今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第一夜 夢見る頃を過ぎても
《4》

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「そういえば今日えらいショックなことがあってん」
 ユウやんが中華トーストの最後の一枚を名残惜し気に口に入れながら言った。
「電車でな、前に座った小学生がチラチラわしの方見よるねん」
「なんや小学生にガン飛ばされたんかいな」
 バリキの方は付け出しはとうになくなっていて、空にしたジョッキを振って三杯目を注文した。
「まだその方がマシやで。その小学生思い切ったみたいに立ち上がってな、わしのジャンパーの裾引っ張って、『どうぞ』って席譲ってくれてん」
バリキはカウンターを叩いて笑った。
「ま、その子から見たら充分年寄りに見えたちゅうこっちゃ」
「あのなあ、わしまだ四十一やで」
「ええっ、四十一なんですか?」
 急にカウンターの向こうからしのぶが頓狂な声を上げる。
「って、いくつに見えとったんや?」
「いえいえいえ、ご苦労されたんやろなって……」
「フォローになってへんし」
「大丈夫ですって、ご自分で気になさってるほど老けて見えませんから」
 墓穴を堀りまくるしのぶ自身、ポニーテールに銀縁メガネと相まって、やはり中学生がジョッキを傾けているようにしか見えない。
「ほい、まずセンセから」
 主人は漆塗りの平板を出した。
「お正月やからな、せめて器は奮発させてもろたで。輪島や」
 黒光りする平板には、手前に数の子、ごまめ、黒豆の三種の神器が綺麗に盛り付けられていて、奥には(ぶり)の照り焼きにはじかみ生姜の紅が色を添えている。皿の端に飾られた葉付きの金柑がお正月らしい演出になっている。
「良いですねえ。オーソドックスですが日本のお正月って感じがします」
「いろいろな種類の料理をちょこっとずついうところがお節っぽいやろ」
「日本人らしからぬリクエストですけどワインは何かありませんか」
「ボトルしかあらへんけど、呑みきってくれるんやったら出すで」
 センセが『もちろん』と答えたので主人は冷蔵庫からグリーンのボトルを取り出した。普通のワインボトルと違って花瓶のように胴が張っている。主人はセンセの前に透明なワイングラスを置くと、綺麗な手さばきでコルクを抜いて薄桃色のワインをなみなみと注いだ。
「ポルトガルのマテウスや。おめでたい日はこれて決めてるねん」
 センセは静かにグラスに口をつけると一口飲んだ。ロゼワインのさっぱりした呑み口に微かな発泡がお気に召したようで、さっそく料理に取り掛かる。
「ほいお待たせ。二色の竜眼揚げや」
 ユウやんの目の前に黒い平皿が置かれた。大葉を敷きつめた上に細長い揚げ物が輪切りになって二本並んでいる。
「お、こっちの竜眼は目が赤いな」
 輪切りにされた一切れを箸で摘んでユウやんが言った。
「お節の竜眼揚げはささみを開いて焼き海苔に鶉卵を巻いて揚げるやろ。で、輪切りにして金色に光る竜の目に見立てるわけや。そっちのは大葉に明太子を巻いてみた。お正月やし紅白でめでたいなという趣向や。お重に詰めて冷めてるやつより揚げたての方が揚げ(もん)は美味しい。ま、呑み屋の特権やな」
 バリキとしのぶの前には湯気を立てている角煮が並べられる。煮つけた大根と半分に切った玉子が如何にも旨そうだ。
「うわ、めっちゃおいしそう。バリキさんすみません。いただきます」
 しのぶは丁寧にお辞儀をして箸を取った。
「どういたしまして。俺もいただきます」
 言ってバリキは豪快に箸で肉を切って口に運んだ。
「柔らかい肉やな。めっちゃええもん使こてるんちゃう?おっちゃん、いっつも気になってるねんけどホンマにあの値段で元取れるんかいな。なんや凄い贅沢させてもろてる気がするねんけど」
