今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第一夜 夢見る頃を過ぎても
《2》

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 客の誰もいない店の中はひんやりとして静かだった。L字型のカウンターに赤い革張りの丸椅子が十脚ばかり。テーブル席はない。思いの外に明るく蛍光灯の光が店の中を照らしている。壁も柱も煤で磨いたように年季を積んで燻されているが、不思議と薄汚れている印象はなかった。分厚い一枚板で(こしら)えたカウンターはきれいに磨かれ、銀色の箸立てと灰皿が整然と並んでいた。
「あ、あの……」
飛び込んだまでは良かったもののこれからどうしたら良いかあぐねている少女に主人は重ねて、
「好きな席に座りぃや」
と言った。日焼けした顔が人懐っこそうに笑っている。
まだ座りかねている彼女の背後で格子戸が開き例の三人がどやどやと入ってきた。『ひいっ』と少女は短い悲鳴をあげてまた一歩たじろいだ。
「ほんま、なんちゅうこっちゃ」
言って金剛力士が真ん中あたりの丸椅子に腰を下ろす。椅子が大きな音を立てて軋んだ。
「一番ビール、この()に持ってかれてしもた。ん?なんや、あんた何でまだ立ってるのん?」
 男は改めてしげしげと娘を見つめる。
 白いブラウスの上にごわごわした野暮ったいコート。誰かのお古のようなチェックのスカート。小さな子供の余所行きのような黒い革靴はよく磨かれていたが些かくたびれている。俯きがちの頭の後ろで一昔前に流行ったようなポニーテールが揺れている。
 どちらかというと丸顔の顔立ちは、そばかすが残るあどけなさと相俟ってやはり中学生にしか見えなかった。
「おい、おい、おい、未成年に飲ませたらまずいやろ。と、言うことは何か?おっちゃん、最初に座った俺が一番ビールか?」
「なんでやねん」
 キツネ目男が言い返しながら隣の席に座る。
「最初に店に入ったんはわしや。せやからビールはわしのもんや。けど大将、バリキの言う通りや、なんぼ流行らん店やから言うて呑み屋に中学生はまずいで」
 男は座ったままもぞもぞとジャンパーを脱ぐと雑に丸めて傍にあったビールケースに放った。
「お言葉ですが」
 髪の毛を乱したドクがそのまた隣に座る。
「店の戸に手をかけたのは私ですよ。ユウやんが押し退けて入ったんじゃないですか。当然ビールは私のものです。だがご主人、二人の言う通りだ。そもそも中学生のしかもお嬢さんを呑み屋に入れること自体、私は感心しませんな」
 男達の視線が少女に集まった。少女は俯いている。ポニーテールを束ねた細身のリボンが蛍光灯の光を受けて桜色に光っていた。
「ええと……」
 沈黙に耐えかねてユウやんと呼ばれた男が口を開きかけた刹那、少女がゆっくりと顔を上げた。きゅっと口を結んで銀縁メガネの奥から真っ直ぐに主人を見つめる。
「私、二十歳です。だからお酒呑めます」
 主人は瞬き二つ分くらい彼女を見つめてから、にっと笑った。
「ま、座り」
 彼女は頷くとコートを脱いでカウンターの端の席に座った。脱いだコートは丁寧に畳んで膝の上に載せる。『どうせ空いてるし、隣の席に置いといて構へんで』その窮屈そうな格好に主人は笑いながら言った。
 馬鹿丁寧なお辞儀を返して、彼女はコートとかばんを隣の席に置いた。
 主人は素早く冷蔵ケースから冷えたジョッキを取り出し、ビアサーバに傾けた。コックを倒すと本日最初のビールの泡がシュッと鋭い音を立ててひと吹きする。主人はその泡をシンクに捨てると改めてコックを倒す。ゆっくりと黄金色の液体がジョッキを満たし、仕上げにコックを反対に倒すと白い泡が蓋をしていく。
「ほいお待ちど」
