すべきじゃないんです。でも、小学校の時の初恋の想い出を今でも大事にしていて、あんなに酷いことを言われたのにそれでも諦めずにとうとう思いを遂げて、何十年経った今でもその人が『心の星』だって躊躇いもなく人に言える誠実な人なのに、浮気と誤解されるなんて可哀そう過ぎます」
「いや、浮気ちゅうのは言葉の綾やから」
 大人の女性に変身しているしのぶの肩を抱いてやる気はないらしく、おばちゃんはひたすらうろたえた。
「おんなじことです。耕作さんは小学校の時からかず子さん一筋なのに、それを別の女性と関係があったみたいに邪推するなんて……」
 しつこいが小学生の話に聞こえない。
「疑うことは罪です」
 牧師のように言って、しのぶはかず子を見据えた。涙を溜めた上目遣いの目が恨みがましく向けられる。
「ひ弱な体を克服するために武道で体を鍛えて、本当は得意な数学も国語も走ることも苦手なふりをして、音楽が苦手なはずなのに血の滲むような努力でギターの練習をしてプロポーズの時に歌をプレゼントしてくれたんですよ。かず子さんがエッチ君に並べ立てた嫌いな男子像が、五つも六つも重複するなんて偶然であるはずがないじゃないですか。耕作さん自身がその言葉を言われた本人だったんです」
「あ、うん」
 しのぶの勢いに呑まれて吉田のおばちゃんは思わず頷いてしまう。それから考えをまとめるように空になったグラスの丸い縁を太い指の腹でしきりに撫でていた。
「……、確かに言われてみたらその通りや。ローマ字のことがあったから考えてみたこともなかったけど、同一人物ちゃうかて目線で見たら思い当たらんこともない。けどなあ、しのぶちゃん。小学校ん時の転校生の名札に入っとった字がエッチいうんは絶対間違いないねんで。だってあたしアルファベットはビーとエッチしか読めんかってんもん。ビーと間違えるはずないし……、って耕作ちゃんの中にはビーもないか」
 汐が引いていくようにしのぶの頬の朱みが和らぎ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さっき、かず子さんとバリキさんがおっしゃったじゃないですか。耕作さんのローマ字表記の中で『お』を伸ばす音をどう表記するか。かず子さんはO・Uとおっしゃり、バリキさんはOの上に^を書くとおっしゃりました。母音を伸ばす音については今でも複数の表記法があってお二人のおっしゃる表記のどちらも合ってはいるんです。ただこの場合、エッチ君にローマ字を教えた先生が外務省にお勤めのお父さんだったということがポイントだと思うんです」
 しのぶは息継ぎをするように猪口を傾けた。
「学校で習うローマ字表記は日本語の表音に沿った国内規格の訓令式というものです。ただ、外務省で使われるローマ字には独自の外務省ヘボン式が採用されているんです。この表記の中でもOの長音は特徴的でバリキさんがおっしゃったような^を書くことはしません。K・O・S・A・K・Uと書くか……」
 言いながらしのぶはカウンターにスペルを綴った。
「エッチ君が大ファンだった巨人軍に後に現れる大選手が背番号の下に書いていた表記のように……」
 しのぶは、KOHSAKUと書き直した。
「こう書かれていたんじゃないでしょうか?」
「……、そういうことかいな」
 しのぶの手元を覗き込んでいたおばちゃんは脱力したように大きな肩を下げて丸椅子を軋ませた。
「あの、まさか今晩お家に帰って耕作さんと喧嘩したりしませんよね。このことで耕作さんを怒ったりしちゃ……、嫌です」
 まるで自分のことで両親が夫婦喧嘩を始めたのを目の当たりにした少女のようにしのぶは怯えた目でおばちゃんを見上げてその手に縋った。
「する……かいな。安心し。あたしは済んだことは水に流す主義や」
 おばちゃんはちまっとしたその口の端を上げてしのぶを安心させた。
 

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