「そこは工夫やて。仕入れも産直や養鶏業者から卸してもろて原価抑えてるし、その角煮にしても普通の肉で煮込み時間をたっぷりかけたらそれくらい柔らかくなるんやで」
 客達はしばし黙々と料理を胃に収める作業に集中した。
「そや、この前めでたいことがあってん」
 バリキが人心地ついた顔で言った。
「俺の勤めてる工場の近くにある定食屋の大将がな、十歳年下の常連さんと結婚しはって、その店でお祝い会やってん。その大将の年がなんと五十六。初婚やねんで」
「良え話やん」
 ユウやんが焼酎の湯割りから顔を上げる。
「五十を過ぎても恋する気持ちを忘れてへんかったいうわけや。わし思うけど、そういう気持ちに年は関係ないで。いくつになってもやな、夢見るころの想いを抱き続けるというのはええことや」
 ユウやんが意外にロマンチックなことを言った。
「むしろ恋もスポーツも音楽も興味ないて顔してる若者見ると何の夢も持ったことないんちゃうかと思って不安になるわ」
「それは大きなお世話でしょう。何もスポーツや音楽だけが青春じゃないと思いますよ」
 心なしか、冷やかにセンセが言った。
「けど若者がみんなそうやないで、センセんとこのお嬢さんなんか夢まっしぐらいう感じやん」
 バリキが取りなす。
「女子大生のお姉ちゃんはバンドやってはるんやろ。それもプロのバックバンドいうんやから大したもんや。下の子は、ダンススクール通てて、えらい筋が良えて言うてはったやん。ちゃんと夢を追いかけてる若者もいてるわけで……」
 冷やかなまなざしでセンセに見返されてバリキの言葉は尻すぼみになった。センセの額には深い皺が刻まれていた。
「それがいけないんです」
 センセは勢い良くグラスを煽った。
「あの二人は夢と現実を混同している。上の娘は今度オーディションを受けてソロバンドを目指すと言いおった。それに煽られたのか、下の娘まで高校を卒業したらジャズダンスのインストラクターになりたいと言い出す始末です」
「夢があってええやんか」
「そんなものは夢でもなんでもありません。もっと地道に学業を修め、堅い仕事について、幸せな結婚をして……」
「いつの時代の話や」
「時代は関係ありませんよ。あの二人がやっているのは、夢を追い駆けるという方便を使った現実逃避です」
 センセはグラスにワインを並々と注いで、それをまた一気に煽った。
「あろうことか暮れにそのことで説教したら上の娘は出て行ったきり正月にも戻りません。下の娘は口もきいてくれなくなりました」
 センセは丸椅子の上でそのままうなだれる。背中が『真っ白に燃え尽きちまったぜ』と語っているような気がした。
「ちょっ、ちょっと、あしたのジョーにならんといてや。もしかして家で誰も口きいてくれんようになったから呑みに来たんかいな」
 センセの肩はぴくりと震えて、次の瞬間がっくりと落ちた。
「うわっ、ちょっと待ってえなあ。振った話題がまずかったか。なあ、バリキなんかフォローしたって」
「言うてもなあ……。センセの気持ちもわからんでもないけど、せっかく呑み屋に来たんや。いっとき、その話は忘れてなんぞ別の話題にしような。……そや、センセ年末に会うたとき、帰り際にけったいな話してへんかったか?大学の同窓会で聞いてきた本屋のミステリーがどうとか、年明けに話してくれるって言うてたやん」
 バリキの言葉にセンセはがばっと顔を上げた。丸眼鏡をずり上げ、ついでに髪を少しなでつける。どうも誰かに構ってほしかっただけらしい。あしたのジョーモードから脱出するきっかけを窺っていた節がある。
「そういえば、そんな約束をしていましたね。いや、ミステリーというほど大した話ではないんですよ。別に本屋で密室殺人が起きたといった話ではないし……」
「いやいや誰もそんなん期待しとらんて。酒の肴になったら十分や」
 バリキに促されて、センセは話しだした。

 

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