 少女は目の前のジョッキをきょとんとした顔で見つめている。
「え?私、まだ何も」
「俺の流儀でな、店の一番客の一杯目は俺の奢りやねん。こいつら三人はそれが目当てで毎度駆け込んで来よるんやけど……」
 主人はにっと笑った。
「こいつらに襲われると思ったんちゃう?」
「あ」
小さな声を上げた彼女は傍目にも分かるほど頬を朱くした。
「ごめんなさい……」
 律儀にパッと立ち上って頭を下げる彼女に男達の方が慌てた。
「ま、まあええがな」
「そやそや、こっちもあからさまに挙動不審やったしな」
 ユウやんとバリキが口々に言う。その横でドクがふと気付いたように言った。
「それはそうと、あなた何か別の用事があったのではないですか?もし我々のせいで足止めを喰わせたのだとしたら申し訳ない」
「そら、センセの言う通りやな」
「いえ……、私、このお店に入ろうかどうしようか迷って立っていたんです」
「へ?なんでまた」
「私、今日誕生日なんです。それでお酒を飲んでみたいなあと思って」
 男達は改めて娘をまじまじと見た。化粧気はほとんどなく、小さいが形の良い口元の淡い桜色も地のようだ。口紅では真似のできないその艶やかな色合いが銀縁メガネの奥で動く小さな一重まぶたの野暮ったい印象とちぐはぐな感じがした。
「ま、ビールがぬるうならんうちに飲み」
 主人に言われて頷くと、彼女は意を決したように目の前のジョッキを持ちあげた。その小さな唇にガラスの縁をあてがう。ゆっくりとジョッキが傾けられ黄金色の液体は彼女の口から喉に流し込まれていく。白い喉が小さく動くさまが小気味良かった。
 一息にジョッキの半分程を飲み乾してふうと息をつくと「おおっ」と男達はどよめいた。
「こら、ほんまもんの酒呑みやで」
 ユウやんが感に堪えたように首を振った。
「うわぁ、めっちゃおいしい」
 不意に天井から降って来たような甲高い声が響いた。声の発信源をきょろきょろ探す男達の視線が再び彼女に集まる。手の甲で口を拭っていた彼女もその視線に気づいた。
「えっ?なんですのん?」
「いや……、なんで急に関西弁?」
「あ、あたし地の喋りはこんなんですぅ」
 あまりのギャップにのけぞる男達の前にいつの間にやら魔法のようにジョッキが並んだ。
「ま、まあ、なんにしてもめでたい。遅ればせながら乾杯といこやないか。ええと……」
 バリキと呼ばれた大男が彼女を見遣った。
「え?あたしですか?しのぶと言います」
 娘は下の名前で答えた。
「ほな、しのぶちゃんの二十歳の誕生日に乾杯」
 バリキの音頭でジョッキが賑々しく鳴り、しのぶもジョッキを掲げてお辞儀をした。
「時々前を通るんですけど、変わった名前のお店やなあって気になってたんです。それで二十歳になったら行ってみよう思うて……。あの名前は音読みで良いんですか?」
 急に饒舌になったしのぶが尋ねる。
「そや、すいきょうと読むねん。酒呑むとその人の地が出るやろ。飲み方ひとつとっても人柄いうもんがよく出る。で、酔いは人の鏡いう意味でつけたんや」
「あれ?前は一流企業を脱サラしよった酔狂な男が始めた店やからて聞いたで」
 ユウやんが口をぬぐいながら言う。
「そうともいう」
 しれっと主人は返した。
「ええかげんやな」
「あるいは、高校の時に初恋の人に振られて、一途な想いで独身を通した酔狂な美少年がやってる店という説もある」
 バリキが飲みかけたビールをぶっと吹いた。
「六十のおっちゃんに美少年て、言われたかてなあ」
 唐突に店の中に巨人の星の主題歌が鳴り響いた。素早く反応してバリキがポケットから携帯を取り出した。

 

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